暗闇に潜む目

冬野ゆな

第1話

 夜にだけ現れるその影に気がついたのは、僕、ピーター・レスターがまだほんの子供の頃だった。

 夜というのは暗いものだと思っていたし、なにも疑問に思うことがなかった。夜は暗くて見えにくいなんて当たり前のことだったし、その小さな丸い影は夜の暗闇に紛れて、中央の一番奥に陣取っていたからだ。

 ベッドでおやすみを言うために顔を覗き込ませるママに、こう言った。

 ちょうどママの鼻を隠すのが面白くて、僕はくすくす笑っていた。

「ママ、そこにいると顔の真ん中がピエロみたいになるね。真ん中って、特に暗いでしょう?」

 そう言った次の日には、僕は母親に連れられて病院へと向かった。

 真っ白い建物は僕にとっては不思議だった。そこで僕は真っ白な服を着た医者に、あれこれと検査をされる羽目になった。視力や眼圧といったものから、何をしているのかわからない検査まで。とにかく目に関して色々と検査したあと、妙な機械にまで入れられて――それが脳の検査だということを知ったのはだいぶ後のことだ――嵐のようにあちこち回された後、ようやく最初の部屋に戻ってきた。

「おそらく、あなたのお子さんは――」

 医者は眼鏡を押し上げながら、ママを見た。

「通常より視力が弱くはあるのでしょうな」

 どうやら病名はつかないようだった。

「昼間や、夜でも明るい場所なら問題無いようなら、このまま何もする必要はありません。ただし今後は、昼間でも暗く見えるようになったり、なんらかの支障が出るようでしたらその時考えた方がいいでしょうな」

 ママは微妙に納得がいかないようだったが、それ以上はどうにもならなかった。

 結局のところ、僕は夜に多少弱いということになった。

 いま思えば医者にもよくわからなかったのだろう。


 とはいえ、それ以降は特に支障がなかった。

 昼間は大して問題が無く見ることができていたし、影が見えるのも夜だけだ。僕の夜目が利かないことを思って、父や母は廊下にフットライトをつけてくれたし、眠っている間はベッドの側に小さな淡い光のヘッドライトが点くようにしてくれた。

 おかげで僕は他の子供たちと遜色なく過ごすことが出来ていた。

 何度か定期的に病院に通って検査をしたが、特にこれといったことはなかった。

 次に異変に気がついたのは十代の中頃になってからだ。

 夜中も小さなオレンジ色の電球のおかげでちゃんとある程度見えていたのだが、黒い丸の方は少しずつ大きくなってきている気がした。全体に暗くなるというより、やっぱり中央部の小さな点が大きくなる感覚だった。明るい場所なら大丈夫なのは変わらなかった。

「暗いところの見え方が……大きくなってきている気はしますけど、明るいところなら大丈夫です」

「そうですか。検査ではやはり異常は見えないので、あまり暗い場所に行かない方がいいかもしれませんね」

 医者はそう言うだけだった。


 それから再び見え方が気になってきたのは、大学に入ってからだ。

 家を出て大学の寮に入ると、それまでの環境とがらりと変わった。

 寮の部屋には小さな電球はなかったから、フットライトをつけて夜中でもある程度見えるようにしておいた。それくらいだったら追加しても特に問題はなかったからだ。消灯時間はあるが、廊下も真っ暗というわけじゃなかったから、寮の中では不自由がなかった。

 ただ、さすがにどこかから帰ってくる時には懐中電灯が必須だった。電灯が無いわけじゃないが、少し不安は残ったからだ。それか、友人の車に乗せてもらうかだ。

 その日、僕は友人のクリスと一緒に、別の友人の誕生日パーティから帰る途中だった。

 クリスの運転する車に乗せてもらい、寮までの道を行く。

「そういえばピーター、目が悪いって本当か?」

「ああ、弱視なんだ。子供の頃からね。昼間は大丈夫なんだけど、夜はちょっとダメかな」

「それじゃ夜は暗くて見えない感じか」

「いや、視界の真ん中に黒い丸がある感じかな。穴がぽつんとあるような感じって言えばわかるか?」

「なんとなくは」

 頷きながら、右に曲がる。

「いまはどうなんだ。安定してるのか?」

「いや、実は子供の頃から比べて少しずつ大きくなってはいるんだ。なんて言えばいいかな……、視界の中心にある暗い穴が、だんだんと大きくなっている感じで」

「へえ。あんまり聞いたことない病気だけど、そういうこともあるのか」

「印象としては近づいてきてる感じに近いかな……。最近、また広がってきてる気がするから、どうなるかなと思ってるところだよ」

「じゃあもしかして、いまも前が見えてないのか?」

「いや、中央以外のところは見えてるけどね。でも夜の車の運転は、できれば避けたいとこかな」

 僕とクリスはそんな話をしながら寮へと帰り着いた。

 暗い車内からさっさと出ると、寮の入り口に明かりが見えてホッとした。その様子をクリスは見ていたのだろう。寮の階段を登っている最中に、不意に彼が呟いた。

「一回試してみるか」

 僕の目をまじまじと見ながら言う。何を、と聞き返す。

「お前の弱視だよ。広がってきてるなら大変なんじゃないのか。一度、いまどれくらい穴が広がってるのか確かめてみた方がいいんじゃないか」

「ああ、なるほど」

 一理ある。

 僕の部屋に一緒に入ると、フットライトを外して「実験」を行うことになった。

 動き回ると危ないからと、ベッドに座った状態でやることになった。目が慣れてくるのを待ってから、どのあたりまで暗闇が広がっているのか確かめるという流れだ。

「絵とかで描いてみるか?」

「それがわかりやすいかな」

「下手すると病院行きだからな、お前」

 クリスはにやにやと言ったが、こんなことに付き合ってくれるだけいい奴だ。

「じゃあ、電気消すぞ」

 僕が頷くと、クリスは部屋の電気を消した。

「どうだ?」

「まだわからない……。もう少しかな。……ああ、だんだん慣れてきた……」

 視界の中で、周囲がうっすらと見えるようになってきた。だけど視界の中央だけはそのままだ。暗闇がぽっかりと穴のように広がっている。毎回、これを伝えるのに苦労する。

「俺はもうお前の姿が見えてるくらいだ」

「うん。僕ももうだいぶ目が慣れてきた。いま、クリスが視界の端の方に見えてる」

 そういっていつもの調子で彼を見ると、ちょうどその姿がすっぽりと穴に隠れた。

 部屋の端と端にいるのもそうだが、思った以上に事態は進行していたことに自分でもびっくりした。昔はほんの小さな、それこそ片手の親指と人差し指で丸を作るよりも小さな穴だったのが、いまはそれよりも大きくなっている。

「じゃあ、このへんにいると俺の姿は見えないのか」

 クリスが両腕を大きく動かした。穴の向こうから腕だけが動いているのが見える。思わず笑いそうになる。まさかこんなに面白い見え方になるとは思っていなかったからだ。

「クリスが穴に落ちてる!」

「うわぁ! 助けてくれぇ!」

 両腕を上下に動かして言い出すので、吹き出してしまった。

「クリスー!」

 腕を伸ばして、助けるような仕草をする。

 他愛のない遊びだった。

 だが、僕の腕が黒い穴の中に入って見えなくなった途端、なんだかぬめぬめとした、やや弾力のあるものに指がぶつかった。

「うわっ!」

 思わず手を引っ込める。

「どうした?」

 指を見ようとしたが、見えなかった。

「何かに触ったんだ。目の前に何がある?」

「電気を点けるか?」

「頼むよ」

 すぐに明かりがついた。僕は注意深く周りを見たが、近くにあるのは乾いた布団や、堅い机や椅子、教科書といったものばかりで、似たような感触のあるものは無かった。指先に残っているのは、ぬめぬめした感触と、なんだかつややかな物に触ったのも覚えている。少し歪曲した、球体のようなものだった。だが目の前にそんなものは無かったし、クリスが何か置けたとも思えない。それに、僕はすぐ目の前に腕を出したのだ。ぶつかったものは結構な大きさの物だった。せめてクリスが持っていないと無理だ。

 僕はすぐにクリスを見たが、彼は電気のスイッチから手を離していた。

「なんだ、虫か鳥でも紛れ込んだんじゃないか?」

「そういう感触ではなかった気がするけど……疲れてるのかな」

 思えば誕生日パーティから帰ってきたテンションそのままの行動だったのだ。僕はなんとも言えないまま、その日はお開きになった。


 翌日になって改めて「実験」をすることになった。

 前回と同じように、クリスが電気を消して目が慣れるのを待つ。

「うーん」

 真っ暗になり、中央に暗い穴の広がった視界に手を伸ばす。指が何かにぶつかった。

「これだ!」

「まだ触ってるか? 電気を点けるぞ!」

 クリスがすぐに電気を点けてくれたが、やっぱりそこには何もなかった。それどころか、触っていた感覚は電気が点いて明るくなった途端に消えてしまった。何度か同じことを繰り返してみたが、それらしいものは近くになかった。

「これはひょっとすると、お前の精神というか、脳の感覚の問題なのかもしれないな」

「どういうことだ?」

「例えばほら、共感覚みたいなものがあるだろう……、音楽に匂いがあるとか、数字に色が見えるとか、本来は別の感覚が一緒に出てくる、みたいなやつだよ。ああいうのに近いんじゃないかな」

 クリスは首を傾げながら言った。

 僕があまりにぴんとこない表情をしていたからか、クリスは例えを変えた。

「あとは幻肢痛とかさ。失った腕に感覚があるとか、動かすような感覚があるとか。その逆で、それはお前だけが見えているものだろ。それを長い間見ているせいで、脳が実物のように感じるようになったって可能性もあるだろ」

 確かにそうかもしれない。

 僕は視界に不備があるのだと思っていたが、これは言い換えると視界に「穴がある」とも言える。僕だって何度かそうした言い換えをしてきた。

 視界の悪化具合を確かめるのが目的だったのに、まさかこんな症状が出ているとは思わなかった。この穴は僕にしか見えていない。でもこれはあくまで目の不調であって、脳に異常があるとか、そういうものではなかったはずだ。

「どういう感触なんだ?」

「穴に沿って何か……、こう、球体があるような感じなんだ。これぐらいの大きさの……」

「じゃあ、穴っていうよりは球体がある感じに捉えてるのかもしれないな」

「……そうかもしれない」

 視界に開いた穴ではなて、これを脳は球体とイメージしていたのか。自分ではまったく思い至らなかったことに、僕自身戸惑っていた。


 それから僕は、暗くなるたびに改めて手を伸ばし、穴のある場所に触れた。

 僕自身はずっと穴だと認識していたが、指先は滑らかに歪曲した球体に触れた。指先でそのまま、歪曲した部分をなぞってみる。表面はやはりぬるぬるとしていた。指先に液体がつくような感覚がある。これも僕の脳が認識しているだけなのだろう。

 どこまで続いているのか探ってみる。どうやら「これ」は完全な球体として存在するわけではなかった。前の前に見えている丸い部分だけに感触があり、後ろ側には触れることができなかった。ぬるぬるとした表面もそのままだ。

 これは僕の脳に起きていることとして、かなり興味深い。

 僕はそう思って、反対側の手を伸ばしてベッドサイドの明かりを点けた。途端に部屋の中が明るくなり、僕の目の前の球体も消えた。

 ふと指先を見ると、先ほどまで球体を探っていた指先が濡れていることに気がついた。指同士を擦り合わせてみると、ぬるぬるとした液体がついていた。突然、背中がぞくりとした。慌てて服をこすって液体を拭い取ったが、服が僅かに濡れていた。気分が悪い。これも僕の幻覚なのか。


 その日は朝から大雨だった。

 おかげで部屋の中は真っ暗で、急いで起きてベッドサイドの明かりを点けなければならなかった。でもその前に、目の前に真っ暗な闇が迫っているのに気付いた。

 穴が広がっていた。

 いや、近づいていた。

 僕のすぐ目の前にいる。

 いままで遠くに存在していたものが、だんだんと僕に近づいてきたのだ。そもそもこれは本当に穴なのか?

 ばくんと心臓が跳ね上がる。至近距離でじっと見られているような感覚になる。気がするだけではなく、これは見られているのだ。視線を感じる。僕のすぐそばにいる。黒い目が僕を見ている。僕の脳がそう認識しているだけだと思い込もうとする。震える手で、手を伸ばす。ぬちゃりとした感触と、ぎょろりとした強烈な視線を感じた。

 僕は液体に包まれた球体の正体を察した。

 これは目だ。

 ああ、僕は――僕はこいつの目に触れていたんだ!

 子供の頃から僕はこいつの目を見ていたんだ。こいつにとうとう見つかってしまって、いま、ようやく――。視界いっぱいに広がる黒い目がぎょろぎょろと動いて僕を見つめる。僕は悲鳴をあげ、急いで明かりをつけようとした。でも遅かった。

 僕の視界を通して這い出してきたそいつは、僕を永遠の暗闇で包んだ。

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