過去と夜明け 2

「北條さん、北條さんってば!」

 苗字が呼ばれるのは決まって叱られる時だけだと思っていた。だけどこの声はどこか若々しく、懐かしさがあった。眠気まなこを擦りながら声の主に目を向けようと瞼を持ち上げる。

 ぼやけた視界からは何の情報も得られなかった。誰かが私に声をかける。だけど、反応の芳しくない私に業を煮やしたのか、その人は強引に私の腕を引いた。

 よろめき立ち上がった時、いつの間にか膝にのせていた鞄があっけなく滑り落ちた。

「もうなにしよん! はよいくよ!」

 私はやっと声に反応する。

「え、ま、待ってよ!」

 何が何だか分からず、引きずるようにして鞄の紐を手繰り寄せた。そのまま両開きのドアをくぐって外にまろび出る。

 駆動音とともに扉が閉まる。私はそこで電車に乗っていたことに気が付いた。窓際に座っていた年配の男性が何事かと窓越しにこちらを見ていた。

 私ははっとして辺りを見回す。なんだか、懐かしい景色だった。

 古びた大きな駅は学生の頃によく通学で乗り換えに使っていた。ホームの数が多く、色々な路線が駅と直結している。

 だけどその姿は改築前のものだった。今は無き地上階の改札口が、あの頃のまま残されていた。でも、どうして?

「北條さん………大丈夫………?」

 心配そうな声が耳に入ってきた。さっきから私の名を呼ぶ声、聞いたことがある。顔を向けた私は、大きな衝撃を受けた。

「凛………?」

 高校からの同級生、向井凛が驚いた顔で私の横に立っていた。最後に会った時のまま、何も変わらない。いや、幼くなっているような気さえする。懐かしい、本当に懐かしい。

 華奢で小さく、愛らしい顔立ち。昔遊んだドールハウスの住人であるウサギやリスにそっくりだったが、彼女の前でそれは禁句だった。

「え………今、凛って………」

 寒さで顔が赤くなった彼女が目を白黒させながら呟く。何を今更言っているのだろう。私たちは大学まで一緒だったのに。

 眉根を寄せた私、そしてようやく事のあべこべさに気が付いた。待って、なんで凛が高校生の格好して一緒の電車に乗ってるの? 私は目線を下げて自分の体をまじまじと見つめた。

 …………なにこれ、どうなってるの?

 高校の時愛用していたキャラメル色のダッフルコート。その下には凛と同じ制服を着込み、膝下までの真っ白なソックスと、覆うような紺色のスカート。こんなものに着替えた覚えはない。

 握りしめていた鞄には見覚えのある某黄色い熊のぬいぐるみがついていた。これは確か、実家にずっと置いてあったはずだ。

 状況の飲み込めない私に凛がより心配そうに尋ねた。

「本当に、大丈夫? 具合悪いの?」

 見上げる彼女の仕草に胸が突かれる思いだった。私は過去の自分になっているし、凛も過去の凛だ。広い構内もあの頃のまま。時が巻き戻ったかのような感覚に、私の脳内は混乱していた。

 私は首を振って凛に返事をする。

「ううん、平気、心配かけてごめんね」

 これは夢だ。そうに違いない。うん、私はまだおかしくなってない。天井を見上げ懐かしさを全身で浴びようと腕を広げる。夢、そうよ。夢じゃなきゃこんな光景、説明がつかない。私は変なテンションで嬉しくなって目を輝かせた。

「………北條さんって………面白いね………」

 あくまで取り繕ってくれる凛の言葉に、私は恥ずかしさよりも臆面ない喜びが溢れてくるのを感じた。彼女ともう一度会って話しができるなんて、まさに夢のようだ。

 高校一年生の冬、私は東京から引っ越してきた。都会に慣れた私にとって、地方で暮らすことがどんなことかよく分かっていなかった。

 電車は来ない。コンビニは少ない。山と畑はやたらと近い。訛りに訛った地元の人間と、チャンネルの少ないテレビ欄。まさに異世界への転生だ。流行りの言葉に乗せられて、そんな単語が出てきてしまう。

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