第11話:ボクはそれでもよかった


「はー。おやすみー」


「待たんかい」


 夜も更けて、解散の頃合い。夏もソコソコ顔を出し、俺としてもエアコンを意識しだす夜。その俺の寝室で、ベッドに寝そべるバカ一匹。


 風呂上がりにジャージを着て、あっさりと俺のベッドに寝転がっているのは黒岩ルイと呼ばれるアイドルだった。


「いやぁ。それは流石に」


 かのトップアイドルが俺のベッドに寝ている。その意味を理解できないほど俺は無知ではなく。


「大丈夫だよ。マアジはヘタレだから何もしない」


「うん。よくわかっているな」


 もちろん俺が頷いたのは空気を呼んだだけで、本音は別にある。つまり……やってもいいのか? 俺は黒岩ルイを襲ってもいいのか?


 ぶっちゃけた話をするなら、そういう事態を想定していなかったわけでもない。アイドルが俺の部屋にお邪魔して飯だけ食って帰っていく。その事に特別視を用いないはずもなく。ついでに黒岩ルイとそういう関係になることを望まなかった自分がいないというのは全くの虚偽だ。


「じゃ、寝よ」


 ポンポンとベッドを叩く黒岩ルイ。


「じゃあオレはリビングで寝る」


「ダメだぞ。マアジはボクのアロマテラピーなんだから」


「眠れないのか?」


「最近ちょっと睡眠が浅いんだぞ。だからラベンダーの香りをよろしく」


「俺はお前ほど佐倉マアジの自重に期待をしていないんだが」


 俺にあの黒岩ルイと同衾しろというのかよ。


「その……したい?」


 超したい。


 とは言えず。


「俺の推しは杏子ちゃんだからな」


「またソレだぞ」


「いいからお前は杏子ちゃんにセンターを譲れ」


「あの子、声の伸びがそんなでもないからセンターは無理だぞ」


「素人にはそんなこと分かんねえよ」


「もっと簡単に推しをセンターにする方法があるぞ」


「拝聴しよう」


「ボクを推しにすればいい」


「はーい。おやすみなさい」


「一緒に寝て~ッ!」


 俺が踵を返すと、その腰にルイが抱き着いた。


「本気でモチベが下がってるんだぞ! ボクをラベンダーの香りで包んで!」


「じゃあお前がベッドで寝て、俺は床に布団で……」


「いいから。ボクは気にしないぞ」


 俺が気にするんだよ。


 とか言いつつ。


「なぜこんなことに……」


 結局俺はルイと同衾していた。一緒のベッドに寝転んで、触れられる距離にルイがいる。そのシチュエーションの膨大さに、俺の童貞はあまりに疼く。常夜灯で昏いオレンジ色に光る室内で、ルイの吐息が聞こえる距離に俺が寝ているという現実が、破格に過ぎる。


「ねえ」


 さて、迸る性欲をどう鎮めるか悩んでいる俺の、その胸元に頬をこすりつけてルイは言うのだ。


「キスしようか」


「しない」


「なんで?」


「お前がスキャンダルを起こすとオメガターカイト全体で見てマイナスだ」


 場合によっては杏子ちゃんが路頭に迷う。


「私がアイドル止めたら杏子ちゃんが注目されるかもよ?」


「それでも黒岩ルイがセンターであることを俺が認めていないと思うか?」


「杏子ちゃんが推しなんでしょ?」


「だから杏子ちゃんを推すために、ルイを応援している」


「ふふ……ズルいな。……マアジは」


 何がだ。


「あのね。ボクは良かったの」


 だから何が。


「あのままボクの本音を知ったマアジが、その事を盾に強請ってボクを性奴隷にしても良かったんだよ?」


「ガチだったのか。アレ……」


「ファンの知らないところでギシギシアンアンって哭いて、何気ない顔でファンと握手会をしても良かった」


「最悪だろそれ」


「興奮しない? 黒岩ルイが自分にだけ股を開いている現実」


「めっちゃ興奮する」


 もしもオメガターカイトの黒岩ルイを自分のものに出来たなら、それはどれだけのイニシアチブだろう。トップアイドルを犯すという禁忌にも似た背徳感はおそらく童貞の認識では追いつかない多幸感だろう。


「でもマアジはボクを抱かないぞ」


「これでも我慢してんだよ」


 それこそいつタガが外れてもおかしくない。一応アロマとしてラベンダーの香りを捻出しているが、それとは別に性的な匂いを充満させても、今の俺は何の不都合もない。


「キスとかする?」


「だからお前はな」


 こっちの意向も考えてくれ。そう言おうとして、口を塞がれた。


 キス。


 唇と唇が重なった。そのことを俺が認識しないはずもなく。甘い唾液の香りのするキスをルイは俺にしてみせた。


「おま……ッ」


 分かってんのか。アイドルのキスは軽くない。俺に恋心も抱いていない女子がするサービスとしては常軌を逸している。


「恋心抱いてるよ」


「嘘つけ」


「むしろ何で好きじゃないって思ってるの?」


「俺にそんな価値はない」


「マアジには価値があるよ。少なくともボクがマアジを好きになるのには、いくつもの理由がある」


「それはアイドルとしてのファンとのキスっていう世論を敵に回す程か?」


「美味しそうだったの」


「今日の親子丼か?」


「ううん。マアジの唇」


 だからキスをした。そうルイは言う。


「どう? オメガターカイトのセンター黒岩ルイのキスは?」


「正直なことを言うと、ハマりそう」


 何度でも味わいたい美味だった。


「誰にも秘密。ボクとマアジだけの関係だぞ」


 そうしてルイはまた俺にキスをする。


 ぶっちゃけ、俺にどう応えろというのか。恋人にはなれないし、抱くことも出来ない。けれどキスの甘さが悪魔的であることも、否定できない事実だった。

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