浅草駅に着いた。

「お乗換えは?」

 駅員が、聞いた。

「なし」

 そう答えると、一は電車を降りた。

〝また、行くのか?〟

 一は、反問した。

 浅草寺に向かって歩を進めた。

 雷門近くの牛丼屋に入って、腹ごしらえをした。

 詰まらなそうに、活動写真館を覗いた。

 雑誌屋で、『スバル短歌号』を買った。

〝行くな! 行くな! 一文無しになるぞ〟

 一は、葛藤していた。

 足は、吉原を向いていた。

〝函館では、困っているぞ〟

 きらびやかな遊郭地帯を、一は一気に走り抜けた。

 場末で、息を切らせながら日立屋という店の前を通り、角の金科亭前のポンプで水を飲んだ。

 その店の格子の間から、白い手が出て一の袖をソッとつかんだ。

 月明かりに、チラッと女の顔が映った。

〝ああ! 小奴だ。小奴を二つ三つ若くした顔だ〟

 一の脳裏に、吹雪の中で幻想的な雪女のような小奴との体の交わりが思い起こされた。

 小奴とは本名・近江じんと言い、放浪した釧路時代に交渉があった芸妓の源氏名であった。

 フラフラと一は誘い込まれて、その茶屋に入ってしまった。

「ハナコです」

 女が、源氏名を言った。

「歳は?」

 一は、尋ねた。

「拾七」

 女が、答えた。

「それでは、こちらへ」

 そこに、薄汚い婆さんが来て声を掛けてきた。

 女と婆さんに連れられて、暗い夜道を一は歩き出した。 

 十軒ほど先の裏長屋に連れて行かれた。

「ここに待っていて下さい。わたしは、いま戸を開けてくるから」

 キョロキョロしながら婆さんは、戸を静かに少し開けて辺りの様子をうかがった後で女を中に入れた。

 それから部屋の中を確認すると、一を手招きした。

 引き戸を開けて、玄関から一が中に入った。

「わたしは、そこいらで巡査を張り番していますから」

 と言って、婆さんは出て行ってしまった。

 すると、待っていたかのようにハナコが一に抱きついてきた。

 長火鉢のネコ板の上に載っている豆ランプが、おぼろげに部屋を照らしていた。

 狭く汚い部屋の壁は黒く、畳は所々腐っていて、天井の屋根裏が見えるあばら屋であった。

 古い柱時計の振り子が、物憂げに動いていた。

 煤けた隔ての障子の陰の二畳ほどの部屋に入ると、床が敷いてあった。

 かすかな明かりに、ジッと一は女の顔を見つめた。

 女の顔が、丸く白い小奴の顔とダブった。

〝コヤッコに似た、実に似た!〟

 思わず、一が目を細くしてウットリとした。

 一は、服を脱いでハナコを抱いた。

「ああ! こんなに髪がこわれた。イヤよ、そんなにアタシの顔ばかり見ちゃあ!」

 全裸になったハナコは裸身を見られる事よりも、結い代のかかった髪型が崩れるのを気にしているようであった。

 一とハナコは、快楽に耽っていった。

 柱時計がカタッ、カタッと鳴っていた。

 ─九時二五分。

 小一時間が経っていた。

「もう、疲れて?」

 ハナコは、言った。

 静かに家に入る婆さんの足音がした。

「婆さんは、どうした?」

 一が、聞いた。

「台所にかがんでいるわ、きっと」

 ハナコは、答えた。

「可哀相だね」

 一は、言った。

「構わないわ」

 つっけんどんに、ハナコは返した。

「だって、可哀相だ!」

 しつこく、一が言った。

「そりゃあ、可哀相には可哀相よ。ほんとの独り者なんですもの」

 そう、ハナコは答えた。

「お前も歳を取ると、ああなる」

 冷たく、一は言った。

「イヤ、アタシ!」

 ハナコは、少し怒ったようであった。

 その時、時計が〝ボーン〟と鳴った。

 ハナコの顔を、一はジッと見つめた。

「イヤよ。そんなに、アタシの顔ばかり見ちゃあ」

 恥らうように、ハナコは話した。

「よく似てる」

 一は、言った。

「どなたに?」

 興味津々で、ハナコが聞いた。

「俺の妹に」

 素っ気無く、一が答えた。

〝ウソつきめ〟

 内心自嘲しながら一は、ハナコから目線を外した。

「まあ、嬉しい!」

 と言って、ハナコは一の胸に顔をうずめた。

 そして、一の乳首を舐めながら下半身をまさぐった。

 再び、二人の快楽の追求が始まった。

 やがて、十時の音を柱時計が打った。

 ハナコは、マッチを擦ると煙草に火を点けて一口吸った。

「はい」

 それから、一の口にくわえさせた。

 身支度を整えると、一はハナコに金を支払った。

「ありがとう」

 頭を下げてハナコは金を受け取った。

 婆さんが、引き戸を開けて一を促した。

「ね、ここから出て左に曲って、二つ目の横町の所で待っていらっしゃい!」

 ハナコは、言った。

 横町に出た一は、ボンヤリと一人で突っ立っていた。

 羽目板の外れたドブの水に、綺麗な満月が映っていた。

 小路の薄暗い片側を、ハナコが下駄の音を軽くさせながら駆けて来た。

 そして、一に寄り添うように歩いた。

「ほんとに、またいらっしゃい、ネ!」

 手を振って、ハナコは見送った。

 月明かりに、改めてその私娼の顔を見た。

 小奴には似ても似つかぬ醜女であった。

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