第3話
バーに入ると早速、バーテンダーさんがタオルと着替えを渡してくれた。
別室で着替えたのは、レディースサイズのバーテンダー衣装。
さっきのバーテンダーさんは男性なので、他にも店員さんがいるのかもしれない。
幸い下着までは濡れていなかったので、申し訳なく思いながらもお借りすることにした。
「タオルだけじゃなくて着替えまでお世話になって、すみません……。来週までには洗ってお返しします」
「服はあげるよ。きっと返してもらう機会はないと思うから」
「え? でも……」
「いいからいいから。じゃあ次は、これ」
カウンターに案内してもらい、お手拭きで手を拭いているとバーテンダーさんが別のタオルを手渡してくれた。
「二つ目のお手拭き……?」
「それを使うのはココ。冷やすと良いよ」
「あっ」
彼は人指し指でまぶたをさしている。
私の目が腫れていることに、気づかれていた。
「あの……こんなみっともない姿で、すみません」
「とんでもない。うちはいつでも、迷える子羊たちのためのバーでいたいからね」
そう言って微笑む気さくなバーテンダーさんは、ちょっと変わったひとだなと思った。
「……」
黙って目を冷やしていると、脳裏に昼間の出来事が過りそうになる。
バーテンダーさんの圧に飲まれたおかげで、せっかく忘れかけていたのに……。
ぐっと胸がつまりそうになった瞬間、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
「どうぞ。これはサービスだよ」
カウンター越しに差し出されたのは、お皿に乗ったティーカップ。
端っこには、ティースプーンと一緒にビスケットが二枚乗っていた。
「え? 紅茶とビスケット……ですか?」
「雨で濡れて冷えていると思ったからね。ロイヤルミルクティーにちょっとだけラム酒を入れたんだ。ほんの少しだけならアルコール入っていても大丈夫かな?」
「は、はい。ありがとうございます」
「ビスケットは、まだ夕食も食べてなさそうだと思ったからね」
図星だった。
彼に振られたカフェでは飲み物しか頼んでいなかったし。
暗くなってからも、夕食を食べようと思う余裕すらなかったんだから。
「それは……目が腫れていたからそう思ったんですか」
「うん。お節介でごめんね」
「いえ……。ありがとうございます」
それまでは悲しさと冷たさで胃も心も空っぽで、身体中がぎゅっと苦しくなっていたのだけれども……。
カップを口元に運ぶと、ほんのりとラムの香りが漂ってくる。
飲んでみると、ラムの甘さとミルクティーの優しさ、そして温かさが、身体にじんわりと広がっていく。
「あったかい……」
優しさで少しずつ心が包まれていくような気がした。
ミルクティーを飲んでいる間、店内には無言の空間が広がる。
響き渡るのは、しとしとと降る雨音と時折バーテンダーさんが立てる物音だけ。
でもそれが、不思議と居心地の良さを感じさせてくれた。
「はい。次は蒸しタオル」
「ありがとうございます……」
紅茶を半分飲んだ頃に、冷たいタオルと引き換えに温かいタオルを手渡される。
どうしてこんなに親切にしてくれるんだろう。
「お節介ついでに、聞いても良いかな?」
不意にバーテンダーさんが切り出して、私は息を飲んだ。
「っ……」
まぶたを温め始めた頃には、すでに元彼のことはどうでもよくなっていた。
忘れたわけじゃないし、吹っ切れたわけでもないけれども……。
いまはこの優しい時間を、味わっていたかったから……。
「目を温めながらで良いし、いやだったら、言う必要なんてない」
そう思っていた私に、バーテンダーさんが優しく語りかけてくれた。
「ただ、困っていたら話だけでも聞けると思ったから……。君が良かったら、教えてくれないかな。どうして、泣いていたのかを……」
「……いえ。良かったら、聞いてください」
私は蒸しタオルをまぶたから外して、バーテンダーさんに向き直る。
誰かに……優しいバーテンダーさんに聞いて欲しかった。
聞いてもらって……苦い経験にして、踏み越えて。
俯いてなんかいないで、前に進みたい。
温かい飲み物でポカポカとした気持ちに包まれているうちに、そう思えるようになってきた。
だから私は、勇気を出して言葉を紡いだ。
「私……付き合っていたひとに振られたんです」
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