第19話 常闇のどん底にて

「ちょっと待って!」


「まだ何か?」


 彼は、めんどくさそうに体をこちらに翻した。


 サングラスの奥から覗く冷ややかな瞳は、やはり見覚えがあって。


 絶対、倫太郎だ! と確信する。


「ちょっと待っててもらえますか? 渡したい物があるの」


 私は急いで店に戻り、ロッカーへ向かった。


 今日こそは返そう。

 ロッカーを開けて、ベージュのパーカーを取り出し、急いで店の外に出た。


 しかし、そこにはもう既に、彼の姿はなく――。

 私は、持ち主を失ったパーカーをぎゅっと胸に抱きしめた。


 冷たい風と落ち葉が舞う歩道に佇み、ぼーっと彼の残像を眺めていた。


「神崎さん?」


 背後からの声にはっとして振り返る。


「あ! 高塚さん!」


 さっきまで姿が見えなかったのに、突如現れたその姿に、オアシスを見たような安堵を覚えた。

 冷ややかな職場の空気に、心が折れそうだった。


「今日は遅かったんですね」


「本部から呼び出されてて」

 頭をポリポリと掻く彼の顔色はあまり良くない。


「何かあったんですか?」


「それが……」


 とても言いにくそうに、彼はしばし目線を泳がせた後

「昨夜、僕が君の部屋に行った事が、なぜかネットで晒されてて。その事で従業員から本部に苦情が入ったらしくて」


 ネットで晒されていたのは知っている。

 が、しかし――。


「え? 苦情? ですか?」


 アジアンカフェ・ラヴェンダーは小規模ながら一応はチェーン店だ。

 各店舗はパートやアルバイトで回っていて、バイトリーダーとはいえ、高塚さんは、店長と同義。


 その店長が、女性(しかも従業員)の部屋に出入りする写真がネットで出回るなど、あってはならない事なのだ。


「すいません。私のせいで」


「いや、君のせいじゃない! 断じてそれは違う! 僕も軽率だった」


「本当に申し訳ありません」


 深々と頭を下げる。


「いや、いいんだ。業務に戻ろう。さて忙しいぞ!」

 やや空回り気味に、彼はそう言って、ドアを広げた。


「はい」


 気分はなかなか上がらないが、高塚さんが広げてくれたドアを、少し頭を低くしてくぐる。


 そして、ふと思い至る。


 この冷ややかな雰囲気は、それが原因だったか、と。


 あんなに気を付けていたのに、恐るべき事態は起きていた。

 つまり、私は高塚さんのガチ恋勢から完璧に敵視されてしまっているって事だ。

 気付いてしまうと、尚更やり辛い。


 しかも……。


「神崎さんて、亮君の元カノって事だよね?」

「ちょっと信じがたいんだけど」

「亮君応援してたのに、なんかがっかり」

「なんで別れたんだろうね?」

「その前に、なんで付き合ってたんだろう?」


 なんて、失礼極まりないひそひそ話が嫌でも耳に入って来る。

 私が通ればサッと口をつぐみ、冷ややかに視線を逸らし、笑顔を絶やす同僚たち。


 私が一体何したって言うの?

 なんで私がこんな目に遭わないといけないの?

 この職場すっごく働きやすくて、すっごく気に入ってたのに、一気に針の筵。

 もう! 最悪!!


 そんな心の叫びは、店内の喧騒に霧散した。



 高塚さんが、上野店に移動になったのは、それから一週間後の事だった。

 深山さんという主婦のパートさんがサブリーダーからリーダーとなり、雰囲気はがらりと変わる。


 もちろん表向きには何も変わっていないのかもしれないが、主婦のパートで占めているシフト構成では、私は見事に孤立した。


 しかも、未だ消えないネットの火を燃やし続けているのは、フカシ芋こと、石橋暴露ではない。


 あの一件以来、石橋はSNSで私の事に言及する事はなくなったが、亮のDVは大大的に暴露し、大炎上となった。

 タレ込み主はどうやら甘神本人らしく、彼女の声明付きで拡散された。

 そして、それは覆る事のない事実として、ネットニュースにまで取り上げられる始末となっている。


 それに伴って、石橋以外の野次馬はこぞって元カノと称して私の写真を流用するもんだから、職場でも、私はDV男の元カノというバイアスがかけられ


「DVされる側にも問題あるのよね」

 だとか

「きっと生意気な口きいたりしてたのよ」

「大人しそうな顔してるけど、あの子は気が強いわよ」


 なんて、わけ知り顔で陰口をたたかれる。


 店には、撮影目的の客が増え、大迷惑!

 ツイッター以外のプラットフォームにもインプレッション稼ぎの輩による投稿が蔓延して、もう手が付けられない。


 高塚さんのお父さんが、投稿の削除や開示請求なんかについて助言してくれたが、弁護士を動かすお金なんて、もちろんあるわけもなく。


 12月の半ば頃にはもう、職場に私の居場所はなくなっていた。

 同時に、亮も芸能界に居場所はなくなってしまったようだった。


 その事に関して、何も思わないかと言えば嘘になる。

 見当違いの大炎上を恐れずに言うならば、私はわざわざプライベートな事をチンピラみたいな輩を使ってネットで公表した甘神りあらを心から軽蔑していた。

 と同時に、羨ましくもあった。


 彼女はライブ配信で泣きながら亮の暴力行為について赤裸々に語った。


 あんな風に、声を上げてよかったんだ。

 痛い、辛い、悲しいって、泣いてよかったんだ。

 そんな感情が一気に込み上げて、やり場のない憤りを手のひらで握りつぶした。


 唯一の心の拠り所である未菜ちゃんは、合コンで忙しそうだ。

 クリスマスまでには彼氏を作る! と目標を掲げて日々精進している。


 そんな波にも、私は乗り遅れて、心身ともにボロボロ。


 ついに、『体調不良』を理由に、アジアンカフェ・ラヴェンダーに辞表を提出し、バイトを辞めた。


 大学は、目下期末試験中である。


 どうにかテスト勉強に集中しようとするも、ついついスマホで検索してしまう。


『アルバイト求人』


 短期でもいいから、手ごろなバイトないかなー。


 そんな時だった。


 登録していた求人アプリから、ポロンと通知が入ったのだ。

 新規の募集だ!


「ん? なになに?」


 ・・・・・・・・・・

 職種:イベントスタッフ


 勤務地:都内イベント会場(渋谷・新宿・六本木など)

 給与:時給1,500円〜(深夜手当あり)

 シフト:週1日からOK、シフト自由(イベントに応じて変動)

 勤務時間:イベントにより異なる(夕方〜深夜の勤務が中心)

 交通費支給(上限あり)


 仕事内容

 音楽ライブ、アート展、パーティーなどのエンターテインメントイベントをプロデュースするJoyWaveのイベントスタッフを募集!

 来場者の受付対応、会場の設営・撤去、アーティストのサポートなど、イベント全体を支えるお仕事です。スタッフ間で協力しながら、イベントの成功に貢献していただきます。

 ・・・・・・・・・・・・


 この求人を出している企業名『株式会社JoyWave』という表記に、なぜか目が釘付けになる。


「ジョイウェーブ……? このロゴ、どこかで見た事があるような……」

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