3-10 吾輩は猫である?【side 早弥】

 めんを強行突破し、わきみずの痛みに耐えたぼくは、夜の闇に染まる森を走っていた。


 残り時間はまだある。今のうちに開けた場所に行こう。

 角は、一対一の環境を作りやすい。

 高い場所は狙われやすく、逃げにくい。

 がけの近くは落ちやすい。


 消去法で安全な場所を探しながら、ふと足を止めて見上げた。


れいな空……」


 藍色あいいろの空一面で輝く、無数の光の粒たち。

 灯りが少ないせいか、弱い光も星としてはっきり見える。点と点を結び、線を描く。


「あれが『ぐま座』なんだ……」


 何気なくつぶやき、何でこの季節に見えるんだろう、とふと思う。

 ここは地球とは違う星だから、星の見え方が違っても当たり前だ。


 でも、同じ星が見えるなんて。


「……」


 ああ、眠い……。ものすごく、眠い。

 当然だ。普段寝ている時間に起こされ、朝から動き回り、今はもう寝る時間だもん……。


 でも……寝たら、危ない……。


「……だめ、ここで寝たら……」


 自分に言い聞かせながら腰を下ろすと、頭がかくんと揺れた。

 意識がふっと遠のきそうになる瞬間――。


 ガサリ。

 近くの茂みが不自然に揺れる音が耳に届いた。


 何? と背後に目を向けると、そこには一匹の三毛猫が座っていた。


「……猫……」


 でも、寿やまだってことを思い出すと、ちょっと警戒心が働いてしまう。


「もしや、しきがみ?」


 でも、三毛猫はお構いなしに、一歩後ずさり――と、ものの数秒で木に駆け上がって、枝の一番高い枝に姿を消した。


「……あー、どうしよう。下りれないし……」


 猫は登るのは得意でも下りるのは苦手って、聞いたことがある。


「あの! 一番下の枝までは下りるんで、飛び降りるんで……掴んでほしいです!」

「あ、え……」


 式神なら下りれそうだけど、とか何とか思いながら、腕を伸ば──。

 ……いや。

 ……シャベッタ……!?


「えっ!? 君、しゃべれるの!?」

「そこ? ……あ、猫だからか」

「やっぱ猫じゃない……式神だよね!? それか本物のよう!?」


 やじりを突きつけながらきつく問うと、三毛猫は目をみはって僕を見つめ返す。


「シキガミ? ヨーマ? 何それ知らない!? ボクは……あれなんだっけ?」


 ……自分でもよくわかっていない、って?

 式神も、妖魔も、ご存知ないって?

 人語を話す三毛猫なのに?


「えっと、じゃ名前は?」

「……何で……名前だけ思い出せない……」


 突然泣きそうな声になったので、僕は言葉を失う。

 自分の名前を思い出せないのは……確かに悲しいね……。


「わかった。……危なくはないよね? 僕を殺すとかはしないよね?」

「しないしない……!! 襲うのはねずみだけ!」


 三毛猫の叫び声に、ほっと胸をでおろす。もう一度手を伸ばして、受け止める準備は万端だ。


「いいよ」


 三毛猫は僕のむなもとに飛び込んできた。それをしっかりと抱く。思っていたより、衝撃はなかった。


「……つはー、ありがとうございます」

「どう、いたしまして」


 三毛猫を地面に下ろそうとしたとき、彼(?)が何かをくわえているのに気づいた。

 やや土に汚れた、白い長方形の紙。


 彼のくちもとから引き抜くと、それには、赤い漢字だけの文章が変な字体で書いてあった。


「もしかして……?」

「ゴフ? 木の幹に貼り付けてあって……」


 あの高さの?

 空を飛ぶとか、そういう能力がないと、手も届かないような場所じゃん……。


「ありがと。これがないと、試験に合格できないんだ……!」

「試験なんですか!?」


 ありがとう、ありがとう、と僕は三毛猫の頭を撫でた。でも、あまりに土で汚れている上に感触も悪かったので、すぐに手を離した。


 途端に、強いすいに襲われて──。



 ✿❀❖*✿❀❖*✿❀❖*



 目をこすると、うっすら明るくなった森が見えた。

 三毛猫が僕に背を向け、長い尻尾を振っている。


 ここで寝落ちなんて、自殺行為もいいところだけど……ここは極楽ごくらく? 天国? ……いや……。


「起きたの。寝違えてないか確かめてみ?」

「え? ……いだだだだだだ!」


 首筋の激痛を感じて、絶叫する。

 昨日、よほど疲れていたんだな……そして僕、寝相が悪いからな……。


 そんな僕に追い打ちをかけるように、腹が盛大に音を鳴らす。

 ……戦いに精一杯で、昨朝のまかないから何も食べていなかったのだから、こうなるのも当然だ。


「……その、試験ってやつはどうするの?」

「う、うん。頂上に行けば、いいと思う」

「ボク、一週間ここにいて、一回だけ頂上に行ったことあるよ。一緒に行こうか?」


 その言葉に、僕の耳が反応する。


「本当に!?」

「うん。で……名前は? あ、覚えてた方が楽かなって」

「僕? 僕は、小鳥遊たかなし。こんな名前だけど、れっきとした男子だよ!?」


 三毛猫は口角を上げた。

 流石に呼び方が「三毛猫」じゃ、この子に申し訳ないかな……。


 名前のない猫。猫、名前はない。

 名前はまだない。

 猫である。名前はまだない。

 吾輩わがはいは猫である。名前はまだない……。


『吾輩は猫である』は、なつそうせき……。


「夏目! ねえ、名前、夏目ってどう?」

「夏目……ボク、夏目!」


 三毛猫──改め、夏目と共に頂上を目指すことに。


「何歳なの?」

「三毛猫になったのが十一歳の時で、それから四、五年……」


 三毛猫


「え、元々は……」

「え? 普通の小五……」


 ……夏目って、元々は人間だったんだ……。

 三毛猫の姿になって、その当時が十一歳。それから四、五年だから、人間だったら、高一か中三。僕と同じくらいだ。


 ……すごく複雑な気持ちだった。


「一日中寝てる猫を見て『猫になりたい』ってお願いをしたら、気づいたら三毛猫の姿になってて。家に帰ろうとしたら、そういえばお母さんは猫アレルギーだった、と思い出して、帰る場所がなくなった」

「………」


 山の空は、青と紫が混ざり合っている。棚引く雲は照らされていて、家の周りでは見ないような景色だった。


「……そっか」


 そんなことしか言えない僕は、ちょうの笑いを浮かべる。

 夏目は、ビー玉のような瞳にうるおいをたたえて、僕を見上げた。


「終わったら、たらふくうまいものを食べたいな」


 夏目の平和な呟きが可愛くて、思わず口角を上げた。

 何それ。さっきまで暗い話をしてたのに。


「あ。ここ……かな」


 黄色と黒のロープが張られている。その向こうは草っ原になっていて、何人かの姿をとらえた。


「おかしいな。ボクが来た時は、こんなロープなかったのに」

「来た時期の問題じゃ……」


 ロープの向こうに勝手に入っていいのか迷っていると、お役人さんみたいな人がひとり来て、


「おぉ、お疲れさん。入りなさい」


 ロープをまたいで中に入る。夏目は下をくぐった。


「ほら、こっち来い。好きな握り飯を選べ」


 視界が開けた。少し進んだところに、何やらかまどみたいなものと、机が見える。

 近づくと、机の上には木箱があって、中にたくさんおにぎりが入っていた。


「えっと何々? 塩結び、梅干、焼鮭、まぐろあぶら……鮪油!?」

鮪油ツナマヨじゃ?」


 夏目の一言で、この世界では「ツナマヨ」を「鮪油」と書くことが判明。


「昆布つくだやきほおずきづけ? えんしん味噌? さんぞくめし? しゃがい?」

「お前、このうめえ具を知らないのか?」


 お役人さんみたいな人に話しかけられて、僕はこくりとうなずく。


「鬼灯漬は、鬼灯の実をつけものにして、あまや塩で味つけている、北国から伝わった保存食だ。焔辛味噌は都の近郊の唐辛子をからにしたやつで、頭おかしいくらいに辛い。山賊飯は、色々な山菜を混ぜ合わせたやつで、夜叉貝は湖のたんすいがいで、夜に活動するから夜叉なんだが、身が大きくて、塩とよく合う」

「あ、じゃ鮭昆布で」

「ここまで説明して!?」

「まだ未知なので」


 お隣の夏目が目を輝かせているのを見て、僕は鮭昆布と夜叉貝をお願いし、端っこに腰かける。


 米粒がつやつやとしていて立っているおにぎり。口に含むと、ほっかほかとしたご飯に鮭昆布の塩気が混ざって、舌にしみ渡った。昆布の食感、鮭の風味、五感を刺激される。


「みゃぁー一日ぶりー……」


 隣から、コリッコリッというしゃくおんが聞こえて、唾を飲み込んだ。


 そのとき。


「……はぁ……はぁ……」


 あえぎ声にはっと上を向く。


「……れい、くん……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る