第3話: 新たな日々(健二)
翌朝、目が覚めると窓の外は青空が広がっていた。田舎の静けさの中で目覚めるのは都会の喧騒とはまるで違う。ここでは時間がゆっくり流れているような気がする。
昨日の疲れが少し残っていたが、体を動かすのが苦には感じなかった。むしろ、また土に触れたいという気持ちが自然と湧いてきた。早々に朝食を済ませ、田村さんの畑に向かうことにした。
畑に着くと、田村さんはすでに作業を始めていた。俺が近づくと、彼は帽子を取りながら微笑んだ。
「お、今日は早いな。いい心がけだ」
「田村さん、今日は何をすればいいですか?」
「そうだな……今日は苗を植えるぞ。育てるには、まずはちゃんと根を張らせなきゃいかん」
田村さんは、苗の扱い方や植えるコツを丁寧に教えてくれた。俺はその指示に従いながら、慎重に苗を植えていく。根がしっかりと土に収まるように、そして優しく覆うように。
「こうしてじっくり育てるんだ。焦らず、待つことが大事だ」
田村さんの言葉に、俺は不思議と心が落ち着いた。人生も畑仕事も同じかもしれない。焦って結果を求めるよりも、根を張る時間を大切にすることが重要なのだ。俺は、ゆっくりと土をかけながら、その言葉を噛みしめていた。
苗を一つずつ土に埋め、じっくりと根付くように丁寧に押さえる。畑に並ぶ小さな苗たちは、まだか弱い存在だが、田村さんの言葉通り、時間をかけて育てれば立派に根を張るのだろう。俺もまた、どこか根が浮いているような心を抱えていたことに気づかされる。
しばらくして、畑作業が一段落した頃、田村さんがポケットから缶コーヒーを取り出して差し出してくれた。
「よし、ひと休みしよう」
俺は缶を受け取り、ゆっくりと蓋を開けた。田舎の静かな畑で飲む冷たいコーヒーの味は、どこか特別に感じられた。都会での暮らしでは味わえなかった、この静寂と余白の時間が心地よい。
「お前さん、なんだかいい顔をするようになったな」
田村さんがふと俺の顔を見て、そう言った。俺は驚いて、思わず手を止めてしまった。
「いい顔……ですか?」
「ああ。最初会ったときは、なんだか余裕がなさそうだったからな。でも、今は少し違う。きっと、土に触れてるおかげだろうよ」
田村さんの言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。俺はただ無心で作業をしていただけなのに、それが顔に表れているのだとしたら、やはり何かが変わり始めているのかもしれない。
「こっちで暮らすことだって考えてみたらどうだ?」
田村さんの言葉に、少し驚きながらも、俺は自然と笑みが浮かんでいる自分に気づいた。
「こっちで暮らす、か……」
考えもしなかった選択肢だった。俺は、ずっと都会で働き、家庭を支えてきた。その生活がすべてだと思っていたし、今もそれが自分の帰るべき場所だと信じていた。
だが、田村さんが何気なく言ったその一言が、心の中に新しい芽を植えつけたようだった。ここでの生活には、確かに都会にはない安らぎがある。田村さんとの交流や土に触れる時間は、俺にとっての救いになりつつあるのだ。
「簡単な話じゃないですけど……でも、確かに、ここにいると、今までとは違う自分を感じるんです」
そう言うと、田村さんは静かにうなずいた。
「まあ、焦らず考えてみろ。人生はな、いつでもやり直しが効くんだ。今からだって遅くはない」
「やり直し……」
その言葉が胸に響いた。自分の人生をやり直す。それがどういうことなのか、まだはっきりとは分からないが、ここでの日々が少しずつその答えに近づけてくれる気がした。
夕暮れが近づく中、田村さんと別れて帰路につく。実家に戻る道中、ふと空を見上げると、夕日が美しく水面に映っている。都会では見たことのない、穏やかな美しさがそこにあった。
家に戻り、荷物を置いてふと一息ついたが、今日の田村さんとの会話が頭から離れない。都会での生活を当たり前と思っていたが、この田舎での時間が俺の心に深く根付き始めているのを感じる。
ふと、遥のことを考えた。彼女は今、どこでどんな風景を見ているのだろうか。俺と同じように、見慣れない景色の中で、自分を見つめ直しているのだろうか。
手元の携帯電話に目をやる。今なら遥に連絡が取れるかもしれない。だが、彼女が一人の時間を必要としているなら、今はそっとしておくべきかもしれない。少しのためらいの後、俺は電話を置き、深呼吸をした。
夕食を簡単に済ませ、ベッドに横たわると、心地よい疲れが体を包んでいた。都会の生活では感じたことのない充実感があった。このまま目を閉じると、また明日も畑仕事をして、田村さんと話して……そんな日々が続けばいいと思った。
「やり直し、か……」
田村さんの言葉が再び心に浮かぶ。俺の人生にやり直しが効くのなら、ここでの時間を通して、その意味を見つけたい。遥が旅に出たように、俺もまた、自分自身を探す旅の途中なのだと気づきながら、静かに目を閉じた。
翌朝、目が覚めると鳥のさえずりが聞こえてきた。田舎の静かな朝には、都会では決して味わえない新鮮さがあった。起き上がり、窓の外を眺めると、まだひんやりとした空気が広がっている。今日もまた畑仕事をするか――そう思うと、自然と体が軽くなった。
朝食を済ませ、田村さんの畑に向かうと、彼はすでに作業を始めていた。田村さんが俺に気づいて、手を挙げて迎えてくれる。
「お、今日は早いな。やる気が出てきたようだな」
「はい。ここでの生活が、意外と性に合っているのかもしれません」
そう言うと、田村さんは満足そうに笑った。
「いいことだ。人間、心が満たされる場所を見つけるのは大事なことだからな。今日は新しい仕事を頼もうと思う。収穫だ」
俺は頷き、田村さんに指導を受けながら、慎重に収穫作業を始めた。収穫した野菜を一つ一つ手に取ると、泥がついたその感触が心地よく、育ってきた過程を感じることができる。これもまた、長い時間をかけて成長した証だと思うと、手にした野菜がいっそう愛おしく思えた。
「野菜ってのはな、育つのを待ってるだけじゃない。ちゃんと手をかけてやらなきゃいけない。収穫もその一環だ」
田村さんが話す言葉に耳を傾けながら、俺は改めて、自分が育てることの意味を学んでいる気がした。
手間暇かけて育てたものを収穫するというのは、思った以上に達成感があるものだった。自分が何かを育て、そしてそれを手に取るという喜び。こんな風に何かと向き合い、成果を得ることがこれほど心地よいものだとは思わなかった。
収穫が終わると、田村さんはその野菜を丁寧に籠に入れ、家に持って帰るよう促してくれた。
「持って帰って、今日の晩飯にでもしろ。自分で収穫したものは格別にうまいぞ」
「ありがとうございます。本当に、お世話になりっぱなしです」
田村さんは肩をすくめて笑った。
「礼なんていらんよ。お前さんがここでしっかり働いてくれるだけでありがたい」
その言葉に、じんわりと胸が温かくなった。都会で仕事に追われている時には感じたことのない、この静かな満足感。俺は、今日も田村さんと共に畑で過ごした時間が、この上なく貴重なものに思えてきた。
実家に戻り、収穫した野菜を台所に広げると、手を動かして簡単な料理を作った。自分の手で収穫した野菜で食卓を整えると、そこに静かで豊かな時間が流れ始めた。
「これが、日々を楽しむってことか……」
その小さな気づきが、心の中で静かに響いた。
自分で育て、収穫し、料理して口にする。こんなシンプルな流れが、こんなにも心を満たすとは思わなかった。手間をかけた分だけ、味わいが深く感じられる。都会で過ごしていたころは、食事もただの「作業」に過ぎなかったが、ここではすべてが一つの「過程」になっている気がする。
食事を終えて片付けを済ませると、少し散歩に出てみたくなった。田舎の夕暮れは都会とは違い、どこか穏やかで温かい。風に揺れる田んぼの稲や、遠くに見える山々のシルエットが美しく、まるで昔の自分を見守ってくれているかのようだった。
歩いているうちに、ふと遥のことが頭をよぎった。彼女もこんな風景をどこかで見ているのだろうか。旅に出た彼女が何を感じ、何を見つけているのか、それを知りたいと思う気持ちが少しずつ強くなっている。
ただの妻としてではなく、一人の人間としての彼女を知りたい。これまで見過ごしてきた彼女の想いを、もう一度感じ取りたい。そう思うと、また少しずつ心の奥に温かい感情が芽生えてきた。
「もう少し、この場所で過ごしてみようか……」
俺は小さくつぶやきながら、空を見上げた。
夜空に浮かぶ星が、田舎の静寂の中でひときわ鮮やかに輝いていた。都会では見えなかった星が無数に広がり、俺の心をどこか遠い場所へと誘うようだった。
「遥も、この星空をどこかで見ているだろうか……」
俺はふとそんなことを考えた。これまで何年も隣にいたはずの彼女が、今は遠く離れた場所にいる。彼女は俺の知らない景色や人々と出会い、何かを見つけようとしている。その旅の意味が少しずつ理解できる気がしてきた。
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