3.名前を忘れた猫

 まるで時間が止まったような感覚に陥った。


 世界としての時間。


 感覚としての時間。


 どちらもが、一瞬にして止まったように思えた。


 そして、あの言葉だけが、頭の中に響き渡る。


『忘れたのですか?』


 そんなわけ――


 そんなわけがない――


 忘れるわけがない。


 私は猫だ。


 私はいつも寝ていた。


 玄関の前で。


 待っていた。


 名前を呼んでくれるのを、待っていたんだ。


 ほら――


 覚えている――


 覚えているじゃないか――!!


『誰を待っていたのですか?』


 ――――


 あ――れ―――……


 再び時間が止まったように思えた。


 それと同時に、恐怖が込み上げてきた。


 自分の記憶に、巨大な欠落が存在していることを、知ってしまったのだ。


 驚く?


 怖がる?


 鳴く?


 いや、今は――ただただ、呆然とするしかなかった。


『名前が分からないならば、仕方ありません』


 呆然とする私を置いて、石像――イズは話しを進めた。


『思い出したら教えて下さい』


 …………


 はい?


 その言葉を聞いて、より一層混乱した。


『じゃぁ、そういうことで』


 待て待て。


 待ってくれ。


『はい?』


 そういうことでって、どういうことだ?


『そういうことです』


 思い出したら教えろって?


『そうですよ』


 どうやって?


『似たような石像がいたるところにあるので、それに話しかけて下さい』


『そうすれば、我々が反応すると思います』


 ゲームのセーブポイントですか?


『なんですかそれ』


 分からないならいいです……


『そうですか』


『では』


 待った!


 待ってくれ!


『……我々は忙しいのですが』


 最後の質問だ!


 これ以上は時間を取らせない。


『何でしょう』


 …………


 私は、忘れてしまったのかもしれない……


『はい』


 名前も……記憶も……


『そうですね』


 それは、認めよう。


 認めたくはないが……事実、覚えていない……


 だから、認める他ない……


 だが……


『何が言いたいのでしょうか?』


 ……思い出せるだろうか?


『何をですか?』


 名前……記憶をだ……


 聞かれても困ると思う。


『ええ、困ります』


 だけども、聞かせてくれ。


 今、この世界で私を知っているのは、君しかいない。


 頼れるのが、君しかいないんだ。


『…………』


 君の意見を聞かせて欲しい。


 頼む。


『そうですね』


『まぁ、生きてれば思い出すんじゃないですか?』


『それでは、思い出したら教えて下さい』


 そう言い残して、石像は何も喋らなくなった。


 どれだけ待てども、喋らなかった。


 どれくらいの時間が過ぎただろうか。


 森を照らしていた柔らかな光は、赤みを帯び始める。


 黄昏時が訪れ始めていた。

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