第2話:それぞれの旅路の始まり(健二)
数日後、俺は最低限の荷物をまとめ、田舎の実家に向かう準備を整えていた。家を出る直前、静まり返ったリビングを振り返り、何もかもがそのままに残されていることに妙な違和感を覚えた。家具の一つ一つが、今までの生活の証でありながら、どれもただの物に過ぎないと感じられる。
「じゃあ、行ってくるか」
誰に言うでもなく、小さくつぶやきながら家を後にした。駅に向かう道中、久しぶりに周囲の景色を意識しながら歩いた。子供たちが幼かった頃、家族でこの道を歩いて出かけた記憶がよみがえってくる。遥が隣にいて、子供たちの手を引きながら歩いたあの頃の自分が、今となっては夢のように感じられた。
駅に着き、電車に乗り込むと、車窓から流れる景色をただぼんやりと眺めていた。都会の雑踏を抜け、少しずつ見慣れた田舎の風景が広がっていく。その景色は、子供の頃から慣れ親しんだものでありながら、今の俺にはまるで違って見えた。
数時間後、ようやく実家の最寄り駅に到着した。駅舎は古びていて、人もまばらだ。降り立った瞬間、空気がひんやりとしていて、都会の喧騒とはまったく違う静寂が広がっていた。この静けさが、なんだか俺の心にしっくりとくる。
歩いてしばらくすると、古びた家の姿が見えてきた。親父とお袋が暮らしていた、どこか懐かしい匂いのする家だ。子供の頃の記憶が蘇り、俺はそっと玄関の扉を開けた。家の中はひんやりとしていて、長い間人が住んでいなかったことを物語っている。
「ただいま」
誰もいない家にそう声をかけると、まるで親父やお袋がどこかで聞いているような気がして、少しだけ心が温かくなった。
靴を脱ぎ、廊下を歩いていると、木の床がかすかに軋んだ音を立てた。昔と変わらないこの音が、俺をどこか安心させる。リビングに足を踏み入れると、古い家具や少し色あせた写真がそのまま残されていた。親父とお袋が座っていた椅子が、まるで二人を待っているかのように静かに佇んでいる。
「懐かしいな……」
一人つぶやきながら、ソファに腰を下ろす。長い間使われていなかったせいで少し埃っぽいが、妙に心が落ち着く。俺はそのまましばらく、無心で部屋を眺めていた。窓の外には広がる田畑が見え、静かな時間が流れている。
ふと、庭に目をやると、背の高い雑草が所々に生えているのが見えた。昔は親父が庭仕事に精を出していたもので、畑には季節ごとに野菜が植えられていた。あの頃は当たり前の光景だったが、今見るとどこか懐かしく、そして少し寂しさを覚える。
「少し、手入れでもするか……」
俺はそう決めると、倉庫に足を向けた。道具が揃っているかどうか心配だったが、親父が大事にしていた道具がほこりをかぶったまま残されているのを見つけ、少しほっとした。親父の姿が脳裏に浮かび、思わず小さく笑ってしまう。
「親父もきっと、こうやって庭に出ていたんだろうな……」
そうつぶやきながら、俺は手袋をはめて草取りを始めた。庭の土を触るのは久しぶりだったが、その感触が心地よく感じられる。
雑草を抜くたびに、土の香りが鼻をつく。この匂いは都会にはないものだ。手が土で汚れていくのも、意外と悪くない。黙々と草を取っていると、いつの間にか頭の中が空っぽになっていくのを感じた。考え事をすることなく、ただ手を動かしている時間が、こんなにも心地いいものだとは思わなかった。
ふと、遠くから誰かが近づいてくる気配を感じた。顔を上げると、見知らぬ老人がこちらに向かって歩いてきている。年季の入った作業着を着て、帽子を深くかぶったその姿は、見るからに田舎のベテラン農家といった風貌だ。
「あんた、ここに引っ越してきたのか?」
その老人は、俺が顔を上げると同時に声をかけてきた。顔には深いしわが刻まれているが、目には鋭い光が宿っている。
「いや、親父が残した家で、少しの間だけ滞在する予定なんです」
「ほう、それで草取りをしているわけか。偉いな」
彼は感心したように頷き、少しの間俺を観察するように見つめた。
「俺は田村だ。この辺りで畑をやってる。鈴木の息子さんだろう?親父さんにはよく世話になったよ」
「そうですか、父が……」
俺は軽く頭を下げた。
「しばらくここにいるなら、暇つぶしに畑でも手伝いに来な。体動かすと、余計なことを考えずに済むからな」
田村さんはそう言うと、俺にしっかりした握手を求めてきた。その手はごつごつとした大きな手で、長年の農作業で鍛えられたものだろう。
「はい、ぜひお手伝いさせていただきます」
俺は思わず、そう返事していた。
田村さんは笑って、
「よし、いい心がけだ」
と言い残し、ゆっくりと立ち去っていった。
その背中を見送りながら、俺は少しだけ不思議な気持ちになった。都会ではほとんど関わりを持たなかった隣人という存在が、ここではこんなにも自然に、そして温かく感じられるものなのか。
次の日、朝早くに目を覚ますと、昨日の草取りの続きに向かった。時間がゆったりと流れているのが感じられる。土の上に座り込み、無心で手を動かす。しばらくすると、田村さんが昨日と同じようにやってきた。
「今日は畑に手を貸してくれるって話だったな?」
田村さんがニヤリと笑いながらそう言った。その顔には、どこか試すような光が宿っているように見えた。俺は少し戸惑いながらも「はい」と返事をすると、田村さんが嬉しそうに頷いた。
「そうか、じゃあ行こうか。畑は少し離れたところにあるから、ついてきな」
俺は田村さんの後を追いかけて歩き出した。田村さんは、道中で畑の作物についていろいろと話してくれた。作物の種類や育て方、収穫のタイミングについて語る彼の姿は、生き生きとしていて、その情熱が伝わってくる。
やがて着いた畑は、広々としていて、手入れの行き届いた立派な場所だった。田村さんは畑の中に入り、俺にも手招きしてくる。
「さあ、ここでちょっと作業してみな。最初は簡単なことからでいい」
田村さんに教わりながら、俺は少しずつ手を動かし始めた。
田村さんの指導の下、まずは簡単な雑草取りから始めた。昨日自分の庭でやったことと同じはずなのに、畑での作業はなぜか違って感じられた。田村さんの目が光っているのが背後から伝わってくるせいかもしれない。
「お前さん、普段こういうことはやらんのか?」
「ええ。都会でずっと仕事漬けで、こんな風に土を触るのは久しぶりです」
俺の答えに田村さんは少し首を傾げて、
「やれやれ、それじゃ体も心もなまるわな」
と呟いた。
「土ってのは、ただの泥じゃないんだ。命を支える力が詰まってる。こうして触れていると、自然と体が感じるんだよ」
田村さんはそう言って、じっと自分の手元を見つめた。その目は、長年この場所で生きてきた者の確信に満ちている。俺は言葉を失い、ただ田村さんの手元に注目していた。
その後、畑の土を掘り起こし、種をまき、軽く水をやる作業が続いた。すべてがシンプルなことのはずなのに、俺の中で何かが静かに動き出すのを感じていた。会社で管理職をしていた時のような、何かに追われる感覚もない。ただ、目の前の土と植物と向き合うこの時間が、不思議と心を満たしていく。
「どうだ、楽しいだろ?」
田村さんが笑いながら聞いてきた。
俺は、思わず「はい」と頷いた。
「そうか、楽しいか」
と田村さんは笑った。
その顔はどこか誇らしげで、まるで自分の畑が評価されたかのようだった。俺がこんなふうに素直に「楽しい」と思うなんて、都会にいた頃には考えられなかった。
その後も、田村さんの指導のもとで、俺は畑仕事を続けた。手を動かし、土の感触を確かめるたびに、自分が何かを取り戻している気がした。無心で作業していると、頭がスッキリし、余計な考えも消えていく。
「お前さんにはまだまだ覚えることがたくさんあるぞ」
と田村さんが声をかける。
「畑仕事ってのは、奥が深い。育てること、見守ること、そして待つこと――そういうのを全部ひっくるめて学ばなきゃな」
俺は黙って頷いた。田村さんの言葉には重みがある。そして、その重みが俺にとって心地よいものに感じられる。長年、都会の仕事に追われ、自分の価値を他人の評価で計ってきた自分が、今こうして田村さんの言葉を素直に受け入れているのが不思議だった。
夕方になると、俺たちは作業を終え、田村さんの家に戻った。
彼はお茶を出してくれ、
「これからも時々手伝いに来いよ」
と声をかけてくれた。
「ありがとうございます。ぜひ、また手伝わせてください」
そう答えながら、俺はどこか充実感を感じていた。
実家に戻ると、外はすっかり夕闇に包まれていた。田舎の夜は静かで、都会のような明かりも少ない。暗闇に包まれたこの家で一人きりという状況が、最初は少し寂しく感じられたが、田村さんと畑で過ごした時間が心に温かい余韻を残していた。
台所で湯を沸かし、簡単な夕食を作った。普段、食事をするだけの行為がどこか特別に感じられたのは、体を動かし、土に触れたからだろうか。一日の作業の後、体を休めながら自分で作った食事を味わうことが、こんなにも満足感をもたらすとは思いもしなかった。
「遥も、こんなふうに日々を楽しめているんだろうか……」
ふと、彼女の顔が浮かんだ。旅に出た遥は、どこかで何かを見つけているのだろうか。自分を見つめ直すための旅。その意図がまだ完全に理解できたわけではなかったが、今の俺には、彼女が何を考えていたのか少しずつわかり始めている気がした。
食事を終え、片付けを済ませてリビングに戻る。部屋の隅に置かれた古いアルバムが目に入り、自然と手が伸びた。アルバムを開くと、懐かしい家族の写真が並んでいる。幼い頃の自分や、若い頃の親父とお袋、そして、遥と子どもたちとの家族写真。
写真の中の俺は、今とは違う表情をしているように見えた。そこには確かに、夢や希望に満ちていた頃の自分が映っていた。その頃の俺は、家族の幸せを願いながらも、自分の人生を精一杯に生きようとしていたのかもしれない。
「あの頃の俺は、もう少し素直だったかもしれないな……」
写真を見つめながら、しばらくそう呟いていた。
写真を一枚ずつめくりながら、懐かしさと共に、若い頃の自分に対する少しの違和感が胸に広がっていった。俺は、いつからか生活に追われ、自分の心の声を聞くことをやめていたのかもしれない。家族を守ることを優先しすぎて、自分がどう生きたいかを置き去りにしてきたように思えた。
「遥も、こんな気持ちだったんだろうか……」
彼女が言っていた「自分を見つけるための旅」の意味が、少しだけ理解できた気がした。彼女は、俺のために尽くし、子どもたちのために尽くしながらも、自分を失ってしまっていたのかもしれない。俺にとっては安定した日常が、彼女にはどこか息苦しかったのだろう。
アルバムを閉じ、少し重い気持ちのまま窓の外を見ると、夜空には満天の星が広がっていた。田舎の夜は、星の数が都会とは比べ物にならないほど多い。しばらくその星空を眺めていると、頭の中が少しずつクリアになっていくのを感じた。
俺は今、遥と距離を置き、自分の時間を過ごしている。この時間が俺にとってどういう意味を持つのかはまだわからないが、少なくとも田村さんとの出会いや畑仕事を通じて、少しずつ自分の内側に目を向けるようになっている。
「明日も、田村さんのところに行ってみるか」
そう呟きながら、俺は布団に入り、心地よい疲れに身を委ねた。
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