第4話:それぞれの旅路の始まり(遥)
健二が畑仕事への新たな挑戦に誇らしさと喜びを感じていた頃、遥もまた旅先で一つの出会いに導かれていた。
遥は、昔から行ってみたかった温泉地の一つである、静かな小さな町に滞在していた。都会の喧騒から離れたこの町は、彼女にとって新鮮で、穏やかに時間が流れていた。
ある朝、遥がふと立ち寄った陶器工房で、彼女はそこで働く一人の女性と出会った。名前は菜月。若い女性だったが、彼女は自分の作品に情熱を注いでいて、工房の奥で小さな湯呑みを一心不乱に作っていた。
「いらっしゃいませ」
ふと顔を上げた菜月が柔らかく微笑むと、遥は彼女のまっすぐな瞳に引き込まれた。話をしているうちに、菜月もまた都会からこの町へ移住してきたことがわかった。彼女はずっとアートに携わることを夢見てきたが、忙しい都会生活に追われ、自分の表現したいことを見失いかけていたのだという。
「ここで暮らし始めてから、ようやく自分が本当にやりたいことに向き合えるようになったんです」
菜月の言葉は、まるで遥自身に向けられているようだった。遥もまた、健二との生活の中で、無意識のうちに自分の気持ちを押し殺してきたことに気づいた。菜月との会話が、遥の中に小さな火を灯したようだった。
遥はその後も、菜月が営む陶器工房を頻繁に訪れるようになった。菜月は年齢こそ若いが、その生き方や物事への姿勢には強い意志と芯のある美しさが感じられた。遥が訪れると、菜月は快く工房の奥にある一角を提供してくれ、遥はそこでお茶を飲みながら静かに菜月の作業を見つめるのが日課になった。
ある日、遥は思い切って菜月に尋ねた。
「菜月さんは、どうしてこの場所に移住しようと思ったの?」
菜月は少し手を止めて、遥の方を見ながら答えた。
「都会で暮らしていた頃は、いろんな期待やプレッシャーに縛られていたんです。でも、それは本当の自分じゃないって気づいたんですよね。ここに来て、自分が本当にやりたいことと向き合って、ようやく心が自由になった気がします」
「自由になった……」
遥はその言葉を反芻した。
結婚生活と仕事の中で、彼女はいつしか自分を抑え込むようになっていた。菜月の話が、彼女の中に残っていたかすかな痛みを優しく刺激していた。
しばらく沈黙が続いたあと、菜月は遥にひとつの湯呑みを手渡した。真っ白な陶土に菜月が描いた繊細な花があしらわれたものだった。
「よかったら、触ってみてください」
遥は湯呑みを手に取り、指でそっと撫でる。その感触は冷たくもあたたかくもあり、不思議な安らぎをもたらしてくれるものだった。まるで、自分の心の中に潜む思い出や感情がゆっくりと浮かび上がってくるかのようだった。
「なんだか、心が解放される気がする……ありがとう」
遥は、今まで感じたことのない安堵のような感覚を抱きながら菜月に微笑んだ。
それ以来、菜月の陶器を通して自分自身と向き合う時間が、遥にとって欠かせないものとなっていった。そして、次第に菜月の影響で遥も自分の感情や思いを紙に書き留め、心の整理をする習慣を持つようになっていった。
この日々が続く中で、遥は自分が本当に何を求めていたのかを少しずつ理解し始めていた。彼女は一人の時間を楽しむことを覚え、日々の散歩や自然の景色に心を癒されるようになっていたのだ。
菜月との交流が続くにつれて、遥は自分が少しずつ変わっていくのを感じていた。都会では、いつも誰かの期待に応えなければならないと思い込んでいた。けれど、この小さな町に来てからは、誰に合わせるでもなく、自分の感情に正直でいられる時間が増えていた。
ある午後、菜月が窓の外に目を向けながらふと言った。
「遥さんも、何か創作をしてみたらどうですか?心の中にある思いが形になると、自分自身を知るきっかけになると思いますよ」
遥はその言葉に驚きながらも、どこか納得する自分がいた。ずっと仕事に追われ、家庭のことを考えてきた日々では、自分のための時間など持てるはずもなかった。
だが、今はその余白がある。
「私にもできるかしら……でも、やってみたい気がする」
遥は、その夜から小さなノートを用意し、日々の気持ちや、町で見かけた何気ない風景を絵と言葉で書き留めることにした。季節の花や、風の匂い、町の人々の柔らかな表情――それらを描き出していくと、心の奥深くで滞っていたものがゆっくりと流れ出していくようだった。
そんなある日、菜月が遥の描いたスケッチをみて、目を輝かせた。
「遥さん、すごく素敵です!その感性、大切にしてくださいね」
菜月の言葉に背中を押されるようにして、遥は自分自身の内面と向き合い続けた。やがて、それが心を整える時間になり、自分の生き方を見つめ直す時間になっていった。
この旅先での日々を通じて、遥は、ただ一人で過ごすことの意味や、内面を豊かにすることの大切さを少しずつ理解し始めていた。
日々のスケッチが増えるにつれ、遥の心は少しずつ晴れやかになっていった。毎朝、小さなノートを手に、街の通りや自然を散策するのが楽しみになり、時折ふとした景色や草花に心を奪われる瞬間があった。自分のペースで歩き、自分の目で見たものを素直に受け止める――それだけで、今の自分を大切にしている感覚があった。
そんなある日、菜月がふと提案をしてきた。
「遥さん、今度この町で開かれる『アートとクラフトの展示会』に参加してみませんか?皆で作品を展示し合う会なんですけど、きっといい刺激になりますよ」
遥は驚きながらも、どこか嬉しかった。自分の描いたものを他人に見せるという発想はなかったが、菜月に勧められると、急に新しい扉が開いたような気がした。
「私なんかが……でも、そうね。やってみてもいいかもしれない」
菜月は微笑みながら、
「遥さんの感性は特別ですよ。きっと皆もその美しさに触れて心が温まると思います」
と励ましてくれた。
遥は、勇気を出して出展の準備を始めることにした。
数週間にわたって描きためたスケッチや言葉を丁寧に選び、菜月のアドバイスを受けながら一つ一つの作品に手を加えた。完成した作品を眺めると、それはまるで自分の内面を写し出した鏡のようだった。
展示会当日、遥の作品は多くの人の目に留まり、
「優しさが伝わる」
とか
「穏やかな気持ちになれた」
などの言葉をかけられることが多かった。
その度に、自分の心が静かに満たされるのを感じた。
「この旅に出た意味が、少しずつわかってきたかもしれない」
遥はそう心に刻みながら、新たな自分との出会いをかみしめた。この旅での体験が、彼女を少しずつ新しい未来へと導いていることを実感し始めていた。
展示会の終了後、遥は深い満足感に包まれていた。自分の作品を通じて人と触れ合い、心の中の思いが誰かに伝わる喜びを感じることができた。それは彼女にとって、新たな生きがいとなるかもしれない気がしていた。
その夜、工房の片隅で菜月と二人、静かにお茶を飲みながら、展示会での感想を語り合った。
「遥さん、本当に素敵な作品でした。あなたが描く風景や言葉から、優しさや温かさが伝わってきましたよ」
菜月の言葉に、遥は静かに頷いた。自分が心の中で見つめてきたものが、他の人の心に届いた。それは今までの生活では経験できなかった深い喜びだった。
「ありがとう、菜月さん。私、今までの生活ではこんなふうに自分を表現することを考えたこともなかった。でも、こうしてここで新しい自分に出会えた気がする」
菜月は優しく微笑んで、
「遥さんも旅に出て、本当に良かったですね」
と言った。
遥は深く息を吸い込んだ。
いつか、この新しい自分を、健二にも伝えたいと強く思った。健二もまた自分の場所で新しい生活を築いているはずだ。そのことに思いを馳せると、心の中に静かな温かさが広がった。
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