第10話 伊緒、命の危機

 ナポリタンにカオマンガイ。

 デザートのクレームキャラメルまでペロリと平らげた倫太郎は、「ふー」と大きく息を吐き、お腹をなでなで立ち上がった。


「とっても美味しかったです。ごちそうさまでした」


「ん?」


 倫太郎はペコリと頭を下げて、ドアベルを鳴らした。

 いつにも増してカランカランと乾いた音が鼓膜に響く。


 ベトナムコーヒーとナポリタンとカオマンガイとクレームキャラメル。

 お会計は〆て4850円。


 結局、倫太郎は一円たりとも払わずに帰って行った。


 冷たく湿った風が私の横を通り過ぎる。


 鬼―!

 人でなしー!

 実はいいヤツなのかもって、一瞬キュンとした時間を返せー!

 はぁー。

 およそ16日分の賄いが消えた。


 けどまぁ、私の方は16800円の借りがあるので仕方ないか。

 お給料が入ったらペイペイしようと思っていたが、絶対に返さないと心に誓った。


 雨は上がったようだ。

 結局、定時まで働いた。


「神崎さん、上がってください」

 と高塚さんが声をかけてくれた瞬間、強めの悪寒に襲われる。


 気が張っていたせいで、気付かなったが、体温計なくてもわかる。

 けっこう熱出てる。ヤバイかも。


「すいません。お先に失礼します」


 スタッフに挨拶して、早々に職場を後にした。


 ガタガタ震える体を抱きしめながら自宅を目指してひたすら歩く。


 こんな時に一人は本当に辛い。

 ドラッグストアがあるけど、薬を買うお金はない。

 早く帰って寝よう。


 強めの眩暈をやり過ごしながら、ようやくアパートの階段にたどり着き、ポケットから鍵を抜き取った時だった。


 ぐらりと視界が回って、したたかに地面に叩きつけられた。

 チャリーーン。鍵が手から離れて地面に落ちた音。


 足がもつれたのだ。

 ひんやりと凍り付きそうなコンクリートの上で、のたうち回る元気もなく「うーっ」と唸り声をあげながら、意識を手放しかけたその時。


 体がふわりと浮いた――? 気がするが。


 しかし、目を開ける事ができない。


 なんだかふわふわと宙を移動している。

 どこかで嗅いだような、いい匂いがする。


 温かい。


 そっか、死んだんだな。


 私はとうとう死んだのだ。


 黄泉への道はこんなに暖かくて気持ちが安らぐのか。


 知らなかったよ。


 さようなら、未菜ちゃん。最後に会いたかったな。


 山梨のお父さん、お母さん、先立つ不孝を……お許し……ください。


 亮、幸せになってね。


 倫太郎だけは、絶対に呪うからーーーー!!!



 ◆◆◆


 倫太郎は、古びたアパートの階段を一歩踏み出し、盛大にずっこけ、動かなくなった伊緒の傍に佇んだ。

「大丈夫ですか?」と声をかけたが、反応はない。


 打ちどころが悪かったのか、脳震盪か? とも思ったが、僅かに意識はあるようで。ハァハァと荒い呼吸音が聴こえる。


 手を貸そうと肩に触れた瞬間、察した。


「すごい熱……」

 さっとパーカーを脱ぎ、彼女の体に巻き付けた。


 30センチほど離れた場所には、キーホルダーの付いた鍵が転がっている。

 部屋の鍵を手に握ったまま、転んだのだろう。

 拾い上げて「何号室ですか?」と訊ねると、唸るように「に、まる、さん」と言った。

「203号室か」


 倫太郎はアジアンカフェ・ラヴェンダーを出て駅へ向かう途中でふと思い出したのだ。


 会計するのを忘れていた事を。


「しまった」

 そう一人ごちて、すぐに踵を返したが、店内に伊緒の姿はもうなくて。


「すいません、あの、さっき食事してお会計するの忘れてて」


 そういうと、店員が何やらレジを操作し

「お会計は頂いてますね」


「そんなはずないです。払ってないので」


「社員立て替えになってます。神崎さんが立て替えたのでしょう」


 神崎という苗字なのかと、この時初めて知る。


 どんなに親しい間柄であろうと、借りは作るのも作られるのも嫌いだ。

 こういう状況はモヤモヤと気持ち悪い。

 そうだ、返しに行こうと思い立った。


 フルネームがわかれば、伊緒の個人情報にアクセスするなど、倫太郎にとっては容易い事。


 ちょちょいとスマホを操作し、ハロウィンイベントの来場者一覧から神崎伊緒を探し出した。

 社長権限だ。


 伊緒の住所をドライバーに告げて、ここまでやってきた。


 先に部屋のドアを開けて、伊緒を抱きかかえて部屋に上がる。

 ひんやりと冷たい、侘しい部屋だった。

 女性らしい華やかな装飾は一つもなく、ベッドの横に立てかけられているエレキギターがやたら目を引いた。


 ――あれ? このギター……、フェンダージャパン・フェンダーストラトキャスター・スクワイアシリーズ。懐かしい……


 しかし、今はそれどころではない。


 伊緒をベッドに寝かせて、テーブルの上に転がっている体温計を取った。


 首元まできっちり嵌められているシャツのボタンを一個ずつ外す。

 プチ、プチっ。


 伊緒の下着姿を見るのは二度目である。

 倫太郎とて男。

 女性の柔らかそうな胸元に興奮しないわけではない。

 しかし、恋人でもない女性に手を出すなど、筋も道理も通らねぇ。


 できるだ見ないように、体温計をさっと脇に差し込んだ。


 間もなく、ピピっという電子音が鳴り、数値を確認する。


「うわ、39・8」


 とにかく冷やして熱を下げなければ命が危ない。

 冷蔵庫からアイスノンを取り出す。

 すっからかんで料理できるほどの食材も入っていない冷蔵庫だった。


 倫太郎には、看病の心得がある。


 極道の世界には、健康保険証を持たない者も多いからだ。

 風邪や発熱ぐらいで気軽に病院に行くことはできない。


 倫太郎はスマホを操作して、子分であるザキに電話をかけた。


『兄貴! おつかれさまです』


「ザキか、事務所の薬箱からボルタレンとアモキシシリンとガスターを、今から言う住所に持って来てくれ」


『はぁ、兄貴、風邪っすか?』


「いや、俺じゃない。あ、それとコンビニに寄って、レトルトのおかゆを大量に買って来い。アクエリとかのスポドリもだ。あと、適当に食材も買ってきてくれ」


『わかりました、すぐ行きます』

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