弐
朝日が昇り、表通りでチュンチュンと雀が囀っていた。
寝不足顔で、一が布団を畳んでいた。
〝昨夜は隣の学生達が夜遅くまで、サーブだ、スマッシュだ、ボレーだと議論したあげく窓を開けて、大声でエールを送ったりしていた〟
そう独白しながら一は電車の切符を一枚持って下宿を出ようとした。
「石川さん。だんなが呼んでますよ」
昨日の女中が、呼び止めた。
「家賃の事なら、今日中に返事をすると言っておいて下さい」
邪険に、一は答えた。
「ちょっと、石川さん」
追い駆けて来る女中を振り払うようにして、一が出て行った。
勤め先の新聞社に着くなり、一は事務所を訪れた。
「またかね」
事務長は、言った。
「帰りの電車賃もないものですから…」
一は、答えた。
「じゃあ、この紙に署名捺印して」
渋い顔で、事務長は借用証を差し出した。
「どうも、すみません」
済まなそうに、一は名を書いて判を捺した。
借用証には、〝金弐拾伍円也〟と記されていた。
金を手にすると、仕事もせずにそのまま退社した。
電車に乗った。
〝社の帰り、歌人の吉井勇君と一緒になった〟
「どうですか、小説のほうは」
吉井が、聞いた。
「最近は、外来文化の研究に忙しくて」
好い加減に、一は答えた。
〝俺の小説が不評なのを知っているくせに、わざと訊いているのだ〟
「そうそう、活動写真などは、観に行きましたか?」
内心をぐっと飲み込んで、一は言った。
「まだ、わざわざ行った事はありませんが」
吉井は、言った。
「面白いもんですよ。行ってごらんなさい。昨夜など、アリとキリギリスを観て来ました」
一は、解説した。
「なんでしょう。こう、パーッと明るくなったり、パッと暗くなったりするんでしょう?」
吉井が、聞いた。
「それが、面白いんです」
適当に、一が答えた。
「目が悪くなりますね」
吉井は、言った。
「ハ、ハ、ハッ」
世情に疎い吉井に、一は勝ち誇ったような表情をした。
「それじゃ、私はここで失礼します」
ばつが悪いのか、吉井は電車を降りて行った。
〝バカバカしいほど、虚しい会話だ…〟
窓外に小さくなっていく吉井の後ろ姿を見ながら一は思った。
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