第10話 決意の力

 喉の奥に詰まっている何かで咳き込んだシンは、その反動で意識を取り戻した。鉄の味と臭いがした。全身が焼けるように熱くて、もしかして火の中にでも放り込まれたのでは? と思って慌てて目を開けるが、周囲は暗闇に包みこまれていた。


 真っ暗ではない。月明かりの淡い光が、家の中を照らしている。周囲の静けさから、時刻が真夜中であろうことは、想像に難しくない。不意に響いてくる犬の遠吠えが、シンの心を苛立たせる。


 両手を強く握りしめようとする。だが、自分の意志に反して体は思ったようには動かない。それでも、自らの身体を制御できることを確認して、寝返りを打つ。伏臥した状態から、両肘に力を入れて、なんとか体を起こす。


 立ち上がる気力も生まれない彼だが、体の熱さを鎮めるために水が飲みたくなった。口の中が舌が張り付くほど乾いている。そのくせ、妙にネッチョリとした気持ち悪い感覚が舌の上に残っている。苛立ちをエネルギーに変換し、ゆっくりと這って水瓶に向かう。そして、柄杓で一杯の水を飲もうとして一口含んだ瞬間、再び咽こんでその場に飲もうとした水を吐いてしまう。


 口の中が空っぽになったところで、浅い呼吸を何度か繰り返していると、ようやく体の感覚が取り戻せてきた。痛みを堪えることにだけ集中していた意識が開放されて、思考能力が少しだけ戻ってくると何が起こったかが、頭の中に思い浮かんでくる。


「くそがっ!」


 本人は思いっきり吐き捨てたつもりだったが、その言葉は言葉になっていない。でも、シンにはそれで十分だった。怒りで全身がそれまでより更に熱くなってくる。痛みなんかより、もっと辛いものを突きつけられて、全ての痛覚が鈍感になっていく。


「母さん……」


 シンは再び独り言を言った。自分で自分に話しかけることをしないと、孤独死してしまいそうなほど気持ちが滅入っている。まさか、母親が殺されていないだろうかと、シンはゆっくりと立ち上がり、フラフラと母親が連れて行かれた部屋に向かう。


 数歩、進んだところで、急に右足に力が入らなくなり、崩れるようにその場に倒れ込んだ。再び立ち上がることができなそうに感じたシンは、まるで獣のように四つん這いになって、隣の部屋に向かう。


 生きていてくれ。そう願った彼が見たのは、母親が横たわった姿だった。着ていた服がおざなりに掛けられて、月明かりに浮かび上がるように白い手首が見えた。


 シンは全身の血の気が引いていくのを感じた。それまで焼け焦げるように熱かった全身が、今では氷水につけられているかのように冷え込んでいる。スンと鼻で一息吸い込むと、酸味のある奇妙な臭いがして、胃液が喉まで押し寄せてくる。このまま吐いてしまえば楽になれるかもしれない。そう思いながらも、流されることが負けのように思えて歯を食いしばって耐える。


 緩慢な動作で母親のそばに近寄り、大声で呼び起こそうとしたところで、母親が呼吸をしていることに気づいた。本当に生きているのか確認をするために、母親の鼻に顔を寄せると、規則的な寝息が頬に感じられた。


「良かった」


 シンは母親に抱きつきたくなる衝動を耐えてその場で横臥する。石の床の冷気が体に染み込んでくる。もし、真冬であれば凍え死んでしまうのではないか。そんな風に思われる冷たさだが、シンには心地良かった。熱くなっている体を癒やしてくれるように感じられた。このまま眠ってしまおうか。そう思った瞬間に、騒々しい足音が聞こえた。少しずつ近づいてくる。


 もしかして、とどめを刺そうとやってきた暴徒がいるのか。シンは母親を守るために立ち上がる。素手で勝てるはずもないから、水瓶が置かれている調理場まで戻り包丁を手に取る。


 大人に力で勝てるはずがない。相手も武器を持っていれば簡単に惨殺されるだろう。それでも、抵抗もせずに殺されたくはなかった。自分が盾になることで、母親を一秒でも守れたらそれでも自分の価値があるのだ。と自分自身に言い聞かせた。


「大丈夫か」


 玄関で立ち止まった人物が家の中に声をかけてくる。その声は男の声で、かなり低い。シンにとっては以前に聞いたことがある良く知った声だ。


「シンじゃないか。何があったんだ。扉が無くなっているじゃないか。母さんは? ユーファンは、大丈夫なのか」


 シンの位置からは、男の表情はわからなかった。男の背後から照らしている月明かりでは、逆光な上、光量が小さすぎるからだ。それでも、男の震えた声から、男の感情が推測できた。それ故に、シンは強く包丁を握る。


「出ていけ!」


 シンは腹の底に力を入れて怒鳴ったつもりだったが、か細い声しか出ていない。猛獣の前の子鹿でさえもう少しマシな声を出すだろうと笑われそうに小さな声だった。


「何を言っているんだ? 私だ。帰ってきたぞ」

「消え失せろ」


 シンは言葉にならない声で言い返しながら、一歩前に踏み出す。勢いをつけようと走り出す。ほんの数歩。数秒後には男に包丁を思いっきり突き立てることができる。シンはそう確信していたが、体は思ったように動いてくれない。足は前に出ていないし、踏ん張ることもできない。そのままゴロリと床に倒れ込む。


 まだだ。シンは立ち上がろうとする。しかし、もはや体は悲鳴を上げるだけ。


「どうしたんだシン。安心しろ。父さんだぞ」


 その一言で、シンは力を得る。最後の力を振り絞って立ち上がり、包丁を落とさないように握り直す。大きく息を吸い込んで止めた。この一撃に全てのものを託すと言わんばかりに全身の力を入れ直す。


「おいおい、冗談は止めろ。それとも聞こえていないのか? 耳がおかしくなったのか? ユーファン、ユーファンはいないのか?」


 シゾルが大声を出すのを聞いて、シンは全身が震える。ゾワゾワとした全身を毛虫が這い回るような気持ち悪さを感じて耐えきれなくなる。


「いい加減にしろ!」


 シンは先程より意味不明になる唸り声で叫びながら、走り出す。父親との距離は二十歩、いや、十歩程度。大人と言えども無防備な状態。シンが勢いと全身の力を乗せれば、致命傷を与えれることは間違いない。


 目前に立ちはだかる男を殺すことで母親を守れる。だから、やり遂げなければならない。全身の気だるさと混濁こんだくする意識の中でシンは奥歯を噛みしめる。必死になって近くて遠い場所に辿り着こうとしている。

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