7 ちょっとやることがあってさ
ホテルはご休憩ではなくご宿泊だったのでアバンチュール後も滞在した。話しているうちにどっちも眠りこけて、俺がハッと起きたのは奴原の浴びるシャワーの音によってだった。ティーンズのメロ漫画のようなシチュエーションである……しかし俺は喜んだりはできなかった。
昨日奴原に聞いた話が寝起きでも頭の中をぐるぐると回っていた。出身地である因習村(じゃないとは言っていたが限りなく近い)も怪しいけれど、それはそれとして奴原自身が今置かれている状況が俺には信じ難いというか、どうにかしてやりたいというか、あれだ。どうにかしてやりたいと思って色々やったとしてもすんごい空回るんじゃねえかなってやつだ。
「あ、おはようございます、久坂部さん」
悶々としている間に奴原が出てきた。お湯でほんのり赤くなった頬とラブホ備品のローブが朝っぱらから艶めいていた。とか言って喜んでいる場合じゃないから頭を振って立ち上がる。俺の起立にきょとんとしている奴原にシャワーを浴びると告げてから、急いで浴室へと歩いていく。
ああ、俺は意気地なしだ! 熱めのシャワーをだいぶ熱いなと思いながら浴びつつ、色んなこと、それはもう色んなことを考えた。奴原と初めて出会った時のことも考えた。好きな作家や好きな小説の話で気が合って酒が進んで気がつくとホテルで朝チュンしていた。そこからじわじわと距離を詰めていってイマココだ。人も数名巻き込んだ。腐れ縁の姫野にはちらほらと相談もさせてもらった。その後に流れで仲良くなった市平さんは初めての飲み会の時に奴原の部位取れを早速見せた。二人とも寛大だ。信頼できる相手だと思う。姫野は長い付き合いな部分もあるが市平さんは本屋勤務で色んな本を読んでいるだろうし知識幅が……。
「あ」
とつい声が漏れた。無意識に開いた口の中には熱湯がドボンして舌が熱かった。咽せた。こんちくしょうと思いながら数回咳き込んで、シャワーの栓を捻って止めてから俺は風呂場備え付けの鏡に映る自分の全身をじっと見た。普段は指にも首にもつつけているアクセサリーを全て取っている生身の人間。武装解除された久坂部に、俺は一つの知恵を授ける。
「本屋勤務の市平さんに、因習村の本について、聞いてみる」
はっきりと口に出してから俺は自分の両頬を両手でパーン! と一気に叩いた。めっちゃ痛くて脳がキーン! とした。ちょっと赤くもなった。脱衣所で体を拭いてローブを着て部屋に戻ると奴原は二人分の朝食を注文してくれていて、モーニングメニューの定番らしいトーストセットが並んで机の上に置かれていた。
「久坂部さん、以前になんでも食べられると仰っていたので、とりあえずトーストセットにしました」
「もちろん食えるよ、ありがとう」
奴原さんは礼に対して可愛く微笑んだ。うーん、何かにつけて可愛いと思ってしまうのはもう病だ。恋の病。このくらいならいいだろうと思いながら近くに寄って、まだ乾き切っていない奴原の黒髪長髪をさっと撫でた。奴原は笑みを深くしてから俺の手首を握り、指輪も腕輪もついていない手を眺めた。何をしてるのかと思ったが中指の爪の先に鼻を擦り付けられて倒れそうになった。え? 猫ちゃん? と後少しで言ってしまうところだった。俺が可愛さの衝撃に固まっている間に奴原は自然な動きで手を離し、モーニングセットに横目を向けた。
「食べましょう。その後は、どうしますか? 僕は仕事は休みですが、久坂部さんもですか?」
「ああ、いや……」
仕事は休みだったがさっき思いついたことが脳裏を過ぎった……そう市平さんだ。
「休みなんだけど、ちょっとやることがあってさ。今日はごめん。また今度、改めてその、デート、デートの日を改めて……」
俺マジで屁っ放り腰すぎないか? 自分にわりとげっそりするが、もしかしてこれ本命童貞ってやつかしら……。などと俺がまごついている間に奴原は微笑みながら頷いて、またメッセージで休みの日を送ります、と穏やかな口調で言った。俺は感謝しながら頷いた。
こうして俺たちの色々と濃厚だった一夜は終わり、俺は奴原と駅前で別れてから全速力で最寄り本屋に向かっていった。
市平さんはいた。俺を見るなり「あ、ほんまに来たやん」という顔をした。何がほんまなんだと思っていると「本どこやったっけな」という顔をしてから「その前に姫野ちゃんか」という顔をした。
俺はもう、なんというかもう、市平さんにも姫野にもまったく頭が上がらないんじゃないかと思いながら、乙女のように両手で顔を覆いながらほんのちょっとだけ泣いてしまった。
好きな子が俺のせいで取れまくるんじゃないかという疑惑がかなり辛かったんだとここで気付いて、どうしようもなくなった。市平さんは「めっちゃ泣くやんどうしたらええねん」という顔をしながら慰めにかかってくれて、俺は店長の懇意で早めの昼休憩に入らせてもらえた市平さんに連れられて、本屋近くのランチもできる喫茶店に移動した。
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