第10話

「なぎさっ!」


「はい、渚ですよ。ふふっ、どうしちゃったんですか、そんなに慌てて」


 京子は電話口から聞こえる渚の穏やかな声に、自然と胸の内が安らぐのを感じた。彼女の声は、柔らかな羽毛が心を包むような温かさがあった。


「ど、どうして……」


「どうして? 電話のことですか?」


「うん……」


 京子は少し戸惑いながら答えた。夜の静けさが一層、渚の声を優しく響かせる。


「やだなぁ、今夜かけるって言ったじゃないですか。忘れてたんですか?」


「いや、覚えてたけど……本当にするとは思わなくて」


「私は京子さんに嘘を吐きませんよ」


「なら」


「なら?」


 京子の喉が詰まり、言葉が出なくなった。言いたいことは心に浮かぶが、口にする勇気が出ない。本心を伝えた後の反応が怖くて、迷いが心を乱した。


「言いにくいことですか? 大丈夫です、言ってください。私が京子さんを嫌うことは絶対にありませんから」


「……えと、なんで先に帰ったの」


 京子が勇気を振り絞って聞くと、電話の向こうで少しの間があった。聞くべきではなかったと後悔が押し寄せる。


「いや、その、答えたくなかったら別に……」


「……ふっ、あははは! そ、そんなこと気にしてたんですか!」


 渚が朗らかに笑い出すと、京子が感じていた気まずさも、彼女の笑い声に掻き消された。ふわりと柔らかな笑いが京子の不安を溶かすように漂う。


「そんなことって……」


「引っ越したばかりでしょ? それですべきことがたまってたんです。にしても、んははっ」


「わ、笑わんでよぉ。結構真剣やったのに……」


 頭の中でぐるぐるしていた悩みが、渚の笑い声で一気に払拭される。京子は胸に溜まっていた不安がふわりと解けるような安堵感を覚え、ベッドに横たわりながら深く息をついた。


「そっか、ただの用事だったんだ」


 安堵から喜びが生まれ、先ほどの重苦しさが嘘のように体を軽くした。京子は布団の中でふわっとした解放感に包まれる。


「でもなんでそんなに気にしてたんですか?」


「え、それは……」


 質問に困った京子は、気まずさを誤魔化そうと小さく笑いながら、曖昧に答えた。


「まあ、色々とね?」


「色々?」


「ほら! 色々だから!」


「ふーん」


 必死で話を逸らそうとする京子の様子に、渚が意地悪そうな笑いを漏らした。


「当てましょうか、なんでそんなに気にしてたのか」


「えっいや……な、なに?」


「私があの誘いに乗ってどこかに行くと思ったからでしょ? 京子さん、わかりやすすぎです」


「い、いや? いやいやいやっ!」


 見透かされて動揺する京子は、ベッドの上で足をバタバタさせながら顔を真っ赤にして反論するが、言葉がうまく出てこない。


「そんなに考える必要なかったのに。よく考えてみてください。誘いに乗るんだったら教室に戻らないとダメですよね。もしそうするなら、京子さんとまた鉢合わせることになっちゃいますよ」


「た、確かに……」


「私が離れると思ったんですか? 絶対ありえないのに。でもそんなこと考えてたんですね、かわいいなぁ京子さん、ふふっ」


 渚の冗談めかした言葉がさらに京子を困惑させ、思わず両手で耳をふさいで叫んだ。


「あー聞こえない聞こえない! なんも聞こえないよぉ!」


 渚の笑い声と京子の慌てる声が夜の静けさに響き、二人の間には、居心地の悪さを和らげる柔らかな空気が、電話越しに流れていた。

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