4 結局同じ穴の狢なわけで

 久坂部さんが脳を吐いて倒れた瞬間、僕も姫野さんも市平さんも同じ顔をしていたと思う。え、そっち? という顔だ。同時に現実と思考がうまく融合してくれず、三人が三人とも分単位で固まってしまった。店員さんの来店した客に対する非常に明るい声だけが三人の間を走り抜けていった。

 はじめに動いたのは市平さんだった。

「なんでそうなんねん久坂部さん!お、起きてや!」

 と言いながらテーブルに乗っかっている脳を一瞥し、突っ伏している久坂部さんの肩を揺すった。久坂部さんはされるがままだった。全身からすべての力が抜けていて、吐かれて少し変形している脳は艶のある桃色だった。なんというか僕は、俯瞰することしかできなかった。どうして久坂部さんが? と考えれば考えるほど袋小路へと追い込まれた。

 本当なら脳を吐き出して突っ伏して動かなくなっているのは僕のはずなのに……。

 ぼんやりする僕とは違い、姫野さんは身を乗り出して市平さんの肩を引いた。

「市平ちゃん、多分無駄だから」

「そ、そんなんはわかっとるけどもやなあ、なんでこんな状況に」

「私も今それをめっちゃくちゃ考えてるんだけどまとまらないんだよ」

 姫野さんの顔には動揺が波紋のようにずっと広がっている。珍しい様子だとは、僕にも市平さんにもわかる。市平さんはもう何も言い返さずに久坂部さんから手を離した。姫野さんも市平さんの肩から手を離して、僕たち三人は、改めて向き合い場違いなほど綺麗な色の脳をそれぞれ観察した。

 本当に、どう見ても脳だった。久坂部さんがなんの前触れもなく急に吐き出しただけの脳だった。

 僕じゃなく久坂部さんが吐いた理由なんて、一つしか思い当たらなかった。

「久坂部さんには、いつも僕の腕や目を、食べてもらっていて……それが何かの原因だろうなとは、思います」

 話し出すと二人は無言で頷いた。僕も頷き返し、隣で突っ伏している久坂部さんの背中に掌を当てた。まだ温かかった。背骨に沿うように撫でてから、心臓の辺りで手を止めた。鼓動はまだあった。途切れる気配もなく、一定のリズムで鳴っていた。

 つまり、そういうことだとは思った。心臓を吐いても生きていた僕のように、久坂部さんも脳を吐いても生きてはいるのだ。

 そう二人にも伝えた。市平さんは頷いたけど、姫野さんは髪の毛をぐしゃっと掻き混ぜてながら頭を振った。

「あ〜〜、色々振り出しに戻った感じする〜〜!」

「ほんまやで、なんでこんな」

「市平ちゃん! 持ってきてくれた本、とりあえず読ませて」

「あ、うん。……せやけど言うたみたいに振り出しに戻った感はあるで、私がチョイスして持って来たんって、奴原さんが部位取れで死んでまうとして、って想定のオカルト本やし」

「そんでも持って来てくれたんだし調べるしかできることないでしょ。それともここで、このピンク色の脳、食べる?」

 市平さんは固まった。姫野さんは「冗談だよ!」と付け足したけれど、僕はスッと片手を上げた。

「僕、食べますよ。久坂部さんの脳」

 二人分の視線を一度に賜った。市平さんは「ほんま?ほんまにこの人?」と顔に書いていて、姫野さんはぽかんとした後、意外にも首を強く横に振って止めてきた。

「ダメダメダメ、絶対やめたほうがいいよ奴原さん!」

「それは、なぜでしょう?」

「いやいや、そもそもさあクサくんは多分奴原さんを食べ続けたからこうなっちゃったわけでしょ? じゃあさ、だからと言って奴原さんが食べ返しちゃったなら、結局同じ穴の狢なわけで」

「部位がポロポロ取れるのは、僕だけでいいと思いますが」

「今食べてクサくんが復活したとして、その後のクサくんがどこも取れないとは言い切れないよねってこと!」

 確かにそれはそうだった。ならやっぱり、何故取れてしまったかを考えるのを先にするべきなのだろうか。僕としてはいつまでも久坂部さんをこの状態にしておきたくはない。とりあえず起き上がって欲しい、脳に復活して欲しい。久坂部さんがいつもして下さっていたように、なるべく早く部位を元に戻してあげたい。

 悶々と考えていると市平さんが挙手した。

「ひとまず、店からは出えへん?」

 申し出はその通りだったため、僕は残りのグリーンカレーを急いで胃袋へと押し込んだ。


 動けない状態の久坂部さんは僕が背負って店を出た。外はそれなりに夜中で酔客の叫び声が何処かから聞こえていた。まだまだ都会の繁華街は眠らない。僕はスマホで何かの位置検索をしている姫野さんに声をかけた。

「この後はどこへ」

「予定外の予想外なことが起きちゃったからね〜、行こうとしてたバーを止めて、ちょっと歩いたとこにある公園に入ろうかなと」

「公園で何するん?」

「クサくんの検死」

「ギリギリで生きてはるで」

「言葉のあややだよ」

 軽妙な二人のやり取りを聞きながら、背中にある暖かな重みに意識を向ける。久坂部さんは動かない。でも鼓動はやはり聞こえてくるから生きてはいる。そう伝えるが姫野さんは別のことが気になるそうだ。それならと辿り着いた公園で、久坂部さんをベンチの上に横たえた。

 姫野さんはそばに膝をついて、パシンと音を立てながら両掌を重ね合わせた。

「クサくん、ごめん!」

 謝罪を告げた後に、久坂部さんの片腕を持ち上げて人差し指を持った。

 そして折った。いや、取った。あっさり取れた久坂部さんの人差し指は、ネイルの美しい姫野さんの手の中に収まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る