6 冷蔵庫に入れっぱなしだった
奴原はまた溜め息じみた息を吐いてから右手を下ろして俺を見る。
「動かしにくいというか馴染んでいないというか。こうやって誰かと分けて食べたのがなにせ初めてのことなので、もしかすると食べ切っていないから、もしくは中途半端に食べたからかな、と思った次第です」
「あー……」
俺ぜんぜん奴原の右手に手つけなかったもんな……と再会までの時間を思い返す。なんとなくもったいなくて冷蔵庫に入れっぱなしだった。なんならこれを口実に奴原を誘おうと思っていたまであるけども、結局誘いは奴原の方が早かった。
しかしそういうことなら早速食べ切りたい所存。
「じゃ、右手のためにさっさと食べようぜ」
「そうします」
温め終わった右手と和風スープを持ってきて、空気が読める炊飯器の炊き上がり音にグッジョブを送りながら茶碗も二つ机に置いた。
向かい合わせに座り、食べ始めた。奴原はスープを褒めてくれたし右手はやはり味が染みて美味かったし、昨日読んだ変な愛の小説集の話をすれば奴原は目をきらっとさせて僕もそれ好きですと言ったから、かなりいい感じの時間が過ごせていた。
「そういえば、姫野さんの話なんですが」
と奴原が言い出すまではめっちゃ相思相愛の雰囲気だったんですよ本当に!
まさか奴原の口から姫野の名前が出るなんてとかなり焦った。いやでもそういえば姫野は姫野で奴原に連絡したら俺と懇意にすることになったって言われたみたいな言い方してたよなと三秒くらいで思い出した。連絡先知ってるんだこの二人。
えっもしかして、俺の恋のライバルって姫野なの?
「あ、あのー奴原さん……」
「はい?」
「姫野とは……どのような……?」
つい消極的に聞いてしまう。奴原はぱちぱちまばたきをして右手を一口食べてから、友達ですよとまず言った。
「そもそも久坂部さん。僕と久坂部さんが初めて会ったあの飲み会、姫野さんが幹事だったじゃないですか」
「……そうだっけ?」
「そうですよ。姫野さんが全員を集めて店も予約してくれたんです」
「あー……じゃあ、奴原さんはもともと姫野の知り合いなのか……」
「久坂部さんだってそうですよね?」
「あ、はい、そうでした」
奴原は肩を竦めて和風スープをすする。なんだか焦り過ぎて変な空気にしてしまったが、落ち着け俺と心の中で繰り返してから向き直る。
「それで、姫野がどうかしたのか?」
改めて聞き返すと奴原は首を縦に揺らし、スマホを取り出して机に置いた。
「昨夜、クサくんのことよろしくね〜、と連絡が来まして」
「えっ」
「僕は僕で久坂部さんについて聞かれた時に懇意にさせて頂いてますと答えてしまったので、なんというか」
「な、なんというか?」
「姫野さんて、久坂部さんのお姉さんなのかな……? と……」
お笑い芸人だったらひっくり返っていただろう。引っ張りに引っ張ってこのボケた解答、奴原の魅力のひとつなんだが恋のライバル!? などと思っていた俺にとってはズコー! 以外の何物でもない。
とはいえラブトライアングルじゃなくて良かった。白菜の浅漬けをポリポリしている奴原に、姫野は姉ではないし血など繋がってはいないと真実を告げるとそうなんですねとさらりと言われた。ふーむ、とても軽い。俺はわりとすでに奴原のこと好きなんだけど奴原からのラブは言うほど感じなくてちょっと寂しい。
姫野についての疑問は解消したのでまたまったりランチタイムに戻った。今度は俺の愛する鞠栖川鞠栖について語り始め、その次に奴原が実話怪談コレクションについて語った。お互いに好きな小説を相手にプレゼンできてテンションが上がっていった。昼食はいつの間にかすべて食べ終わっていて俺は皿を片付ける前に奴原に本棚を見せて何でも読んでいいと声をかけた。
後片付けをしている間、奴原は俺の本棚から変な愛の小説集を引き抜いて捲っていた。俺が昨日読んでいたのは海外作家編だったが奴原は日本作家編を手にしていて、俺はその様子をちらちら見ながら皿洗いを手早く済ませた。
読書の邪魔をするのもなと思って海外作家編の方を本棚から抜いたけども開く前に奴原がぱっと顔を上げてさっと右手を差し出してきた。
「久坂部さん」
「ん、なに」
「右手、違和感なくなりました……!」
奴原は花が咲くように笑顔を広げた。差し出された右手は俺の右手を握っていて、くいくいと動く指はおかしな部分はなさそうだった。手はあったかかった。どうしよう、なんて悩む前に俺は握り返していた。
「奴原さん」
「はい」
「次、どっか取れたときは、ちゃんと一気に食べよう」
「ええ、そうしましょう」
「すぐ連絡してくれ」
「もちろんです」
はじめて一緒に右手を食べた日のように、再び俺たちはしっかりと握手を交わし合った。奴原は目尻を溶かすように笑っていて、やはりめちゃくちゃ良いなと俺は思った。
まあわりと変な愛なのかもしれないんだけどこのはじめての右手は全部のはじまりなわけであり、俺が奴原について知っていくのはまだまだこれからなのである。
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