別々の旅路

@pinkuma117

第1話:静かなる決断

俺は、変わらないことが正しいと思って生きてきた。会社に勤めて40年、年功序列のシステムに順応し、言われたことをきっちりこなしてきた。その生活の先にあるのは、安定した家庭と静かな老後だと、そう信じて疑わなかった。


だが、定年を迎えてみて初めて気づくこともある。自分の毎日が、空っぽで形だけのものだったのかもしれないと。妻の遥と顔を合わせることもなく一日が過ぎていく。何も変わらない日常が心を静かに蝕んでいた。


「ねえ、健二さん」

ある日の朝、台所で湯気の立つ味噌汁をよそいながら、遥がぽつりと話し出した。

顔をあげずに、いつもの淡々とした声で。


「何だ?」

俺もまた、新聞から視線を動かさずに返事をした。習慣のようなもので、ここ何年も俺たちはお互いの顔をじっと見つめて話をすることがなくなっていた。


「別居しない?」


その言葉に、手が止まった。味噌汁の湯気が揺れる。


「……別居?」


「ええ。少し、距離を置いてみたいの。健二さんには田舎の実家があるでしょう。私は……旅にでも出ようかと」


冗談のようで、冗談ではない遥の声に、思わず顔を上げた。50年近く連れ添ってきた顔に、初めて見るような深い影があった。


「どうしてだ?」

つい、愚直な質問が口をついて出た。


「どうしてって……」

遥は静かに俺の目を見返してきた。


「私たち、もうお互いのことが見えなくなってる気がしてね」


確かに、俺たちはもう若くない。子供たちはそれぞれ独立し、俺も会社を辞めた。そういえば、二人だけでこうして話す時間が増えたはずなのに、会話が少なくなった気もする。


「俺は……」

俺は自分の言葉が見つからないまま、遥の視線から目を逸らした。


「そんなに悪い暮らしだと思ってない」


遥は苦笑いを浮かべた。


「そうね。あなたにとっては、悪くない暮らしだったのかもしれない。でも、私は……」


言葉が途切れた遥が、視線を窓の外へ移す。窓の向こうには、毎朝見る庭の景色が広がっていた。いつもと変わらない、だがどこか物足りない景色だった。


窓の外には、手入れを怠った庭が広がっている。草は生い茂り、ところどころ植えた覚えのない野草が顔を覗かせている。そこにはもう、何年も庭に降り立っていない俺の無関心が反映されていた。


「……何が不満なんだ、遥」


俺の言葉がどれだけ無神経だったか、言い終えてすぐに気づいた。だけど、俺にはそれ以外に言葉が見つからなかった。何が不満なのか、どこがいけなかったのか。それを知りたかったし、知る必要があると思った。


遥は、再び俺の方を見ずに答えた。


「私たち、もう随分と長いこと顔を合わせてきたけれど、同じ景色を見ていない気がするの。あなたが何を思っているか、私にはもうわからない。そして、私が何を感じているか、あなたには興味がないのよね」


その言葉が心に刺さるようだった。興味がないと。そんなことはない、と思いたい。だけど、どうやらそれは事実だったのかもしれない。俺はただ、平穏で安定した家庭を維持することを目指してきただけで、そこに遥の気持ちを挟む余地を作ってこなかった。


「少しの間、距離を置きましょう。あなたには、きっとそれが必要だと思う」


「……俺に?」


「ええ、そうよ」遥は頷いた。「あなたは、一人で生きることを知るべきよ。そうすれば、自分が何を本当に望んでいるかが見えてくるかもしれない」


彼女の言葉は冷静で、まるで他人事のように響いた。俺には少し理解できなかった。一人で生きる?それは何のためだ?結婚とは、支え合って生きるためのものだろう。こんなに長く一緒にいて、いまさら「一人」などと言われても。


「俺は、別に何かを望んでいるわけじゃない。ただ、お前がそばにいてくれるだけで十分だ。それだけで――」


言いかけて、言葉が喉に詰まった。それだけで何なのか、自分でもわからなかった。十分だと言いながら、何かが足りないように感じている自分がいた。


「そう……それが十分なら、私がいなくても、あなたはきっと平気ね」


それがどういう意味なのか、言葉の真意を掴めないまま、遥は席を立った。俺はその後ろ姿を見つめ、すぐに立ち上がれなかった。


遥の足音が台所から遠ざかっていく。俺は立ち尽くし、動けないままその場にいた。言いようのない空虚感が胸に広がり、窓の外を眺めた。いつもと同じ、平凡な庭。だが、今はその風景がどこか冷たく、他人事のように感じられる。


「少し、距離を置きましょうか」


遥の声が頭の中で何度も反響する。


俺は何も悪いことをしていない。ただ、仕事を真面目にこなし、家族を支えてきたつもりだった。だからこそ、遥の言葉が理不尽に思えたのだ。だが、理不尽と感じるのは、自分の理解が足りていないからではないか?そんな疑念も同時に湧いてきた。


遥がどうして「一人で生きる」などと言ったのか、それは俺が見失っていたものを知るための方法だと言いたかったのかもしれない。俺はいつから、彼女の気持ちに背を向けていたのだろう。


その夜、寝室の窓の外で風が吹いている音を聞きながら、俺は寝付けずにいた。遥もまた、隣で目を閉じたままだが眠れている様子ではない。お互いに沈黙を守りながら、それぞれの胸に抱える想いと向き合っているのだろう。


やがて、俺は思い切って口を開いた。


「遥……本当に、別居が必要だと思っているのか?」


遥は返事をしないまま、しばらくの沈黙が続いた。彼女が何を考えているのか、まったくわからない。それは俺が彼女を知ろうとしてこなかった結果だろうか。


「……私は、これ以上自分の気持ちを偽りたくないの」


静かに放たれたその言葉が、俺の心に深く響いた。


「偽りたくないって、どういう意味なんだ?」


質問を口にしたものの、自分でも薄々わかっている気がした。偽る、つまり、本当の気持ちを押し殺して、俺に合わせてきたということかもしれない。遙は、俺との結婚生活を支えるために、自分を犠牲にしてきたのかもしれない。


遥はベッドの端で体を小さく丸めたまま、深いため息をついた。


「健二さん、私はね、あなたが必要としている妻としての役割を果たしてきたつもりよ。でも、私自身は……その中で少しずつ自分を失っていたの」


「……自分を失う?」


「ええ。結婚した頃はね、私もあなたと一緒に、家族を築いていくことが生きがいだと思ってた。でも、子供たちが巣立って、あなたが仕事を辞めてから気づいたの。私はもう、ただの妻でも母親でもないんだって」


俺はその言葉に戸惑い、何か反論をしたくなったが、言葉が出なかった。彼女は今まで、俺が当たり前のように受け取っていた日常の中で、自分自身を見失っていたのか。そんなことを一度も考えたことがなかった。


「俺は……そんな風に考えたことはなかった。だから、君がそう感じていたなんて、思いもしなかったんだ」


「わかってるわ。健二さんは悪くない。私が自分で選んだことだから……だけど、だからこそ、これからは自分のために生きたいと思うの。もう、誰かの妻や母親じゃなくて、ただの“私”として」


遥の言葉は静かで、揺るぎない決意が込められていた。俺の中で、何かが変わり始めたような気がした。


俺は、はっとして遥の顔を見つめた。こんなに長く一緒に生きてきたというのに、俺は彼女のことをどれだけ理解していたのだろう。日々の生活の中で、当たり前のように隣にいてくれる人。だが、それは彼女が自分の気持ちを抑え込み、俺に合わせてきた結果だったのだ。


「君が、そこまで思いつめていたなんて……」


遥は小さく笑みを浮かべたが、それはどこか寂しげな笑みだった。


「私もね、長い間このことを言うべきか迷っていたの。でも、今しかないって思ったのよ。もう何十年もこんなふうに自分を抑えて生きるのは、私には無理だと思ったから」


俺は胸が苦しくなるのを感じた。彼女が長い間抱えていたものに気づかず、ただ自分だけが満足していたのだ。俺が彼女を支えてきたつもりが、実は支えられてきたのだと知った。


「……別居か。それで、君は本当に満足できるのか?」


俺の言葉に、遥は再び窓の外に視線を向けた。夜の静寂が、二人の間に深い影を落とす。


「満足するかどうかなんて、今はわからない。でも、自分の人生をもう一度考え直してみたいの。健二さんもきっと同じだと思う」


自分の人生を考え直す。それは、今の俺には遠く感じられる言葉だった。しかし、こうして目の前にいる遥の変わらない姿勢と決意を目にして、俺もまた心の奥底で変わり始めていることを感じた。


翌朝、俺はいつも通り朝食の席に座っていたが、目の前の遥はどこか遠い場所にいるようだった。湯気の立つ味噌汁を見つめている彼女の横顔は、何年も見てきたはずなのに、初めて見るように思えた。


「健二さん、私……少し旅に出ようと思うの」


旅? その言葉が意外すぎて、俺は少し硬直してしまった。遥が一人で旅をしたいだなんて、一体どういうことなのか。ここにきて何かを確かめたいのだろうか、あるいは俺と離れて本当に一人で生きてみたいのか。


「……いつから行くつもりなんだ?」


遥はしばらく考えてから、「来週には出発しようと思っているの」と答えた。


俺は何か言い返すべきか悩んだが、結局言葉が出てこなかった。反対しても無駄だろう。遥の表情からは、それだけの覚悟が感じられたのだ。彼女の中で、この決断はもう揺らぎようのないものなのだろう。


俺たちの間に長年積み重ねてきたものが、今まさに崩れていくような感覚がした。しかし、奇妙なことに、それが完全な絶望ではなかった。遥の言葉が俺の中で何かを動かし始めていることを感じたのだ。


それから一週間、俺たちはほとんど会話を交わさなかった。朝食の時間も、夕食の席も、どこかぎこちない沈黙が続き、お互いが互いに壁を作っているように感じた。


ある夜、遥が旅の準備をしている姿を見た。彼女は持ち運びやすい小さなスーツケースを広げて、必要最低限の荷物だけを詰めている。静かな手つきで、慎重に、けれども確実に詰め込まれていく物たちを見ていると、彼女がどれだけこの旅に意を決しているのかが伝わってきた。


「準備、進んでるみたいだな」


俺は思わず口にしていた。遥は少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑みを浮かべた。


「ええ。できるだけ軽くしようと思ってるの。重荷は置いていきたいから」


重荷。それが何を意味しているのか、言わなくてもわかる気がした。俺にとっての安定は、彼女にとっての重荷だったのだろうか。俺の無意識のうちに求めていた「変わらない生活」が、彼女には枷のように感じられていたのかもしれない。


「どこに行くんだ?」


「まだ決めていないの。ただ、今まで行ったことのない場所に行ってみようと思ってる」


遥はそう言って、ふと遠くを見るような目をした。その視線は、もう俺を見ていないのだと感じて、胸が締めつけられるようだった。


「俺には……実家があるから、そっちに行こうと思う」


そう言うと、遥は頷いた。


「それがいいと思うわ。きっと、健二さんにも何かが見つかるはずよ」


俺はただ頷くことしかできなかった。遥の言葉の意味も、自分が本当に何を見つけるべきなのかも、まだわからない。ただ、俺たちは別々の道を選ぶことになった。それだけが確かな事実として、胸の奥にじんわりと広がっていた。


翌朝、遥はいつもより早く起きて出発の準備を整えていた。俺は、彼女が玄関でスーツケースの取っ手を握る姿をただ無言で見つめていた。どう声をかければいいのか、何を言えばいいのか、分からないままだった。


遥もまた、そんな俺をじっと見つめ返し、ふっと微笑んだ。それは寂しさと安堵が入り混じったような笑みで、まるで長い旅に出る子供を見送る親のようにも見えた。


「じゃあ、行ってくるわね」


「……気をつけて」


結局、それしか言えなかった。俺の返事を聞いた遥は頷くと、そっと玄関の扉を開けた。冷たい朝の空気が家の中に流れ込んできて、俺の体を少し震わせた。


扉が閉まり、彼女の足音が遠ざかっていく。その音が消えた瞬間、静まり返った家の中に、深い孤独が満ちていくのを感じた。今まで当たり前に存在していたものが一瞬で消え去り、ここには俺一人だけが残されていた。


リビングに戻り、いつも二人で座っていたソファを見つめる。そこには、何も変わらない日常があるように見えるのに、実際には遥の存在が消えただけで、家全体が空虚になったかのようだった。


「一人で生きる、か……」


遥の言葉が脳裏に浮かんでくる。これから始まるのは、俺にとって未知の時間だ。妻として、家族として隣にいた彼女がいない生活。俺は、一人で何を見つけるのか、自分自身でも想像がつかないままだった。


気づけば、窓の外には朝日が差し込んでいた。その光が家の中を優しく照らしているのが見えたが、いつもとは違って見えた。


俺は、ふと無意識のうちに庭を見ていた。荒れた草が風に揺れているのを見つめながら、今まで何も気にかけていなかった自分に改めて気づかされる。この庭は、遥が一人で手入れをしていた。俺は仕事の忙しさを理由に、ただ見ているだけだった。


「何をしてきたんだろうな、俺は……」


誰にともなく呟いてみたが、家の中はただ静かにその言葉を飲み込んだ。俺は一人きりだ。目の前にある庭も、リビングのソファも、キッチンも。すべてが俺一人のためのものとなり、急にその広さが不安に感じられた。


自然と、実家のことが頭に浮かんできた。遥が言っていた通り、俺には田舎の家がある。かつては親父とお袋が暮らしていた家だが、二人とも他界して以来、長らく空き家のままになっている。子供の頃から慣れ親しんだ場所だが、ここ数年はほとんど訪れていなかった。


そこへ行くのも悪くないかもしれない。どうせ、ここにいても孤独感が募るだけだ。田舎でのんびりしているうちに、何か新しいことが見つかるのかもしれない。そう考えると、急に気持ちが軽くなったような気がした。


「よし、行ってみるか……」


心の中でそう決意すると、少しずつ不安が消えていった。


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