第4話 右眼のエル ②

 ランスは洗面所に駆け込み、ドアを閉めた。

 右眼があった眼底が、さらに痛みうずいた。ランスは、ひとつ呻きを上げた。

 鏡の前に立ち、眼帯を引っぺがしてみた。

 すると、なくなったはずの右眼の眼球が、そこにあるのである。

 眼球は、ランスの意思とは無関係にぐるぐると動き、やがて止まって、ぎゅっとその瞳孔を散大させた。

 すると、ランスはにやりと笑った。

 ランスは、笑いたくもないのに、顔の表情筋が勝手に動いて、笑ったのだ。

『よう、元気にしているか』

 ランスが喋った。

 いや、ランスは喋りたくもないのに、勝手に口が動いたのだ。

 ランスは、驚きのあまり声も出なかったが、一方で、その口は意に反して、さらに動いた。

『その節は世話になったな。馬鹿のお前は混乱するばかりだろうから、教えてやる。いつぞや、この学校で、お前によって封印を解かれて、そしてお前によって消されそうになった、悪魔だ』

 ランスは、<あの日の出来事>を思い出した。

 ランスが、血の魔方陣を使い、決死の覚悟で悪魔を葬った<あの日>である。

『死ぬ間際にな。お前の右眼に乗り移らせてもらった。もともと契約で、お前の右眼はいただいていたからな。馴染むまでに少し時間がかかったが。視神経を通じて、脳の一部も支配させてもらった。顔、声、左手はこのオレも自由がきく』

 ランスの左腕が勝手に動いて、鏡の前でさかんに手指関節をうねうねと動かし、やがて、固く拳をにぎり、思い切り鏡に向かって突き出された。

 鏡は割れ、破片があたりに飛び散った。

 左手には傷はなく、痛みもなかった。

 ランスは、とっさに、右手を右眼眼球に突っ込もうとした。えぐり取るつもりだった。

 しかし、右手は左手に止められた。左手が右前腕をしっかりとにぎり、その力を強めた。

「いてえ」

 それは、ランスの意思の、ランスの声だった。

『おいおい、馬鹿な真似はよせ。オレたちはもはや一心同体。お前にとっちゃ、なくなった右眼が戻ったんだからよかったじゃねえか。片目じゃ生活しづらいぜ。それにな、お前の体に乗り移った以上、お前の肉体の死は、オレの死でもある。オレは死にたくない。だから、お前の肉体も無碍にはしない。冷静の損得を考えろ。オレと共生したほうが得だぜ』

 たしかにランスは今、再び戻った右眼でもって、立体的に世界をとらえていた。

 ランスは、ひとつ、深呼吸をした。この現実を、受け入れようとした。

「わかったよ。ただ、さっきみたいなことは勝手にしないでほしい」

『さっきみたいなことって?』

「メイア先生をぶっ飛ばしたことだよ。君がやったのに、俺がやったことになる。この後のことが思いやられる」

『つまらないことをぶつくさ言ってるから、いらいらしてぶっ飛ばしたんだ』

「つまらないのはわかるけど」

『いいだろう。お前が生きる生活圏の常識に、ある程度合わせてやる。どのみち、普段の身体の主導権は、お前なんだからな』

「約束だ」

『悪魔は約束はしない。ただひとまず、承諾はしておいてやる』

「ところでお前、名前はあるの?」

『名前?そんなことを聞かれたのは初めてだな。人間どもはだいたい、オレをただ悪魔、悪魔、と呼称していたが、一部の人間、それこそオレを封印した婆さんなんかは、<エル>と呼んでいたな。オレを示すコードネームみたいなものだろうが』

「エル、か。まあ、ひとまずよろしく、エル」

『意外と現実の受け入れが早いな。柔軟でいいぞ』

 ランスの右手と、左手が、握手した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

銀狼の魔導士 @ryumei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る