第9話 再会

 とはいえ、今さらだ。


 あの人と亮が付き合っているのは、とっくに知っている。


 何より衝撃だったのは『音成亮』を誰も知らないという現実だった。

 亮が有名人で人気者だったのは、一部の界隈だけでの話で、世間一般的には『謎のイケメン』なのである。


 きっと、これから全国的に有名になっていくんだろうな。甘神リアラの彼氏として。


 二人の熱愛を写した画像はネットで瞬く間に拡散されて行った。


 嫌でも目耳にする亮の新しい恋の進捗は、容赦なく私から平常心を奪って行った。


 もう私じゃない。

 彼の隣にいられるのは私じゃない。


 もう3年になるバイト業務は、体に染みついていて戸惑う事も迷う事もない。

 けれど、失敗はする。


 ガッシャーーン! と派手な音を鳴らしてトレーに乗せたグラスやカップが床に散らばった。

 いけない。ついぼーっとしていた。


「失礼しましたー」

 続くように店員も声を上げる。

「失礼しましたー」


「大丈夫?」


 すぐにバイトリーダーの高塚さんが飛んで来て、後始末を手伝ってくれた。

 一つ年上の国立大に通う学生だ。

 ほっそりとした器用そうな長い指で、破片を拾い上げる。


 誰にでも優しく、誰にでも笑顔で平等に接してくれる、仏様みたいな人。


「あっ、危ないから。ここは俺がやっとくから、レジお願いしていい?」


「あ、でも」


「いいからいいから。神崎さんの方がレジ捌けるでしょ。適材適所!」


 高塚さんはにっこり笑ってウインクした。


「ありがとうございます」


「それより、今日は、なんだか笑顔が少ないよ。何があったか知らないけどもし体調悪いなら早めに上がっていいからね」


 そうだった。

 私、体調が悪いんだった。

 そのせいで、思考も闇へ闇へと引きずられていくに違いない。


「すいません。風邪気味で……」


「うん。レジ、一区切りついたら上がっていいよ。体調管理も仕事のうちだからね」


「はい」


 気持ちを切り替えてレジに向かった。


 ガラス戸に映るネオンが滲んで見えるのは泣いているからではない。

 外は雨なのだ。


 一時間ほど前から雨を降らせ始めた空は、時々雷を落としながら色を濃くしていく。


 傘がない事をふと思い出して、憂鬱になる。


 レジには、二人連れの男女が並んでいる。

「大変お待たせいたしました。お会計はご一緒でよろしいでしょうか?」


 大学生だろうか。若い男女だ。


「はい、一緒で。ペイペイでお願いします」

 若い男性がスマホを操作する。


「かしこまりました」


 この人達は恋人同士なんだろうな。

 女の子の方は、当たり前みたいにニコニコ笑って、彼の会計する姿を眺めている。


「2560円になります」

 バーコードを読み取り、ペイペイっという電子音を確認して事務的な笑顔を貼り付ける。


「ありがとうございました」


 当たり前のように、相合傘で歩き出す二人の背中を見送って、空いたテーブルのセッティングに向かった、その時だった。


 カランカランとドアベルが鳴り、お客さんが入って来た。


「いらっしゃいま……せ」


 振り返った瞬間、体が硬直した。


「あ!」


「どうも」


 木製のドアから姿を現したのは、ベージュのパーカーに黒のだぼっとしたデニムを履いた……。


「倫太郎……」


 その手には、赤い傘が握られている。


「あの、これ」


 そう言って、きちんと折りたたまれている傘をこちらに差し出した。


「どうして、ここが?」


「ああ、えっと、音成君に聞きました」


「あ、そっか。知り合い、だったか」


「音成君は、俺とあなたが付き合っていると思っていたので、バイト先を知らない事に衝撃を受けてました」


「あー、ごめんなさい」

 そう言えば、そういう事もあったか。


「なので、本当の事を言ってしまいました」


「うん、え?! うそ!」


「本当です。すいません」


 なんだか、しゅんと申し訳なさそうに頭を項垂れる倫太郎を見て、ちょっと笑いが込み上げた。


「ふふっ、案外、いい人なんですね」


「え? 俺ですか?」


「うん。だって全然悪くないのに謝ってくれたり、この雨の中傘届けに来てくれたり」


「いや、それは、その……。この傘、俺が持っておくのも違うと思って」


「え?」


「なんか、思い入れのある傘なのかもって」


「それ、亮がプレゼントしてくれた傘なんです。1年付き合って、彼が唯一私にくれたプレゼント。だから、もういらないって思ってたんですけど」


 じわっと目頭が熱くなる。


「けど、せっかくなので、受け取ります。雨降ってるし」

 そう言って、倫太郎が差し出す傘を受け取った。


「じゃあ、俺はこれで」


 ぺこりと頭を下げて、こちらに背を向けた。


「あ、ちょっと待って!」


 立ち止まり振り返った。


「まだ何か?」


「あー、あの、よかったら、コーヒー飲んで行きません? ベトナムコーヒー、甘くて濃厚で、大人気なんですよ。私、奢るんで」


「いえ、いいですよ」


「そんな事言わずに。迷惑ばっかりかけちゃって、今はコーヒー一杯ぐらいしかお返しできないんですけど、おいしく心を込めて淹れますから、どうぞ座ってください」


「じゃあ……はい」


「お客様ご案内しまーす」

 店内に向かって、客が一人増えた合図を送る。


 倫太郎はのそのそと、私が手を差し出したテーブルに着いた。


 じーっとテーブルの上ばかり眺めている。

 まるで木目でも数えるみたいに。


 キッチンに行き、お水とおしぼりをトレーに乗せて倫太郎のテーブルに向かった。


 心なしかおだやか気持ちになるのは何故だろう?


 傘が戻ったからなのか、それとも、倫太郎が実は優しくていいヤツなんじゃないかと思えたからなのか。


「失礼しまーす。お冷と、おしぼりでございます。今、コーヒーお持ちしますね」


 倫太郎は興味津々でメニュー表に見入っている。


「あのー、ついでといったらアレなんですけど、ナポリタンも頼んでいいですか? 飯、まだで」


「かしこまりました。ナポリタンですね」


 1350円だけど、これはもちろんお会計自分で払うよね?


「あ、あと、カオマンガイってなんですか?」


「カオマンガイは、タイの鶏飯みたいな物です。日本でもちょっとしたブームになって大人気のメニューです。とっても美味しいんですよ」


「じゃあ、それもお願いします。昼飯も食ってなくて。ここに座ったら急に腹減って来て」


 カオマンガイは1890円だけど……。


 自分で、払うんだよね?

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極道の休日 神楽耶 夏輝 @mashironatsume

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