啄木の詩

不来方久遠

 明治末期の東京の下町だった。

 良く晴れた空に、激しい西風が凄まじい音を立てて桜吹雪を降らせていた。

 往来を、忙しげに人力車が駆けて行く。

 サラサラと砂ぼこりが舞った。

 その下宿屋は、珍しい三階建てであった。

 入口に、〝蓋平館〟と書かれていた。

 ラケットを素振りしながら勇ましげにテニスウエアに身を包んだ数人の男子学生達が出て来た。

 学生達とすれ違いに、唐草模様の風呂敷を重そうに背負った貸本屋のおやじが蓋平館の中に入って行った。

 薄暗い、狭くて急な階段を息を切らせながらおやじが一段一段昇って行った。

「ひどく、吹きますなあ」

 ゼーゼー言いながら三階にある一室の戸を開けるなり、おやじが言った。

 三畳半の部屋で、ガタガタと揺れる窓をボンヤリと寝転がって眺めている一の姿があった。

「ですが、今日中にゃ、東京中のサクラが残らず咲きますぜ。風があったって、あなた、この天気でございますもの」

 手のひらで鼻をこすり上げながらおやじは、風呂敷をほどき出した。

「とうとう、春になっちゃったねえ……」

 ボソリと、一が呟いた。

 窓には、空に散らばった白い雲の向こうに富士山が見えていた。

「ええ、ええ」

 聞いているのかいないのか、夏目漱石や森鴎外などの書籍を取り出しながらおやじは言った。

「春はあなた、私どもには禁物でございますね。貸本は、もう、からダメでがす。本なんか読むよりゃ、また遊んで歩いたほうがようがすから無理も無いんですが、読んで下さる方も自然とこう長くばかりなりますんでね」

 いそいそと適当に見繕った数冊の本を、おやじは置いた。

「それじゃ今日はこれで、それと払いは月末という事で」

 残りを風呂敷にまた包んだ。

「ああ。どうもすまないね」

 生返事で一が答えると、ピシャリと戸が閉まった。

「さて、出かけるとするか」

 一は、三枚綴りの電車の回数券を二枚ちぎり取ると羽織を着た。

「石川さん! だんなが呼んでますよ」

 階段を降りた玄関先で、大柄な女中に一は呼び止められた。

「今、社に行くところだ。後にしてくれ」

 そう言って、逃げるようにして一は下宿を後にした。

 車窓から東京朝日新聞社と看板を掲げた建物が見えてきた。

 一は電車から降りて、社に向かって行った。

 編集局の一室の片隅で、おじいさん達と一緒に一は校正の仕事をしていた。

 判で押したような退屈な業務を黙々とこなした。

 社の柱時計が五時三十分を差した。

「お先します」

 待っていたかのように、一は言った。

「お疲れさん」

 同僚のおじいさんの一人が、声を掛けた。

 帰宅途中、本郷を通過した時だった。

 東京大学構内の桜並木の通りが花見客で賑わっていた。

〝春だ!〟

 と感じた一の前を、三歳くらいの女の子を連れた若い母親が通り過ぎた。

 一の妻が子供を抱きながら寂しそうにしている姿と重なった。

〝四月までに、きっと呼びよせる。そう俺は言っていた……〟

 一は、思い返した。

 辺りは暗くなり、蓋平館の電燈がチラチラと切れかかって明滅していた。

 テニスウエアに身を包んだ学生達が元気なく帰って来た。

「石川君、入るぞ」

 一の部屋に、背広を着たハイカラ姿の青年が入って来た。

「やあ、金田一君か」

 その青年を、一は快く迎えた。

 金田一京助は、石川一が退学をした盛岡中学時代の先輩で東大を出た後、三省堂に勤めるエリートであった。

 そして、唯一無二の生涯にわたる親友でもあり後見人でもあった。

 後に、言語学者となりアイヌ・ユーカラの研究で文化勲章を受けた。

「浅草に、活動写真屋ができたのを知っているかい」

 金田一は、言った。

「ええ。何でも、『アリとキリギリス』という噺を演っているとか」

 一が、答えた。

「是非、行こうじゃないか」

 金田一が、誘った。

「今から?」

 一は、聞いた。

「近代文明を識る一つのチャンスだよ、キミ。なあに、金なら心配無い。さあッ」

 急き立てるように、金田一は一を連れ出した。

 二人は、浅草の活動写真館に入った。

 スクリーンに、貧しげなキリギリスと富んだアリが映っていた。

 下町育ち風の親子が、煎餅をかじりながらそれを見ていた。

「そして、生活がキリギリしくなりました」

 弁士が、言った。

 観客が、どっと大笑いをした。

 金田一はニヤリと笑い、一はウンザリといった顔をしていた。

 蓋平館に戻り、階段をと金田一が昇っていた。

「いま一つだったね、近代文明は」

 一は、言った。

「僕は、そうでもなかったが」

 金田一が、答えた。

〝バカヤローッ〟

 二人が一の部屋に戻って来ると、隣室から怒号が聞こえてきた。

 テニス部の学生達が酒を飲んで暴れていたのだった。

「貴様等ぁ。口惜しくないのかッ!」

 酔っ払ったリーダー格の学生が、勢い余って振り回したラケットで裸電球を叩き壊して

しまった。

 室内が真っ暗になった。

「いい加減にしろよ」

 別の学生が、言った。

「何ぃ! なんだその言い草はッ」

 電球を壊したリーダーが、食ってかかった。

「暗いよ狭いよ怖いよォ」

 気弱な学生は、団子虫のように身を縮めた。

「先輩、まあ穏やかに」

 温厚な学生が、激昂するリーダーをなだめた。

「バカヤローッ。そんな事だから、そんな事だからなァ」

 と言って、リーダーは泣きじゃくってしまった。

「おかあちゃ~ん」

 気弱な学生が、泣き叫んだ。

 その様子は薄い板壁一枚で仕切られた隣の一の部屋に筒抜けだった。

「すごい騒ぎだね」

 金田一が、言った。

「何でも、京都から庭球の試合で、遠征して来たらしい」

 一は、答えた。

「で、結果がこの騒動かい。まるで、今観てきた活動のような賑わいだね」

 金田一は、言った。

「ハハハ」

 一は、笑った。

「そろそろ、部屋に帰るとするよ」

 おもむろに、金田一が懐中時計を見た。

「そうかい。それじゃ、おやすみ」

 一は、言った。

「キミこそ、シュトルム・ウント・ドランクに巻き込まれずに、おやすみ遊ばせ」

 隣室を指差しながらそう言い残して、金田一は帰った。

〝ファイトーッ!〟

 リーダーの声がした。

〝オスッ〟

 他の学生等が答えた。

〝ファイト!〟

〝オッ〟

〝ファイト!〟

〝オッ〟

〝ファイト!〟

〝オッ〟

 学生達の騒ぎは夜通し続いた。

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