10 俺、舌あるのか

 泥のように寝るってこういうことなんだなって俺はよくよく理解した。もうずっと寝てた。延々真っ暗で何も考えられなくて、岩の裏側にある苔みたいな暗い湿度の中にいた。マジで時間感覚とかもなかった。俺は俺がなんなのかもよくわかんねえ状態だったし意識だけがなんにもないところにポンッと投げ出されて放置され続けていた。

 そんな中で人の声が聞こえてきた。

 くさかべさん、くさかべさんって誰かのことをずっと呼んでいた。これが俺のことを呼んでるんだとはそのうちに気が付いて、返事しなきゃなと思いつつやっぱり真っ暗だったし発声方法もわからないからどうしようもなかった。でも美味そうな匂いがするようになった。あー食わせてくれ、食いたい、ここどこだよ俺誰だよ、ああいやくさかべさんか、いつまで周りは暗いんだ、早くそれを食わせてくれよ。

 堂々巡りの悪循環だったけど、ある時から唐突に美味そうな匂いは美味そうな味になって舌の上に広がった。俺、舌あるのかって思った。美味かった。何を食べているのかはわからなかったけどちゃんと美味かった。俺は夢中で色々食った。

 食いながらちょっとずつ思い出せていた。俺は久坂部。脳吐いた。アクセサリーショップの店員。小学校の頃に虫とか食った。「クサくんグッジョブ!」悪友姫野の立てる親指。俺は意外と本を読む。「ミステリですか久坂部さん」本屋の市平さんは関西弁と顔で話す。俺ってけっこう弱虫だ。ヘタレだ。久しぶりにできた恋人は度胸が俺よりある男。

「久坂部さん、腕が取れてしまいました」

 任せとけよすぐ食うよ、

 奴原。


「………っっっぶっっは〜〜〜〜!!!!!」


 思いっ切り息を吐き出しながら思いっ切り起き上がった。かかってた掛け布団が勢いよく跳ね除けられて裏返り、俺は体を曲げてそれの上に突っ伏した。そして咳き込んだ。ゲホゲホゲホゲホ、喉の奥を引き攣らせながら咳き込んで息吸って息吐いて、酸素がそれなりに循環したところで顔を上げた。俺の部屋だ。主照明が眩しい。ていうかいつから寝てた。腹減った。

「今何月の何時何分だ……?」

「六月下旬の午後九時三十八分です」

 真横から返事があってびっくりして飛び退いた。めちゃくちゃ一人きりで自分の部屋にいるつもりだったけど違うのかよ! と自分で自分にツッコみながら返事をくれた相手を見る。もちろん奴原だ。付き合っているんだからいるのは当たり前である。

「ありがとう、奴原さん。俺……もしかしてデート中に……寝ちまって……?」

 奴原はじっと俺の顔を見つめていた。何も言わない。微動だにしない。瞬きもしない。何考えているのがぜんぜんまったくわからない。

 えっと……マジで俺、奴原放置して寝こけてた……? 瞬時に焦って土下座でもしようかと身を翻そうとしたが俺よりも奴原の方が早く動いた。

 伸びてきた両手が腰に絡んだ。そのまま体重を乗せるようにもたれかかって来られて、不意をつかれてベッドの上に仰向けに倒れた。奴原もだ。俺を下敷きにする形で、俺に伸し掛かる体勢で、両腕でしっかりと抱き着きながら乗ってきた。束ねられている長い黒髪が俺の肩に広がった。

「や、奴原さん……?」

 恐る恐る肩甲骨辺りに手を回す。付き合ってるんだし奴原から来たんだし大丈夫と心の中で唱えながら抱き寄せて、たぶん放置して寝てただろうから挽回するぞと決意する。奴原、奴原さん、寝ちゃっててごめんなもうぜんぜん眠くないから。そう告げると奴原はぱっと顔を上げた。絡んだ視線に見たことのない水分が含まれていた。

 予想外な涙目だった。

「久坂部さん」

「は、はい」

「一体どこまで、覚えていますか……?」

 俺は数秒、いや数分、ぽかんとしながら奴原の涙が滲んだ両目と真剣な表情を見つめていた。そして考えた。

 あれ、俺、寝ちゃってたどころの騒ぎじゃなかった気がするな。


 俺が何も答えられないので奴原が伸し掛かったまま諸々教えてくれた。まず俺は脳を吐き出して、ぶっ倒れた。はじめに聞いた時はハァ!?と素っ頓狂な声を上げてしまったけどよくよく思い返せば……思い返せばというか、なんというか、ゆっくり生えて花開く感じで、脳を吐いた時の映像と感触と思考がよみがえった。

 奴原だけでなく姫野と市平さんがいる前で吐いた。申し訳なさすぎて草が生える。三人はぶっ倒れた俺をなんとかしようと奔走してくれたらしく、部位を食べている夫婦に話を聞いたり部位取れ集落の記事を探し回ってくれたり、倒れたままベッドでぐったり眠っている俺の看病をしてくれたりしたようだ。

「うわ……マジで……マジかよ……めちゃくちゃごめん……」

 つい唸るが奴原は首を振る。

「そもそもなのですが、久坂部さんが僕のような部位取れを起こしてしまったのは、あなたに僕の部位を食べてもらっていたからです」

「え、あ、そうか……」

 ノリで受け入れてしまっていたが、俺が脳を吐いたこと自体おかしい。吐くのであれば奴原であるはずだ。いや脳吐くとワンチャン死にそうだから絶対に断固拒否だし奴原じゃなくて俺が吐いたのは不幸中の幸いではある。みんなのおかげで生きてるし。

 奴原は自分の髪を一握り分掴み、毛先で俺の顎や顎裏をぐりぐりとくすぐりながら更に話す。

「久坂部さんの脳は、僕が食べました。それで一応再生したようで……何か不調はありますか? 思い出せない記憶や、倦怠感、脳疲労などはないでしょうか?」

「かかりつけ医みたいだな……不調はたぶんない、めちゃくちゃ寝たあとだからかそこそこスッキリしてる気もするぜ」

「そうですか。……姫野さんと市平さんに、久坂部さんが起きたと報告しなくてはいけませんが……」

「日付変わりそうな時間だし、明日でいいんじゃないか?」

 とか言いながら俺は、せっせと奴原の背中を撫でていた。なんというか、久しぶりに話せて久しぶりに触れた感覚があった。尽力してくれたらしい姫野と市平さんには悪いが、今夜は奴原とこのまま話していたかった。

 俺の気持ちが伝わっているみたいで、奴原は目を細めながら微笑んだ。毛先でぐりぐり喉の辺りを刺してくる。ちょっと痛いがなかなかかわいいじゃれ方だ。

 体勢を入れ替え押し倒そうとしたところで、奴原は髪を離して上半身をさっと起こした。

「久坂部さん」

「ん……?」

「久坂部さんの部位、引っ張ると取れるようになっているかどうか、試してみてもいいですか?」

 甘えるように頼まれてフリーズしちゃった。

 そうか脳吐いたんだから、他の部位も取れるようになってるかもしれねえか。

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