1-5 『女神像』の効用

 これが本当に、『完全美の女神像』なんだろうか。


 リリアはそう疑問に思わずにはいられなかった。


 目の前にある像は、「完全美」という言葉でも足りないくらい美しかったからである。


『女神像』は一切混じりけのない、純白の素材で作られていた。迷宮の薄闇を照らしているかと思うような、眩いくらいの白さだった。


 保護どころか掃除もされずに、ずっと放置されてきたはずなのに、像にはただ一点の汚れさえもない。塵埃じんあいけがそうとしても、輝くような白さによって浄化されてしまったのだろうか。いや、白さに圧倒されてしまって、そもそも穢そうとさえしなかったのかもしれない。


 女神としての偉容を表しているのか。それとも、包容力を表しているのか。像のサイズはかなり大きかった。母親を前にした子供のように、あるいは教師を前にした生徒のように、リリアは『女神像』を見上げる。


 しかし、たとえ小さかったとしても、おそらくリリアは像を見上げていただろう。見下ろすなど畏れ多くて、ひざまずいていたに違いないからだ。


 また、像が大きいのには、立ち姿が題材に選ばれているという理由もあった。女神は佇んだ状態で、両手を左右に広げている。まるで駆け寄ってくる誰かを抱きしめようとしているかのようだった。


 その誰かに自分がなれないものだろうか。不遜だとは分かっているが、リリアはついそんなことを考えてしまう。


 もっとも、女神に抱きしめられることだけが幸福だとは限らないかもしれない。少し離れた場所にいるからこそ、彼女のかんばせをよく見ることができたからである。


 その瞳は慈愛に満ちていた。ただ優しげな眼差しをしているわけではない。こちらの憤怒や嫉妬、怠惰、そういうよこしまな感情を見透かした上で、それでもなお優しげだったのである。


 その唇は柔和さをたたえていた。口角をわずかに上げて、作り笑いでは決してない、ごく自然な微笑を浮かべている。自分は愛されている、ゆるされているという安心感から、こちらもつい微笑みそうになってしまう。あるいは、泣き出しそうになってしまう。


 その頬は生気をにじませていた。ふっくらとやや丸みを帯びていて、柔らかくまた温かそうだった。『石像になった女神』という別名があるらしいが、『時間の止まった』と表現した方が正確なのではないだろうか。


 その鼻は――


 どこにでもあるような、ありきたりでつまらない無地の布に覆われて、見えなくなってしまった。


「リリアさん!」


 そう叫ぶ声が聞こえてくる。これは確か自分の名前である。


 ああ、そうだ。リリアはやっと思い出す。


 アル君と遺跡の調査に来ていたんだった。



          ◇◇◇



『完全美の女神像』に対するリリアの態度は、明らかにまともではなかった。


 至上の法悦を感じているかのような表情を浮かべたまま、『女神像』から一瞬たりとも目を逸らそうとしない。初めて視界に入った瞬間からずっと見つめ続けている。それだけならまだしも、わずかな時間さえ惜しむように、まばたきすらろくにしていなかった。


 アルフレッドは『女神像』にシーツをかぶせて覆い隠す。さらに、「リリアさん!」と大声で呼びかけた。


 それでようやく彼女も正気を取り戻したようだった。


「ごめんごめん。つい見とれちゃって」


「ボクも危なかったですけどね」


 そう答えたアルフレッドの手の平からは血がしたたっていた。


『女神像』を間近で見る直前に、ナイフを握り込んでおいた。おかげで、その美しさに目を奪われても、痛みで我に返ることができたのである。


「ごっめん! 大丈夫?」


 ちょっと『女神像』に見入ってしまった、くらいの感覚だったらしい。流血を目にした瞬間、もっと重大な事態が起きていたと気づいたようで、リリアは慌てて手に触れてきた。


 アルフレッドが「平気です」と答えるのも聞かずに、彼女はすぐに薬の入った小瓶を取り出す。飲むと怪我の回復速度が速くなる『ポーション』という魔導具である。重傷にすら有効な魔導具だけあって、今回のような軽いものはほぼ一瞬で完治するのだった。


「でも、よく思いついたね」


「美しい像だという話でしたから、もしかしてと思いまして」


 暴力的な人格を矯正する『開眼器』を始め、人間の精神を操作できる魔導具はすでにいくつも報告されている。それでアルフレッドは、「美しいと評判の『女神像』も、実は鑑賞者の美しいと思う感情を操っているだけなのではないか」という仮説を立てた。


 また、精神操作系の魔導具の効果は、多くの場合、痛みなどの別の強い感情で上書きすることによって無効化できるという報告もある。だから、その方法を『女神像』に応用してみたのだった。


「じゃあ、誰も戻ってこなかったのは、『女神像』に洗脳されちゃったのが原因ってことなのかな?」


「そう考えるのが妥当かと」


「ちょっと試してみよっか」


『女神像』がよく見えるように、リリアはその正面に立つ。逆に像が目に入らないように、アルフレッドは横に立った。


 合図をしたあと、かけておいたシーツを外す。


 今回のリリアの様子は――普通だった。


『女神像』に好感を抱いているようだが、満足げな目つきをするくらいで、恍惚とした表情まで浮かべることはない。それどころか、「何もないよ」と、像からアルフレッドへ視線を移すことまでしてきたほどだった。


「アル君は美術館に行ったりする?」


「いえ、ボクはそういうのはあまり」


「私も。だから、彫刻とか絵とかに感動したって経験ないんだよね」


 その点についても、アルフレッドはリリアと同じだった。


 つまり、芸術に感動する時の感覚がどんなものなのか、二人ともよく分かっていない、ということになる。


「もしかしたら、汚れたり壊れたりしないってだけの魔導具で、見とれちゃったのは単に芸術作品としての力だったのかもね」


「そうですね……」


 リリアにならって、アルフレッドも改めて『女神像』を見る。


 もう二度目で慣れてしまったせいだろうか。初めて目にした時のように、我を忘れて見入ったりはしない。


 しかし、『女神像』を美しいと思う感情は、今なお湧き上がってくるのだった。



          ◇◇◇



 今回の任務は、指定された魔導具だけを回収すればいい目調もくちょう(目的物調査)である。そのため、『女神像』を入手したあと、二人は速やかに無限迷宮からの撤収を始めていた。作った地図を確認しつつ、来た道をたどるように出入口へと向かう。


「でも、『女神像』に精神操作の機能がないなら、なんで誰も戻ってこなかったんだろうね?」


 二度目に見た時は正気を失わなかったことで、『女神像』がただの芸術作品だという可能性が出てきた。しかし、その場合、迷宮からの帰還者がいない原因が分からなくなってしまう。リリアはそこに引っかかりを覚えていたようだ。


「やっぱり、ミノタウロスにやられちゃったのかな?」


「もしくは、『女神像』の精神操作は、初めて見た時にだけ効果があるとも考えられますね」


「なるほど。で、アル君みたいに解除してくれる人もいなかったから、死ぬまでずっと像を見続けちゃったってわけね」


 もっとも、自傷行為で洗脳が解けるなら、飢えや渇きで同じことが起こっても不思議はない。だから、厳密に言うなら、「像に心を奪われて棒立ちしているところを、魔物に襲われて殺されてしまった」というところだろうか。


「なんにせよ、何事もなく戻れそうでよかったね」


「本当ですね」


 調査局の仕事は、死と隣り合わせの危険なものである。しかも今回は、帰還者が0だという情報まであったから、尚のこと危険性が明確になっていた。それだけに、任務を達成できた時の安堵も大きかったのだ。


 もちろん、どの仮説が正しいか気にならないと言えば嘘になる。しかし、それは『女神像』を持ち帰って、研究局に細かい解析をしてもらえばはっきりすることだろう。


「でも、アル君って本当に美術館とか行かないの? そういうの好きそうなのに」


「美術史はともかく、美術品自体にはさほど興味はないですね。彫刻や絵に限らず、芸術全般そうですが」


「そういえば、前に流行りの歌知らないって言ってたっけ」


 一応読書ならするが、大して小説や詩に明るいわけではない。この分野も歴史(文学史)に少し興味があるという程度だった。


「リリアさんは?」


「私も美術品はちょっとね。いい作品って言われたらそんな気もするけど、でも何十億もするっていうのは信じられないもん」


 それだけならともかく、「さすがにちょろっと色塗っただけの絵が高いのはありえなくない?」とか、「あんなの私でも描けるって」とか、関係者に怒られそうなことまで言い始める。


 ただ、不満を持つ程度には関心があったらしい。


「そうだ。ここ出たら、美術館に行ってみよっか?」


「いいですね。そうしましょうか」


 釣りではなく、美術鑑賞を趣味にするのもいいかもしれない。リリアの提案に、アルフレッドは頷いていた。


 往路で道順だけでなく、落とし穴などの罠がないことも確認してあったから、もともと復路の方が進行速度はずっと速かった。その上、撤収後の予定までできたことで、二人の足取りはさらに速さを増す。


 かと思えば、リリアは立ち止まってしまっていた。


「あれ?」


 前衛の彼女は、アルフレッドより先に曲がり角に着くと、そこで首を捻る。


「この先が出口だったよね?」


「そうですよ」


 念のため、改めて手元の地図に目を落とすが間違いない。曲がった先を少し進めば、もう遺跡の出口が――


「ないんだけど」


「えっ」


 自分の目で見るまではどうしても信じられなかった。矢も楯もたまらず、アルフレッドは曲がり角まで走る。


 だが、実際リリアの言う通りだった。


 通路の先に、出口はなかったのである。


 しかし、だからといって、壁に出口を塞がれて、行き止まりになっているかというと、そういうわけでもなかった。


 通路の先には、また通路があった。


 迷宮が限り無く続いていたのだ。

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