第9話 うろちょろ つつつ・・
山上さんの立派なカメラは、会場の一番後ろに陣取られておりました。 頑丈そうな脚でしっかと支えられておりましたから、きっと映りも上出来間違いありません。このカメラが最後部ならばこちらは最前線で、と言わんばかりにこれまた立派なカメラを、両脇に何台もぶら下げた青年がここで活動しておりました。
最前列の一番端っこで邪魔にならないように座って、出囃子の係りをしているのが私のいつもの姿でありましてね。そこをこの青年ったら、その私の前やら横やらに控えていて、パチリパチリと激写すると最前列のお客様の前を、つつつっと小走りに走って向こう側に行き、又パチリパチリと連写しているのです。
そうです、この方は鍋さんの息子さんなんですが、お父上達の晴れ舞台を撮ってやろう、と懸命なのでありました。それはとてもありがたいことなのですが、この会の仲間達はただでさえ芸が未熟なものですから、その小走りがまるで神出鬼没のゴキブリのように思えてなりません。
この寄席では先ずは師匠が開口一番といって、一等最初に皆さんの前に顔を出して一席伺います。会場も開演して暫くのうちは、まだ何となくザワザワと落ち着かないものでしてね、 遅れて来たお客が満員の会場の、どこかに座ろうとウロウロしていたりで、そんなお客に向かって師匠が
「お や、いらっしゃいませ、お待ち申しておりましたんですよ、ほんと。どうぞどうぞこちらのお席をご用意しておりましたんで・・」
なんぞと言って噺のこしを折られて、少々やり辛いところをうまくごまかしていますと、そのお客がやっと腰を下ろしてくれた安堵もつかの間、この青年がゴキブリよろしく、最前列の観客のまん前をつつつつつつぅーと横切りパチリ。 ぅっ、と言葉を飲み込み話を続ければ、又暫くして反対側につつつつつー・・と。 師匠はこれでも、まぁよろしかったんですよ。こんなことには慣れておりましたからね。
お祭りなんぞで呼ばれて行ったりした時などは、素人の落語などだぁれも聞いちゃぁくれないし、舞台の前を人は横切るし子供は泣くし、と多々経験を積んでおりますから珍しいことではありません。そして「トリ」といって皆の話の最後に、また出番がありますから、その時には真剣に聞いてもらえばよろしいのですから。
でも皆は違います。場数を踏んでいませんし、お客の好意で真剣に聞いて貰える状況下でしか話せないのでありますから、それはもうにっくきゴキブリめ!でございます。
「それで、あのなんだな、お爺さ・・あれっ・・」 つつつつ・・パチリ。
「さっきも言ったろう・・だから・・あれなんだな、お前が・・」 つつつつ・・パチリ。
なかなか落ち着いて話せません。更に気の毒なことに「あ宝伝」さんときたら、持ちネタの「疝気の虫」の最中に
「助けて下さい・・苦しいんです・・アタシはお腹の下の方に住む・・」
「そうですか、それではお蕎麦いただきますよ・・・んだよぉ、やりづれぇなぁ。あそこにいるお袋の目とバッチシ合うんだもんよ・・まいったなぁ」
と、ゴキブリとお袋とのダブルパンチで、猛攻撃されて撃沈しかかっております。
「どうした、助けてくれってか、苦しいのか。おうお袋さん、息子が苦しいんだとよ、何とかしてやれや」
と、どこからか声がすると、榎木さんのお母さんと奥方達に大きな拍手が沸きました。
続いて一兵さんです。
「大家さん、それでは参りますよ、宜しいんですかぁ・・」
といってるところに、つつつつー・・パチリ。で、どうも宜しくはなさそうであります。
しかし、この窮状をみかねて誰かが言ってくれたのでしょうか。それからはゴキブリの横断はなくなり平穏に過ぎて行きました。総崩れさえしかねない窮状を救って下さった、こんなに気の利くお方はどちら様でしょうか、せめてお名前を。それに応えて「ゴキブリ退治に、たったひと吹き緊張~る」と答えたかどうか、それは定かではありませんが・・
あっ、いけないそうだった! 私ったら、大変に失礼なことを申しておりました。たった今気が付きました、冷や汗三斗の思いでございます。こんな私ですからいつまでたっても、いえきっと永遠に「東谷落語研究会のマドンナ」にはなれないのですね。だってそうですわ、あの優しく温厚な鍋さんのご子息を、ゴキブリ呼ばわりするなんて。本当にばかでした、反省致します。で、お詫びの印に自らにひと吹き、シューッ!! あっあっ・・。ぐ・ぐるじぃぃ・・っ・・誰です?そこで喜んでいるのは、馬さんでしょ?あ、あ、あ、・・気絶。でも私は死にましぇ~ん。
鍋さんのご子息の腕前は大したものでありました。会場のあちらこちらから撮って貰った甲斐あって、写真には本当に楽しく素晴らしい、アットホームな寄席の様子が生き生きと写し出されておりました。この見事な写真は後に、大田区の区報に載せられました。「町の噺家さん紹介」と。
出たがりな皆は大変喜びました。で私は、と一生懸命に捜してみましたが、影らしきものすら写ってはおりません。隅から隅までクマなく捜しましたが見つかりません。シカなく、いえしかたなく諦めることに致しました。それはそうです、私、あの時にご子息をゴキブリ呼ばわりしたのですものね。バチが当たったのですわ。そう、やっぱりあの時、私はきっと消されちゃったのかも知れません。「緊張~る」って、よ~く効きますね、ほんと。
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