支配

 私は小学校教員をしている。8年目だ。

 いとこの結婚式で、職場の入学式に着る洋服を新調しようと思う、という話をした。すぐさま母が

「Aラインのスカートにしなさい。じゅりちゃんは絶対Aラインが似合うんだから。」

と言ってきた。他にも、私の飲むアルコールに口出ししてきた。妹とトイレに行った。

「ちょっとお母さんめんどくさいわ。」

「うん、まだ言うんじゃなって思った。スーツなんか好きなの買えばいいじゃん。」

「あたし、ずっとお母さんに支配されてる。」

そんな会話をした。


 私は母に支配されている。

 祖父のお通夜の日、

「今、体重何kgあるの。」

と聞かれた。パーソナルトレーニングジムに通い始め、しばらく経っていたので、体の変化を感じていた。思ったように体重は減らないが、運動で変化が出ることを喜んでいた。

「58kg。」

「58kgもあるの。いけないわ。58kgもあっちゃあ。」

 何がいけないんだろう。一生懸命頑張って、自分では喜んでいたのに、だめらしい。やっぱり、私はだめらしい。夫も側にいた。じゅりが頑張っているのは知っているから大丈夫だ、と言ってくれた。


 母は体裁も気にした。恥ずかしくない子供でいることが大事だった。いとことババ抜きをしていて、最後の2人になってしまい、負けたらどうしようと泣いてしまった。いとこはわざと負けてくれた。家に帰って開口一番、

「なんであんなので泣くの。恥ずかしい。◯◯さん(叔母の名前)も笑っていた。やめて、泣くのは。」

失敗した。あの場では、勝負がつくまでとことんやりきり、負けても涼しい顔しておくべきだったのだ。時が過ぎるたび、私の中には「こういうときにはこうしないといけないマニュアル」ができあがっていった。

 父は犬が好きだ。初めて飼った犬がまだ子犬のとき、様子が心配で父が一緒にログハウス風の小屋に寝ていることがあった。小学生のじゅりは、おもしろおかしく友達にそのことを話した。それもいけなかった。

「◯◯ちゃんのお母さんに、じゅりちゃんのお父さん犬小屋で寝てるの?って聞かれた。やめてよ、恥ずかしい!」

 言動には注意しなければならない。母を困らせてはならないのだ。友達のお母さんが、どんなつもりで母に話をしたのかは分からない。母が受け取ったように犬小屋で寝ているなんて下品ね、と思ったのかもしれないし、犬小屋で寝るほど犬のことが好きなのね、と微笑ましい気持ちで言ったのかもしれない。どちらにせよ、普通からはみ出たことはしてはいけないのだ。


 また、ずっと母に小学校教員になることを勧められてきた。勧められてきたというより、暗示にかけられてきた。

「じゅりちゃんは絶対小学校の先生が向いてる。」「小学校の先生になりなさい。」「じゅり先生。」「お母さんは本当は小学校の先生になりたかったんだよ。じゅりちゃんになってほしいなぁ。」

 ことあるごとに言われた。私が別の仕事に興味を持っても、

「小学校の先生がいいよ。食いっぱぐれがないんだから。」

 言われすぎたせいで、「そうなのかもしれない」という感覚になってくる。

 昔から、母の言うことに強く反論することをしなかった。反論しても無駄だと思い込んでいるところがある。「母の言うことが正しいと思わなければならない」という思考で生きてきた。何かを決定するとき、「母はどう思うだろう」が根底にある。そんな自分が嫌でたまらない。高校は地元のいわゆる進学校に入学したが、反発心から全く勉強しなくなった。お母さんの思い通りになってたまるか、という気持ちがあった。なのに、結局小学校教員になり、母の敷いたレールの上にいる。

 どうして小学校教員になったのか、と聞かれると「母親に勧められたから」と答えるだろう。仕事をしていてやりがいを感じることは多々ある。子供の成長を間近で見れるのは本当に素晴らしい。この仕事に向いているか向いていないかは分からないが、少なくとも楽しいと感じることはたくさんある。これまで雑談なんかしなかった子が、ちょっと土日のことを話してくれたとき。やってしまったことを、後からでも正直に言ってくれたとき。勇気を出して発表したとき。いろんな大人がいて、賢くて、私なんて月とミジンコくらいの差があるような素晴らしい人が世の中には溢れているけど、大人なんか比べ物にならないのだ。子供はマジで尊敬に値する。小さな体で、頭をフル回転させて頑張っているのだ。すごいのだ、子供は!

 だが、教員になったきっかけがコレであることの残念さを思い知った出来事があった。2027年から、教員の給与アップのニュースが舞い込んできて、職員室もその話になった。私は単純に、いいじゃん、給料上がる!と思っていたが、

「別に私たち、給料が欲しくて教員になったわけじゃないよね。教員になるとき、給料のことなんて考えた?それより教員増やしてほしいよね。」

同僚の一言。絶句した。仕事イコール給料と思っている私。「本当の教員」を見せられた。子供のことを一番に考え、信念を持った、教育現場に必要な存在。「母に言われたから教員になりました」なぁんて奴はここにいてはいけないではないか。


 教員になりたての頃は、本当に苦労した。母の教育を受けていると、真面目に頑張る子がいい子で、子供らしさを前面に出して勉強しない、悪ふざけをする、駄々をこねる子は悪い子というジャッジを下してしまう。違うのだ。勉強しないのも、悪ふざけをするのも、駄々をこねるのも、一人ひとりに理由があり、小さくとも敬意を払うべき存在なのだ。ゆっくりだが、それを理解していき、狂った思考を遠ざけることができるようになった。

 だが、どうしても、「気づく」ことが苦手なままでいる。子供の実態をベースに授業を考えていくのがセオリーなのだが、あからさまに分かる実態以外、パッと説明できないことが多い。他の教員は、蛇口を捻ったように子供の実態を語ることができるのだが、私はそれが難しい。見えていないのだ。扉を何重にも閉じて感情を隠したあの日から、人の言動に無頓着だ。

 目を見て話すことも難しい。職場の人間や、店の人など、自分と遠い人とは何も気にせず目を合わせて会話することができる。だが、自分と近しい人になると難しい。どう話せばいいのか分からなくなってしまっている。いつの間にかできなくなっている。どうやって話していたんだっけ……両親、妹、祖母、友人。唯一、夫とは何も気にせず話すことができている。


 小さな頃から、私の将来の夢は「お嫁さんになること」がランクインしていた。喧嘩しても半年も口聞かないような夫婦でない、子供に悲しい思いをさせない、そんなお嫁さん。この夢だけは叶えている。子供はいない。子供をつくる心の余裕はないのだ。

 母は、少し前まで子供を産むように諭してきた。「子供を産んで一人前」そう言っていた。なるほど、母は一人前らしい。いやいやいや、嘘すぎる。

 私も子供が欲しいと思ったことが何度かある。友人の子供を抱いて、SNSで笑顔を振りまく赤ちゃんを見て。だが、もし妊娠したとして、素直に喜べないのではないか、おろしたいと思うのではないか。女の子だったら?じゅりの二の舞になるのではないか。この生活が自由と錯覚している今、子供がいれば現実に戻って檻にいる自分を意識してしまうのではないか。檻の中のじゅりは子供なのだ。仕事でも子供、家でも子供、檻の中の子供……ちょっとそりゃあしんどいだろう。

 おまけに最近は土日に仕事をすることが多い。年々増えている。たぶん、ここまでしなくていい。でも、しないといけないと思っている。仕事をすれば誰かが褒めてくれる。母が褒めてくれない分を埋める為に、仕事している。主に授業準備だ。大好きなコスメの買い物も行かなくなった。少し止んでいた過食嘔吐も再発した。土日は仕事か、過食嘔吐か、寝るか。


 狂っている。

 

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