第10話:人間アロマテラピー


「あっちにこっちに恋のタネ♪ 私を好きでいてくれる♪ そんなあなたは今いずこ♪」


 その後、平常に家に帰ってネット動画を見ている俺だった。電車で古内院タマモきゅんを助けたのは事実だが、それこそ風化するように忘れ去られる事項だろう。俺は角夢杏子ちゃんが歌っている動画を見ていた。こればっかりが俺の癒しだ。俺の好きなアイドルが、恋愛ソングを歌っている。その歌声を聞くだけで、「え? 俺に気があるの?」と思える。


 もちろんそんなわきゃー無いのだが。


「やっほーい! ただいま!」


 家には鍵をかけていなかったので、あっさりと隣人は俺の部屋へ。さすがに一度自分の家に帰っているのだろうが、その後の服装のチョイスがジャージというだけで俺への警戒心がどれだけ低いのか物語っている。


「あ、杏子ちゃんの動画。歌声はいいんだぞ」


「顔だっていいしダンスだっていいわ」


「いい加減ボクの推しになるぞ。そしたら推しと一緒にご飯を食べるファンの出来上がり」


「いや。スキャンダルはノーセンキュー」


 とはいえ、こうやって顔を出しているのだから、無事滞りなく終わったのだろう。ここで古内院タマモはどうだった、とか聞くほど俺はうかつではない。


「じゃ親子丼作るか」


 出汁は取っている。肉にも火を通している。後は温め直して卵をとじるだけだ。米も炊けているしな。


「わーい。親子丼」


 で、万歳する黒岩ルイ。既にリビングのテーブルに座り込んで、俺の親子丼を待っている。ていうか俺の料理はそんなに美味しいか?


「んー。ていうか手料理に憧れが。ボクは料理しないけど、誰かの作った料理は食べたい。その上でマアジはかなりマストだぞ」


「まぁ飯を作るくらいは苦でもないんだが」


 とはいえだ。懐き過ぎじゃね?


「で、もう一つ」


「はいはい」


 俺は親子丼を準備して、ドライフリーズされている卵スープをお湯で溶かす。


「今朝のペパーミントの香りは何?」


「あー」


 忘れてくれれば幸いだったのだが。


「ちょっと体臭がそんな感じでな」


「でも今はしないじゃん。ていうか人間の体臭がペパーミントであってたまるかって感じだぞ」


 うーん。御尤も。


「はい。じゃあいただきます」


「いただきますだぞー!」


 そうして俺とルイは親子丼を食べ始める。


「あんな香りを用意する備蓄もないし、実際に抱き着いたらマアジからペパーミントの香りがするし」


「説明してもいいんだが、正直引くぞ?」


 聞かない方がいい話などというのは、どこにでも転がっている。


「引かないから大丈夫」


 話を聞く前は、誰だってそう言うのだ。


「植物を飼ってるんだよ」


「だから部屋のどこにも……」


「ちゃうちゃう」


 犬じゃないぞ。


「身体の中に飼ってるの」


「…………」


「ほら。引くだろ?」


 だから言いたくなかったんだよ。


「身体に?」


 コクリ。


「植物を?」


 コクリ。親子丼をムシャムシャ。


「証拠とかある?」


「ほい」


 俺は右利きで箸を右手に持っており、丼を持ち上げていた左手を差し出す。で、握り拳を作って、人差し指だけを伸ばす。その左手の一本だけ伸びている人差し指からバラの花が咲いた。


「…………」


 果たしてその光景を何と申すべきか。多分ルイの側も理解が追いついていないのだろう。俺もこういう特異体質であることは誰かに言ったことはない。知っているのは俺と親だけだ。


「体内に植物を飼ってるってことだぞ?」


「さっきからそう言ってる」


 ペパーミントの香りを発したのも、そう言う植物を体内で運用したが故だ。


「それって幽白の蔵馬みたいな」


「武器は作れんが、香りを調整するくらいは自在にできるな」


「それって生まれつき?」


「いや。人体実験の産物」


 だから言いたくなかったんだが。


「えーと」


「ちょっと昔な」


 それ以上は聞くな、と牽制する。


「じゃあレモンの香り」


「ほい」


 その香りを再現する。


「バラの香り」


「ちょっと待て」


 別に人間アロマを気取っているわけではないから、すぐに交換は不可能だ。だが時間さえあれば香りを変更することは難しくない。バラの香りを漂わせる。


「いい香りだけど……人間アロマテラピー?」


「あとは傷薬とか漢方とか」


「肉体で合成できるので?」


「イエース」


 信じなくても構わないが、まぁブラックジョーク程度には笑える。


「じゃあさ。じゃあさ」


 はい。なんでしょう?


「まぁいいや。寝るときに言うぞ」


「はいはい」


「あとお風呂は借りるぞ」


「いいけど。お前の部屋にも風呂あるだろ」


 高級マンションなので無い方がおかしい。


「風呂掃除をするのが面倒」


 俺の部屋で入浴すれば、その面倒も解消されるというわけだ。


「じゃ一緒に入る?」


「俺は食器洗ってるから先にどうぞ」


「結構マアジって淡白だぞ」


 いやいや。津波のように襲う性欲の暴力に押し流されぬよう耐えております。ぶっちゃけしたいよ。かのトップアイドル黒岩ルイが俺の部屋にいるのだ。妄想の三つや四つはするよ。ただ本気でそれをやってしまうと俺は責任が取れないし、訴訟沙汰になりかねない。佐倉家はお金持ちで権力者なので、その子息である俺も結構無茶は通るが、非処女を処女に戻す術は、流石に持っていない。不可逆なのだ。乙女は。


「やっていいって言うんなら、丁寧に身体を洗ってくれ」

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