第9話

「え、あ、なんで。さっき行かないって言ったのに」


 断ったじゃん。あたしの方が大切だって言ったくせに、やっぱ顔がいい男について行くの。


 嘘吐いたんだ。あたしを必要以上に傷つけないために、あの場では行かないって言っただけなんだ。


「京子さん、そんな泣きそうな顔しないでください」


「泣いてないし……早く行ったら。待たせると悪いし」


「待たせる……? すみません、また明日会いましょう」


 渚は若干申し訳なさそうな表情を見せて、向こうへと急ぎ足で歩み始めた。先へと消えていく姿を、京子は微動だにせず見送った。


 彼女の顔には影が深まる一方だ。胸の奥には冷たい風が吹き込むような虚無が広がり、校内がかすれて見える。


 初めてできた好きな人がこうも簡単にこの手を離れ、たった数日の間だけの関係が終止符を打つ。


 悲壮感はなかった。ただ胸に残るぽっかりと空いた穴があるだけだ。絶望以外の感情がその穴を扉を通るみたいに素通りする。風が通り抜ける音だけが、心にこだました。


「あ、そうだ」


 急に踵を返し、自分の元に戻る渚が目に入った。慌ててその場を固まって見ていると、彼はスマホを片手に寄ってきた。彼の一歩一歩が京子の心に響き、緊張で鼓動が速まった。


「連絡先交換しましょ? 会えない時いっぱいお話ししたいです」


「……あ」


「はいっできました。今夜たくさん話しましょうね。それではまた!」


 渚は振り返って歩き去る。その背中が遠ざかっていくと、京子の手元には輝くスマホの画面が残るだけだった。そこに映し出されるのは『なぎさ♡』の文字列。


 嬉しむべきだろう。感激して声に出して喜べるはずだったのに。京子の頭ん中がぐちゃぐちゃになっていた。


 今夜たくさん話すってなんなの。寝取られ報告でもされるのか。胸の中の渦巻く感情がぐるぐると回転し、視界が狭まる。


「ははは」


 乾いた笑みが喉から漏れる。足取りは重く、ビルのネオンが夕空を切り裂く中、辿々しくも帰路に着いた。


 ……帰ろう。あたしみたいな負け組は帰ってベッドで枕を濡らそう。


 薄暗い道を歩きながら、どんよりとした空気に包まれ、いつもの倍くらいの時間がかかったように感じた。


 ため息が止まらない。ひたすらに憂鬱な気分だ。黒く塗りつぶされた脳みそで、正常な判断がつかない。

 

 ドアノブに手を伸ばし、引いた。


「……あれ」


 鍵を刺すのを忘れていたが、そもそも鍵がかかっていなかった。暗い玄関に身を滑り込ませ、冷たい空気が部屋に満ちているのを感じる。


「まあいいや……どーでも」


 今日は早く寝よう。そうして嫌なことは全部忘れてしまおう。リビングには散乱した書類や雑誌がそのままになっていたが、それすら目に留まらなかった。


 自室に入り、荷物を置いてベットにうつ伏せになる。布団が少しひんやりとして、肌に張り付くようだ。


「……」


 それでも甘い考えを捨てきれず、ひょっとしたら渚は本当に用事があって先に帰ったかもしれないと、都合の良いように妄想する。微かに聞こえる時計の秒針の音が、不安定な心を嘲笑うように感じた。


 でも、嘘じゃなかったかもしれない。だって今までのは全部あたしの想像なんだから。


 それが事実だと求めるように、縋るように窓に顔を向ける。


 明かりが見えた。


 今までの陰鬱さが消し飛ぶみたいに、バッと起き上がり、冷たいガラスをほおに張り付かせ、それを食い入るように見つめた。


「あ、なぎさ……」


 心に光が灯る感覚を覚えた。もう渚の顔を見れただけで、満たされる実感だ。彼女の影が動くたびに胸が高鳴る。


 昨日と同じ格好で、スマホをいじっている。しかしその顔はどこか満足そうで、ニヤニヤしているようにも思える。


 ブルルル、ブルルルル!


 静かだった部屋に急に鳴り響いた着信音。音が部屋全体に反響し、心臓が跳ねるように動いた。


 恐る恐るポケットから取り出して、いったい誰が電話してきたのかと、その画面をのぞいた。


「あ!」


 発信主が誰かわかった瞬間、躊躇なく画面をタップし、震える声で答えた。


「な、なぎさっ!」

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