外の世界、街へ
山を下った先の平野には、大きな街が広がっている。山林を流れ出た川がその中に吸い込まれ、蛇行に沿って人が集まり発展した様が見て取れる。いくつもの櫓が等間隔に立ち、黒い瓦に覆われた大小様々な家々を見下ろしている。
「すごい。村長の家より大きい家がたくさんある」
少女は、初めて見る大きな街に目を白黒させている。元の村では二階建てが精々村長の家くらいだったし、瓦を使った家など一つもなかった。少女が大きな『家』だと思っているのは、実際には商家や妓楼だったりするのだが。
「で、どうしてこんな藪の中から遠巻きに眺めているだけなんですか? あの街に用があるんですよね?」
髪や袖に張り付いた小枝や虫を払いながら、やや不満そうにしている。男の背中から飛び降りて勇んで駆け出そうとしたところを、首根っこ掴まれて放り込まれたのがここだ。
「もうすぐ夜になる。お前の格好は目立つから、暗くなってから動きたいんだ」
視線と顎で着ている服を示されても少女はきょとんとしている。白無垢と言えば聞こえは良いが、生贄装束という特別な仕立てのせいで、華美ながら微妙に死装束のようにも見える上に、一晩山の中で転げ回っていたために泥まみれであちこちほつれもある。世情に疎い少女には、いまいち理解できないようだが。
「それを言ったら、おにいさんこそ浮浪者そのものな格好じゃないですか。服というよりも屑ですよ、それは」
少女の言う通り、男の格好こそ襤褸同然。綺麗にしていれば目を引く顔立ちの少女が全身ボロボロでこんな男に連れられていれば、服云々ではなくともたちまちお縄になるだろう。
けれどもそれは怪異としての男の一部であるので、
「あ、あー! ずるいですよ!」
瞬きの間に男の服はくたびれた藍の衣に変わっていた。そこそこの家の大黒柱か、商家の使用人程度には見えるだろう。
「呪詛でそんな事できるなら、あたしの事だって誤魔化せるんじゃないですか?」
「これは呪詛ほど高度なものじゃない。…………あと、軽々しく『呪詛』とか言うな」
「なぜです?」
「言葉には力があるからだ。災いを呼ぶようなことを自ら口にするな」
真剣な口調に気付いたのか、少女は僅かに口を尖らせたものの反論はしなかった。
「それで、その……あたしの格好もなんやかんやのそれっぽいあれやそれな感じの術で誤魔化せないんですか?」
「分かった、妖術とでも呼んでくれ。誤魔化せないことは無いだろうが、他人に掛けるのは自信がない」
「……………………」
「なんだ?」
いつも、と言いつつ共に行動して一日も経っていないが、いつもなら黙らせないと喋り続ける人間に沈黙されると気味が悪い。
「いえ、実はおにいさんって大した事ない怪異なのかな、って」
口を顔面ごと掴んで黙らせた。
※※※※※
夜の帳が下りた頃。二人は街の中、外縁に沿って進んでいた。少女にしてみれば、目に入る建物から幟から、あらゆるものが初めて見るものなのではしゃぎまわって目立たないようにと、きつくきつく言い聞かせたおかげで静かに歩みを進めている。時折、少女が回り込むようにして男の顔を睨めつけているが恐らくは『何処に向かっているのか』と問うているのだろう。その尽くを男は、無視する。
程なくして、手入れはされているが古びた門の前で止まる。
「ここだ」
「ここは?」
「寺だ」
「寺……」
ごく普通の造りなので、見れば寺と分かるものたが座敷牢生活に加えて、そもそも村には寺が無かったこともあり少女には分からなかったらしい。けれども『なるほど』とか、『これが』などと呟いているので知識はあるらしい。
街に入ってから物珍しげにあたりを見回していた両目が一層忙しなく寺を観察……し始めたところで、唐突に門が内側から開いた。飛び上がって驚きの声を上げかけた少女の口を男の手が塞ぐ。
「お前がここまで来るとは、珍しいじゃあねえか。それも身だしなみ整えて土産までついてやがる」
門の中から声がする。けれど、声の主は見えない。土産とはどこぞと男の両手を探り出した少女の首根っこを掴んで門の内に進む。
「土産には違いないが、あんたが言うと物騒だ」
「こんな夜更けに、こそこそと小汚ねぇ娘っ子連れてくりゃあ何かの手土産かと思うだろうが」
境内の闇に紛れていたのは、六尺はゆうにあろうかという大男だった。しわがれた声をしており、眉にも白いものが混じりだしている老人にも関わらず、その体格もあって見るものを威圧する覇気のようなものを放っている。
袈裟を着ていなければ、間違いなく野盗か何かに見えるが、その袈裟のせいで余計に危険な人物という印象を強めてしまっている。
「どういう事だ? 生贄の娘っ子じゃねえのか?」
太い眉を寄せながら僧侶が訝しむ。
「そうなんだが、事情があってな。坊さん、こいつの世話してやれないか? 役に立つと思う」
驚きの声を上げたのはむしろ少女の方で、寺の主は沈黙したまま深まる疑問を表すように、僧侶の眉間の皺も深くなる。
「……嬢ちゃん、名前は?」
「……そういえば、君、名前は?」
出会ってから丸一日経とうというところで、ようやく男がそのことに気が付いた。名前を知らない。
男二人、しかもどちらもあまりよろしくない風体の二人から顔を覗き込まれて、珍しい事に少女が狼狽えた。二人の間で視線を彷徨わせて唇を震わせている。
「大丈夫だ。この坊さん、こんな見た目だが悪い奴じゃない。間違っても名前を使って呪ったりなんかしないよ」
「ばかやろう、お前のことが怖いんだぞ。生贄にされたってんだから、いつ取って食われるか不安なんだよな?」
やんややんやと言い争いを始めた大人達に若干引きつつ、狼狽えている少女が、それでもなんとか声を振り絞り始めた。
「その…………め、です」
「ん?」
「おとめ、です。そう呼ばれていました」
男二人が顔を見合わせる。語感が違うものの、『乙女』などとわざわざ名前にはしない。言い淀む様や彼女の境遇を考えると――
「記号、か?」
「…………」
「それは、名前ではなく記号なんだろう? 遠からず死ぬ資源としての君につけられた」
言ってから、失態に気付く。村の因縁から解放されて晴れ晴れとしていた少女に、その境遇を突きつけるのは悪手に他ならない。取り繕い方を考えている間に、当の本人は気にした風もなく、むしろ冷静に返事を返してきた。
「そうです。理解が早くて助かります。申し訳ないのですが、あたしは人間としての名前をとうの昔に忘れてしまいまして……。『おとめ』でも、君、でも好きな様に呼んでください」
名前が無いことに対する気後れだったのか。
――ならば
「椿、だ」
「……え?」
「椿だ。今から君の事は、そう呼ぶ」
寺の門の脇、山々が紅く色付く中で青々とし、丸く膨らんだ実を抱える椿の木が目に付いた。
それだけのこと。
そんな男の視線の動きをなぞり、少女――椿として成った少女は目を細める。自分の名を口の中で呟き、名付けた者と由来となった物を確かめるように見つめた。
長いこと、見つめていた。
「で、おにいさんの名前は何ですか?」
椿が『おにいさん』と言った途端に豪快に吹き出した僧侶の脛を、一先ず蹴り飛ばす。
わざとらしく痛がる僧侶を眺めるフリをしながら考える。さて、困った。
「嬢ちゃん。いや、椿嬢。こいつも名前は無いんだ」
「どういうことです?」
「そりゃあ、」
喋り始めた僧侶の肩を掴む。それだけで静かに身を引く大男に、八つ当たりの苛立ちを覚えながら自らの口で語りだす。
「君は、さっき俺のことを『大した事ない怪異』ではないか、と言ったな。その通りだ。俺は形を持たない、取るに足らない怪異の端くれだ」
「形を持たない?」
「椿嬢、怪異ってのは人間に『知られている』ことが一番の存在証明なんだ。例えば鬼や天狗。名前を持っているっていうのは、何よりも強い自分の形になる。それを……嬢ちゃんは今まさに実感したはずだ。だな?」
椿は深く頷く。
「俺は、怪異が皆そうであるように、人間の恐れが集まったものだ。誰かが名前を付けなければ山の中で早々に消えていたような、な。たまたま、昔々に椿の村の住人が何となく祠を建てたことで、名前も無いながらなんとか消えずにいたんだ。《ほこらさま》なんて通称には、大した力も無かったしな」
「祠、壊してごめんなさい……」
「壊したぁ!?」
流石に驚きの声を上げた僧侶を、蹴飛ばして静かにさせる。
「じゃあ、名前があれば祠が無くても平気ですか?」
「む、どうだろうな。広く、多くの人間に知られてようやく……」
「あなたの名前は、『竜胆』です」
ぽっ、と。それは山から見下ろした遥か麓に見える提灯か囲炉裏か……そんな微かな燈だった。
けれどそれは確かに、小さく小さく男の胸の中に灯った。
「…………椿、どうして竜胆なんだ?」
「おにいさんが――竜胆があたしを椿って呼んだのと、同じ理由だと思いますよ」
そう言って少女は、大きく笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます