涙壺と記憶の結晶
伊吹
涙壺と記憶の結晶
時給1500円でバイトをしていた。高架下の商店の外れにある2畳半の店である。店先に紺色のれんが掛けられている以外は吹きさらしなものだから夏は暑く冬は寒かった。窮屈な安っぽい丸椅子に座り、数時間に一度くるかこないかの客をじっと待った。いい加減な店なので、私がシフトがはいっていない時間は常にのれんの横に開店準備中の札が掲げられた。バイトを続けていたのは、シフトの間じっと座ってさえいればその他はてんで頓著しない店だったからだ。私はバイトの時間のほとんどを本を読んだり論文を書いて過ごした。
とある初秋の午後、熱い珈琲を飲んでいたら一組の若い男女が現れて、この店で販売されている涙壺に涙を溜めるとやがて結晶になり、その結晶を媒介して記憶だけがこの世に残るというのは本当かと聞いた。私がそうだと肯定すると、辛気臭い顔をした眼鏡の男は更に、それならばその結晶を燃やして灰にしてしまえばどうなるのかと聞いた。私は、その涙に関係する出来事の一切は記憶から消え決して思い出すことはないと答えた。
それならばと言って若い男女は涙壺を一つ購入して立ち去った。その後に私は釣りを多く渡しすぎていたことに気がついたが、まあいいかと思って男女を探すこともしなかった。それからひとつ季節が巡って深い冬がやってきた。私は査読に苦しめられていた。一人の若い男が店にやってきて、少し前にこの店で涙壺を購入したものですがと名乗った。私はしばらく考えてそれが秋口にやってきたカップルの男の方だと気がついた。
男は憔悴した顔で語った。この前に来た女の方は大人になるまで両親に虐待されており、それが基ですっかり心を病んでしまっていた。自分たちが知り合ったのは大人になってからで、その時にはすっかり両親とは離別していたが、それでも過去を忘れられず苦しんでいた。あんまり可哀想で過去から逃れるためには記憶を消すしかないと思い、涙壺の結晶を砕いて燃やして灰にした。彼女は確かに両親との記憶を一切なくしたが、それに伴ってその他のありとあらゆることも忘れ、自分が何者なのかも分からなくなり、なんと恋人である男の事すら忘れてしまったのだという。
それで、その女はどうなったのかと聞くと、過去を忘れ眼鏡の男のことを忘れ、性格は明るくハツラツとなり、今は眼鏡の男とは似ても似つかぬハンサムでマッチョな新しい恋人とよろしくやっているというので、私は思わず失笑してしまったが、男はスッカリしょげてしまっていた。
眼鏡の男は、女の両親とは全く関わりのなかった自分のことまでなぜ忘れたのかと恨みがましく続けた。私は答えた。両親とのありとあらゆる記憶が彼女の人格を形作り、その上で人生の選択を行ってきたのだから、男との出会いもまた過去や記憶に紐づくものだ。記憶を永遠に失うとはそういうことだ。そこまで言ったところで男がおんおんと泣き出したので、私は棚から涙壺をひとつ取り出して、その涙を溜めてみるかいと聞いた。涙を結晶にして女に食べさせればいい。そうすれば眼鏡の男との記憶も取り戻すだろうと続けた。
男はゾッとした顔で首を横に振り、そんなことをして何になる、と言った。別に何にもならない、と私は答えた。そんなことをしても何にもならないし、それは人生に意味があるのかないのかと聞くのと同じことだと。
この店に来る殆どの人は美しい記憶を留めておくために涙壺を買いにやってくる。そうしてできる結晶は大抵は大層美しいもので、あんまり美しいものだから食べる事すらせず鑑賞するために後生大事にしている。持ち主が死んでも記憶だけは結晶として残り続け、おいそれと破棄することもできずこの店に持ち込まれ、数百数千もの人の生と死を私は悼むことも鑑賞することもせずただ陳列している。
男は言った。記憶を涙壺に溜めて結晶を灰にすることを勧めたのは自分で、それによって彼女は苦しみから解放されたが、まるで別人だ。自分だけではなくありとあらゆる人を忘れて、かつての友人とは殆ど縁が切れ、仕事も変わってしまった。自分は本当に正しいことをしたのだろうかわからない。私は答えた。人生に正解も不正解もなく、選択を引き受けられるのは当人でしかないのだから、あなたにできることなど何もないのだと。
男は涙壺には一瞥もくれず、釈然としない顔で立ち去った。それから姿は見ていない。
涙壺と記憶の結晶 伊吹 @mori_ibuki
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