異変

 中3のいつだったか、牡蠣に当たった。たぶん。気持ち悪かった。中学校の昼食はお弁当で、毎日母が作っていた。お弁当を食べた後、なんとなく「吐いてみようか」という気になった。トイレに行き、喉に指を突っ込んでみた。指の角度や体勢に手こずりながら、「おえっ」と小さくえずくとほんのちょっとだけお弁当の中身が出た。「あ、できた。」と思った。


 喉に指を突っ込んで吐く、という行為は思いついたのではなく、知っていた。母がやっていたからだ。妹が母のお腹にいるときのつわりで、トイレにいる母を心配してティッシュボックスを持って行っていた頃から、つわりとは別に吐いていることを知っていた。何の違いかは分からなかったが、子どもなりにこっちの「吐く」は触れてはいけないと悟った。妹が生まれてもなお続く、こっちの「吐く」は、毎晩行われた。体が悪いわけではなさそうだ。自分から吐きにいっている感がある。もう少し大きくなると、夕食とは別に惣菜やお菓子を食べていることや、夕食も惣菜もお菓子も全部食べてから吐くことが分かった。なんなんだろう?どうしてそんなことするんだろう。日々疑問に思いながらも、口をつぐんでいた。母に言われたわけでも、誰かにそっと囁かれたわけでもないが、母が食べている行為を見てはいけない、吐いているときに近くにいてはいけない、知らないふりをしなければならない。この異様な光景を、子どもに見られたって、聞かれたって、どうせ分からないだろう、とする大人の意図を汲み取らなければならない。私は疑問をそっと心の中に仕舞い、何も分からないふりをして過ごしていた。



 どこの高校に行くのか、それは初めから決まっていた。まだ小学生のときから、母に言われてきたからだ。「◯◯に行かなきゃダメ。」市内の公立高校では、トップの偏差値の高校だ。人生というのは、自分で決めた目標を達成して、次の目標を立てるからこそ充実感があるものだ。今ではそれが分かる。中3の子どもにそのような考え方はなく、「母が」言い続けてきたのに、いつの間にか最初から自分がその高校に入りたいと考えたように思えてきた。連日、ダイニングテーブルで勉強した。母がそこでやるように言ったからだ。初めは順調だった。だんだん、バグってきた。常に監視されているような気分になるのだ。母がずっとその場にいるわけではない。心がリラックスできない状態。自分の意思で勉強しているはずなのに、そうではないと感じている自分が檻から吠えている。出してほしい。でも私は気づいてあげられないのだ。硝子の檻は防音だった。おまけにミラーガラスにもなる。檻に無関心な私は、代わりにダイニングにあるせんべいやチョコレートに手を伸ばす。


 おいしい。もう1つ。

 

 もうちょっと───。


 無くなった。


 幸福感が襲ってくる。心から湧き出るというよりも、向こうからやってくる感じ。


 よし、勉強しよう。


 別の日も、お菓子を食べた。自分では受験のストレスと思っているものを紛らわせる為に食べた。何年かぶりに満たされたような、そんな気持ちになる。


 せっかく自分を可愛がってあげられる方法を見つけたのに、どんどん無くなるお菓子に気づいた母がお菓子を隠した。どうしよう。どうすればいいんだ。何か食べたい。イライラする。冷蔵庫を開けてみた。パン粉があった。とりあえずこれでいい。パン粉をスプーンで食べた。


 それから、お菓子じゃなくても食べられる物はたくさんあることに気づいた。炊飯器にあるご飯。卵焼きを自分で作る。台所は家の中で一番食べ物が多い場所だ。どうにかして心を満たすためにいろんな棚を物色した。


 そして、どんどん太っていった。もともと痩せているわけではないが、太ってはいなかった。周りから細いと言ってもらえることが多く、ダイエットをしたことはなかった。初めて太ったのだ。それも急激に。服がきつくなっていった。でも自分では、あーあ。まぁしょうがないか、くらいに思っていた。ところが、母はそういうわけにはいかなかった。今思えば、娘の異常な食べ方は摂食障害に片足を突っ込み始めているとを悟り、まずいと感じたのもあったのではないか。毎日のように太っていることを指摘してきた。初めの頃は聞き流していたが、毎日、何度も言ってくる。「太ってる。」「◯◯さんがびっくりしていた。」「今、服を買ったって太っているから似合わない。」「顔がすごい。」「寝転がったら顔の肉が横に垂れている。」「あの子は細いから似合ってる。」「あの子の2倍ある。」「◯◯先生が、前は細いって言ってたけど、もう言わなくなった。」何度も何度も何度も。疲弊した。


 痩せなくては。傷つけられないように。


 高校受験はうまくいき、母の望む高校に入学した。受験勉強は本当に一生懸命やった自負があった。そして、目的を達成してしまった私は、意欲がしぼんでいった。高校生活、ほとんど勉強はしなかった。どの授業も全然分からない。一生懸命勉強をやればやるほど、あれはどうだったっけ、忘れてないっけと不安になるものだったが、勉強しないと不安なんてものは皆無だ。きっと母校の偏差値を下げてしまっただろう。

 そんな私にも友達ができた。友達といるときは、とにかく明るく振る舞える。家にいるときの息のしにくさ、窮屈さを感じなくていい。楽しい時間を共有できる仲間。本当に面白いと思ったものを素直に伝えることができる。何も偽らなくていいのだ。友達って素晴らしい。小学校、中学校でも友達と過ごすのは楽しかったが、高校の楽しさとは違う。女子の駆け引きや、悪口でつるむというようなことはなく、健全な友人関係の中に存在することができた。嬉しかった。同時に、やはり自分の家は異質なのだと感じた。母親と楽しそうに本音で話している友達。きっと、ホームドラマのようないいところだけの家庭などはなく、友達だって親への反発や隠し事はたくさんあるだろう。けれど、うちとは違うだろうな。私と友達の間には、ゴツい硝子の境界線がある。


 高校に入ってからというもの、お菓子を大量に食べることはなくなった。だが、痩せることはなかった。普通に3食摂取していたし、学校でお菓子も食べた。放課後買い食いもした。帰宅部で運動もしていない。母の太っている攻撃は止まなかった。



 吐こう。そういえば1回吐けたじゃないか。

 

 お母さんもしているし。


 ある日の夕食後、トイレでチャレンジしてみた。牡蠣のときはちょびっとだったけど、今回は痩せないといけないから頑張らなきゃ。右手の人差し指を喉の奥へ突っ込む。オエッという音と共に、さっき食べたばかりの夕食がトイレに落ちた。できる!吐ける限り吐いた。やってやったぞ。


 次の日の朝、体重計に乗ってみると少し減っていた。やった!これはいけるぞ。


 毎日夕食後に吐いた。コツが掴めて早い時間で吐けるようになった。毎朝、体重を測った。毎朝ちょっとずつ減っていく。嬉しい。こんなに簡単に痩せれるなんて!


 「じゅりちゃん、痩せたよね。」同級生に言われた。


 高揚した。頑張れば認めてもらえるのだ。


 とりあえず太る前の体重まで減らすことに成功した。母は「吐いてるでしょ。そんなにすぐ痩せるなんておかしい。」と言ってきた。どうでもよかった。自分だって吐いているくせに。元の体型に戻すことができたので、一旦吐くのは辞めた。

 

 普通に食べる日を過ごしていたが、そうなるとちょっと体重が増えた。困ったな。まぁ、吐けばいいか。


 知らず知らずのうちに、過食嘔吐の思考が脳を蝕んでいった。

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