祠壊したら死に損ねた話

海老原ビスク

山中にて、一夜

 斧が木を砕く音が木霊している。人里離れた山奥、それは取り立てて珍しい音ではない。真夜中でさえなければ。加えて一心不乱に斧を振るうのは小柄な女であり、あらゆる要素が不均衡なその場には、ある種日常とかけ離れた異界の空気が満ちていた。若く見えるその女は、子供のような体躯に反して酷く大人びた顔のせいで、年頃もよく分からない。

 もう何度、斧を振り下ろしたかも分からない。肺が取り込む空気の量は明らかに足りず、苦悶に歪んだ顔には涙と涎が滲んでいた。

 振り下ろした斧が地面に突き刺さり、引き抜くだけの力を生み出せなくなった両手が頭上にすっぽ抜け、その反動でひっくり返る少女。意思に反して冷たい地面に落ちた尻に鈍痛を覚えつつ、見下ろした両手はあちこち擦り切れて血まみれだった。肩で息をしつつ目の前の祠――祠だったがれきの山を睨みつける。七つの童が隠れられる程の大きさだったそれは、無惨な姿に成り果てて散らばっていた。

 目を凝らせば辺りを包む夜闇よりも尚暗い、霧のよう何かが霧散していく様が確認できる。


「どうだ。……ははっ、ざまあみろ……滅んじまえ。村長もおじさんもおばさんも……みんなみんな、あたしだけ死なせて生き延びようなんて、させるもんか。村のため? 知るもんか。お前らが、あたしに何をした?」


 少女は生贄だった。早くに両親を亡くし、貧しい村にあってそれでも売られることなく今日まで生かされてきたのは、まさに目の前の、がれきの山が理由だった。


 『清らかな乙女を生贄に捧げよ』


 祠に封じられた、最早その名も伝わらなくなった怪異ほこらさまが、昔々に村と交わした約束だった。それを守る限り、《ほこらさま》は害を為さず、村を大きな災いから守る……と言われていた。祠を壊せば災いが起こる。軛を失った《ほこらさま》が殺戮を繰り広げるのか、はたまた守護を失った村が外敵に滅ぼされるのか……。


「滅んじまえ…滅んじまえよ」


 生贄にするべく、傷つかないように死なないように、そうして幼い頃から監禁されて過ごした村に未練はない。そこはとうに故郷とは呼べない土地になっていた。純潔だけは汚さないようにと、けれど何をしても後腐れがないからと薄汚れた行ないをしてきた大人達を思い出した。意味も理由も考えずに、遠くから石を投げるように虐げてきた悪童達の顔が脳裏から消えない。

 震えが収まらない右手で、懐からタバコを取り出した。村を脱走する時に、斧と一緒にくすねてきた自分への餞。死ぬ前に、少しくらい大人っぽいことがしてみたくて、ただそれだけで選んだ消耗品。


「…………っぶ⁉ ごっ、うえっへ! まっず!」


 大人たちが美味しそうにふかしていた姿に多少憧れていたものの、現実は非情だった。『生贄の条件』とやらのせいで生贄はタバコを吸ってはならないらしく、こうして生贄として不適となったところで《ほこらさま》に殺してもらおうと思っていたのだが。最後の記憶がしょうもない匂いで終わるなんて、とやるせなさに苛まれ、


「あ〜あ。祠、壊しちゃったんだ。これはもうダメだね」


 頭上、体温すら感じるほどの距離から低い低い男の声がした。驚きのあまり声も出せず、転がるようにして距離をとってからぐるっと体を反転する。情けなく這いつくばったまま目を見開くと、背後にいた声の主は、腰を屈めて地面に放り出されたタバコを拾い上げると、美味そうに吸い込んでいた。


「あ、あ、あな、あなた……?」


 驚きのあまり吹き飛んだ疲労の代わりに、恐怖に支配された喉はうまく声を発せない。再び乱れだした呼吸のせいでどんどん狭くなる視界、けれど目の前の男に魅入られたように、視線を切ることも逃げることもできない。


「僕? 僕はね、君たちが《ほこらさま》と呼ぶモノだよ」

「ほ、《ほこらさま》? こ、殺、殺す? 食べ、食べ?」

「いいや。食べないさ。ごらんよ、この口で人間を食べるなんて、少しばかり無茶だろう?」


 そういうと、咥えていたタバコをぽとりと落としてあんぐりと口を開けて見せる。ご丁寧に、両の人差し指を口に突っ込み頬まで広げた。確かに《ほこらさま》を名乗る男の口も歯も人間のそれと変わりなく、けれど強烈な禍々しさを放ち、目にするだけで動機が激しくなり、タバコの臭いをかき消すように、根源的な恐怖が直接脳天に突き刺さる。


「食べるんじゃないよ。犯すのさ」

「………………犯す?」

「そう。それが一番無駄なく生気を吸い取れるのさ」

「――――――犯すの?」

「ああ。恐いかい?」


 にたり。と、バケモノじみた笑みを浮かべたのは、


 少女だった。


「本当に⁉ あたし、おじ……おにいさんみたいな全体的にぼさぼさして髭もろくに整えてないけど実は結構鍛えてて喉仏大きめで渋い低音ボイスで厭世的なことばっかり言ってそうな人が好みだったの!」

「……ん?」

「身長差も絶妙! タバコ吸ってるのはイマイチと思ったけど虫歯が無かったのは印象が良い! 歯の黄ばみもなかったし、初体験にして姫納め(?)がおじ……おにいさん相手なら割と本望かも。祠を壊した甲斐があるってものね!」

「ちょっと」

「というわけで抱きます」


 刹那。

 獣の如く四肢で大地を踏みしめた少女は一息の跳躍で《ほこらさま》の足元に迫る。しなやかな太ももが生み出した驚異的な膂力に人の身は耐えられず、両手足の爪が何枚も割れる。その勢いのまま、風の音すら置き去りにした鋭い足払いを放ち……


「あれ?」


 薙いだはずの男の足は、僅かな手応えだけ残し、霞のようにかき消えた。けれど男は何事も無かったかのようにその場に立ち続けている。

 消えた両足が浮かび上がったところに、二度三度と蹴りを放つが結果は変わらない。仕方なく、直接股間に掴みかかるがやはり触れることは叶わない。


「…………言ったでしょ? 『これはもうダメだ』って」


 意味が分からず首を傾げる少女。あどけない仕草とは裏腹に、その瞳は獣欲を宿し夜闇の中で爛々と輝いている。


「祠を壊したんだ。それは、僕をこの世に繋ぎ止める軛だったんだよ。もう四半刻もせずに僕は消えるよ」

「嘘でしょう?」

「まさか。良かったじゃないか。君は晴れて自由……おい待て、何を……いや本当に何をしている、待て待て待て」


 三度、身を翻した少女は右手に斧を、左手に祠だったがれきを持つと、一心不乱に振り回し始めた。


「えぇ……どうなってるの? なんで斧一本で釘打ちから製材まで綺麗にこなしてんの……」


 かつて祠だったがれき山から、たちまち組み上がっていく新たなる祠にその主たる男はむしろ怯えている。

 カァーンと一際高く響いた釘の音を最後に、少女が振り返る。


「どうでしょう。会心の出来だと思いますが」

「うん、君、うん。とても大工仕事の心得があるようにはみえなかったが……。しかも呪詛を使わずによくもまぁ、軛の祠を組み上げたね。これで消えずに済みそうだ」

「呪詛は知りませんが。煩悩を込めました」


 一回り小さくなり、両手で抱えられそうな大きさになってしまった祠。それでも確かに軛としての役目を果たしている祠にそっと触れる。男は輪郭を取り戻した体を確かめるように、足を踏みしめ両手を擦り合わせる。その一つ一つの仕草に合わせるように、少女がにじり寄る。


「生きの良い処女がほら、目の前に。さあ、どうしますか?」

「分かったよ。君も、それが本望だって言うなら」


 片手で指が周り切りそうな程に華奢な少女の首を掴む。たったそれだけで恍惚の笑みを浮かべた少女を、《ほこらさま》を名乗るモノが抱き寄せた。


――せめて優しい最期を与えよう。


※※※※※


「うぬぅぅぅう……うぉ、うぬおおおおぅぅう!? ぐぇぇええ」

「あんなに可愛らしく悦んでたくせに、さっきまでの嬌声はどこいったんだ……僕が言うのもなんだけど」


 行為を終え、少女の生気が漏出する。思いがけず質の良いそれに、《ほこらさま》は僅かに目を見張った。歴代でもこれほどの生贄は覚えがなく、今夜限りで味わえなくなる事が心の底から惜しい程だった。

 けれども、当然だがその持ち主はたちまちのうちに迫りくる死に苛まれる事となる。


「うぎぎぎつらいつらいつらい空腹と吐き気と頭痛と耳鳴りと関節痛と生理痛が全部襲ってきてる感じががががが」

「意地を張るな。意識など手放してしまえ。すぐに……楽になるはずだ」


 うずくまり、悶え苦しみながら急速に死に向かう少女の髪を撫でてやる。

 生贄にするべく、身体は細やかに手入れされており、斧を振り回して皮のめくれた掌や割れた爪を除けば、まさに珠のようなと言うべき肌とつややかな髪だった。徐々に小さくなっていく痙攣に比例し、呼吸も穏やかに、けれど消えてゆく。


 そうして、山に静寂が戻る。


「…………あれ、治まりました。生気吸われるのって、一回じゃ死なないんですか?」


 動かなくなったかに見えた少女がバネじかけのように勢いよく上体を起こした。男は思いがけず悲鳴を上げるところだった。


「莫迦な、確かに絞り尽くしたはず」


 暗い穴のような双眸を見開いて、男は驚愕を隠せない。不思議そうに自らの身体をぺたぺたと弄弄っている少女の両手が、血まみれの掌が赤い跡をそこら中に残し


 現れた掌は、傷一つなく綺麗な白い皮膚が張っている。


 なるほど。これはもしかすると。

 幾千幾万の夜の果てに、遂に奇跡が訪れた……そう考えて良いかもしれない。


「これ、もう一回やっちまって良いってことですか!? やったぜ冥土の土産とは言え一回こっきりじゃ物足りないと思ったんですよね!」


 ギラリと闇夜に光る瞳。それは獣でも怪異でもなく若い人間のものだ。


「待て……おい待て、ま」


 その夜、山からは途切れることなく男の悲鳴が響き渡り、麓の村は恐怖に包まれたという。


※※※※※


「ところで、『清らかな乙女を』って契約だったらしいじゃないですか。でも、二回目以降も毎度あたしの生命力吸ってますよね?」

「あぁ、なんつうか、実はあんまり条件なんて無くてな。その方が『らしい』だろ? 別に処女か否かは関係ないし、なんなら老若男女なんでもいい。まぁ、世間知らずの未通女なら扱いやすいってくらいの理由で」

「……男でも良いんですか?」

「性欲からの行為ってわけじゃないからな」

「今すぐ年下系バリ攻め男子を都からむぐぐぐ」


※※※※※


「寒い……」

「だろうな」


 情熱的な(ただし少女視点)一夜明け、山間部の明朝は冷え込む。昨夜のうちに死んでいるはずだった少女の格好は当然明日を生きるための備えにはならず、儀礼的に用意された白無垢の一揃えのみ。それとて、最後の一戦で遂に力尽き、のしかかったまはま動かなくなった素っ裸の少女を放り投げた後、流石に哀れんで掛けただけだ。総絹仕立てなのが救いとはいえ、防寒の用に足るほどの厚みは無い。

 男も、襤褸ということに目を瞑れば同じような物だが、こちらはそもそも人間では無いのだから寒さも暑さも無い。


「凍死は嫌だ……腹上死がいい……腹上死がいい……」

「僕より君の方がよっぽど怪異じみてるな」

「うるさい! 小娘一人腹上死させられずに何が《ほこらさま》だ! 恥を知れ!」


 口ばかりよく動いているが、一晩中生気を吸われ続けた少女は地面に倒れ伏したまま顔を起こすことすらしない。表情こそ満ち足りているが、目の周りはどす黒く隈に覆われ、肌も土気色。爛々とした目を閉じてしまえば死人にしか見えないだろう。


「そうは言ってもねぇ……普通は一回で死ぬんだよ。君、一晩で何回生気吸われたと思ってるんだ? はっきり言って異常だよ」


 一方で男は、肌艶こそ元服前の子供のように輝いているものの、相変わらず全体的にぼさぼさとしているし瞳だって真っ黒で死人の様だ。


 寒い寒いと喚くばかりで、どうやら震える気力すらも残っていない少女を気の毒に思って、ついっと指を振って篝火を生み出す。

 おおっと感嘆の声を上げる少女。


「すごい、そんな呪詛ってそんな簡単に使えるんですね」

「簡単ではないが……」

「でもほら、なんか唱えたりとかそういうのしないし」

「あぁ、それはね。下書きみたいなものだから、必ずやらないといけないわけでもないんだ。今、指を振ったのだって火の熾る場所がずれたら君が燃えるからってだけで……」


 本格的に解説すると夜になるけれど、まぁ、術師の講義でもないのだから適当に。

 寒い、の次は、ほほぉんとかへぇぇとか言ってる生物を見ながら内心頭を抱える。勝手に死んでいったこれまでの生贄と違って、殺さないと死にそうにない。


 けれど、それは男の『在り方』に反してしまう。


「君、村には帰れないんだろ?」

「おうとも。のこのこ帰ろうもんなら、八つ裂きにされてここまで熨斗つけて運ばれてくるぜ」

「村の外に身寄りは……いるわけないか」


 少女は鼻を鳴らすと、篝火を黙って見つめ始めた。世間は優しくなんてない。身寄りも財も力も無い小娘が一人で生きることは不可能。死なずに済んでもせいぜい奴婢、妓女にされるならまだましかもしれない。


 しかし。


 しかし、男は知っている。少女の持つ「力」も、それを活かしうる人生も。


「日が高くなったら、とりあえず川まで運んでやるから、」

「溺死は嫌だ……」

「違う。しばらくここで寝ていろ。木の実か何か見つけてくるから。それ食って水飲んだら山を下りるぞ」

「八つ裂きは嫌だ……」

「…………村とは反対の麓だ」


 口を開かせると話が進まない事が分かってきたので、一息に続ける。


「君の生き方を決めに行こう」


※※※※※


 無理矢理顔まで着物で覆ってやると、一言二言だけ文句が聞こえてきたものの、すぐさま寝息を立て始めた。太陽が頂点に来る頃に鼻先に適当な木の実を押し付けてやれば、目を覚ますよりも早くかぶりついてきた。指先すら満足に動かせない有様だったのに、一眠りしてなけなしの木の実を食べただけでも見違えるほど元気になっていた。


「冷た! 川、川って冷たいんですね」

「そりゃそうだろう」

「いやほら、あたしって一応箱入り娘でしたから」


 生贄のための、箱入り娘。普通の村娘ならばある日に焼けているのは当然だし、野良仕事や子供同士の喧嘩で生傷も絶えないはず。だと言うのに、少女は貴き身分の姫君と見紛うほどの白い肌に傷跡一つない身体をしており、光の当たり方でその時々で輝きを変える見事な御髪を持っていた。

 てっきり傷跡すら無いのは、昨夜見せた驚異的な回復力のせいかと考えていたが。


「まるで外に出たことがないのか?」


 冷たい冷たいと騒ぎながら、物珍しそうに水を飲んだり顔を拭っている娘に背後から声をかける。


「そうですよ。座敷牢です座敷牢。おかげで直接暴力を振るわれることは、ほとんどありませんでしたけど」


 『直接』を強調してみたり、『暴力』に含みを持たせた言い方だった。


 一通り川遊び、もとい身支度を整え終わったところで少女の小柄な身体を背負い上げる。またひとしきり背後から文句をぶつけられるが、無視する。祠まで自力でやって来たとは言え、履いていたのは儀礼用の雪駄だった。山を下るには不向きとしか言いようがない。


「箱入り娘にしては、よく祠まで来れたものだな。人並み以上に体力が無いとつらかっただろうに」

「え? だって、そういう契約ですよね? 生贄の要件って……」

「何?」

「え?」


 曰く、清らかであること。男女の交わりのみならず不浄なる物を取り込まないこと。


 曰く、健やかであること。心身頑強であること。主に足腰。膝や足首はくっきり腱が浮いているのがいい。


 曰く、過度にふくよかではないこと。脂肪より筋肉をつけること。胸部の脂肪は少なめがいい。


 曰く…………


「…………そんな事決めてた気がするな」

「ふざけないで下さい。これのせいであたし、ささみばっかり食べてましたし、脂質制限させられるは、座敷牢だって言うのにやたら鍛錬ばかりさせられて……。見てくださいよ、この健脚! 箱入り娘なのに!」


 背負われたまま器用にじたばたと暴れながら抗議する。思わぬ所で、昨夜見せた俊敏さの原因が判明した。


「いや、それを差し引いても獣じみた動きだったぞ」

「黙れ! よく考えたらこれ、全部貴様の性癖じゃないか! 貴様のせいであたしの胸は……胸は……」


 上下左右に振り回していた手足が項垂れたまま動かなくなり、代わりに嗚咽、しまいには慟哭が始まり、男の背中に密着した体躯から横隔膜の震えがはっきりと伝わる。


「おい、嘘泣きなら鬱陶しいだけだ。やめろ」


 人間の感情に聡くなければ怪異は務まらない。慟哭のフリは止まったが、


「おい、無闇に動くな。大人しくしてろ。落ちたら痛いぞ」

「慎ましやかな胸なりに、男性がときめく押し付け方を探求してるんです。邪魔しないでください」


 放り投げてやろうと首根っこを掴んだところで一旦落ち着いた。そのまま、猫の子にするように宙ぶらりんのまま背中から眼前に片手で少女をぶら下げる。今度は打って変わってされるがまま、まさしく猫の子のように身動き一つせず宙づりになっている。


「僕がその気になれば、君は次の瞬間に八つ裂きになるんだぞ。分かるな?」

「構いませんが?」


 心底不思議そうに男を見つめ返す瞳。相変わらず大きな眼で、けれどそこに見える光は昨夜とはまるで違う。本当に生に執着してはいないことが、ひしひしと伝わってくる。


「もともと昨日のうちに死んでいるつもりでしたから。お兄さんが殺したくなったらいつでも殺してください」


 できれば腹上死で。そういって、少女はあっけらかんと笑った。


「今朝はあんなに死にたくない、と騒いでいたじゃないか」

「節操なしみたいに言わないでください……。死にたいわけではないです。納得できる形でなら、今すぐ死んでも構わないというだけです」


 じっとお互いに見つめあう。威嚇するように慈しむように、けして視線を逸らさなかった。木の葉が風に舞い幾度も二人の間を通り過ぎたころ、男は黙って少女を背負いなおした。

 しばし無言のまま、枯れ枝と落ち葉を踏む音だけが響く。


「僕のせいか?」


 背中に向けて問いかけても、唸り声以外に言葉は返ってこなかった。


「死んでも構わない、というのは生贄になったせいか?」

「あぁ、そういうことですか。まぁ、そう言えるかもしれませんね」


 それからぽつぽつと、少女は身の上話を少しだけした。

 物心つく前に身寄りがいなくなっていたこと。

 長年の監禁生活の中で起きたこと。

 鳥の声が聞こえたこと。

 寒くて暑くて、温かかったこと。

 花の香りがしたこと。


「あたしはもう死んでるはずで、あたしの為に生きてる人はどこにもいなくて。だから、明日が来てほしいなんて、これっぽっちも思えません。どうでもいいんです、この世界もあたし自身も」

「そうか」

「でもですね、生贄にならなかったら奴婢として売られてたでしょうから。それよりはましな生活を送れたと思いますよ。結局、あたしがあたしとして生きることは出来ませんけど」

「そうか」

「あ、お肉をたくさん食べさせてもらえたのは、おにいさんの生贄になったおかげですね。あたしの村なら、普通の子は年に何度も食べられません」

「そうか」

「あたし、おにいさんが好きです」


 言葉に詰まる。


「何故だ?」

「分かりません。でも、昨日までは『さっさと死んでしまおう』って思ってたのに、朝になって起きて、おにいさんが目の前にいたら『いつ死んでもいいや』って思ったんです」

「何が違うんだ?」


 分からない。


「違いますよ」


 笑い声。


「おにいさんが看取ってくれるなら、『いい人生だった』って思えそうなんです。だから、お別れする時は殺して欲しいです」


 笑い声。心から、嬉しそうに。


「川で溺れさせるべきだったか?」

「苦しいのは嫌です」


 枯れ枝と落ち葉を踏む音が、響く。

 頭上を覆う木々の腕が、細く、薄くなる。

 空に浮かぶのは雲ばかりではなく、薪の煙が混ざり始めた。

 いつの間にか、人々の生活の息づかいが、二人の耳に届き始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る