3 まだ何もとれてません
右手の旨みの余韻を感じながら仕事に行った。特にすごい仕事ではなくただのアクセサリーショップ店員だが、給料はそこまで悪くないし同僚は賑やかで楽しいし店の近くにマクドナルドがあるし何の問題もなく日々が過ごせる良い職場だ。もちろん残業代ももらえる。どんな業界にもサービス残業なんて流行らない。俺は俺がエンストしそうなことはとてもできない。
まあ今日もいつも通りにお客様の相手をしていた。ちょっといかつめのアクセサリーを取り扱うショップなのだが(ちなみにステンレス製が多い)、すべてケースに収納しているため声をかけられてから店員が一人ついて鍵を開ける。たまたま近くにいた俺を呼んだお客さんは太い指輪を見たがった。わかる、かっこいい。そう思いながら鍵を開けて指輪を取り出すとお客さんは反射のように右手を差し出してきた。
ここで一瞬だけ止まっちゃった。
右手、なんせ右手だ。つい昨日濃厚な右手料理を食したばかりで、その右手の持ち主と継続したなんらかの関係になると決まったばかりで、俺はおもいのほか奴原に思考を持っていかれていた。
「今はめますね〜!」
と取り繕って言いながら人さし指に太い指輪をはめて差し上げたが、ハメたんだよな……とまた奴原を思い浮かべる始末だった。
指輪は無事に買ってもらえた。俺は閉店間近の店内で自分の右手をわきわきしながら、刺激的な体験って忘れられないよね……と独り言を漏らしてしまった。後輩に一歩距離を取られた。
さて刺激的な体験。右手実食ももちろんそうなのだが、奴原と行なったと思われる夜のスポーツも該当する。こっちは本当に覚えてなくてもったいないというかなんというか右手引きちぎったの本当に俺じゃないよな? と仕事しながら何回か考えた。セックスってわりと無理な体位になるときがある。いやわざといろんな角度で楽しむのはさもありなん……とは思いつつも初見で記憶ない泥酔でイレギュラー異常性癖を見せてしまったんならもっとちゃんと謝るべきじゃないだろうかと悩み出した。俺はけっこう色々思い悩んでしまうタイプだ。お客様をムッとさせてしまったときなんて一ヶ月は引き摺るし昔の恋人に言われた「あんたって結局バカじゃん!」という罵倒はずっと引き摺っている。バカ。バカか。いや今は現在付き合いのある奴原のことを考えるんだ。
やっぱりちゃんともう一度謝ろうと寝る前に決定した。いやーマジでこのグダグダ思考回路の掌返してしまう感じ、たしかにバカだしなんていうかこの前読んだ「アドルフ」みたいだ。あんな男にはなりたくないから本当に本当にマジで奴原とはちゃんと話し合いをしなくては。
そう思って翌日に連絡を入れてみた。奴原はわりとすぐに返事をくれたが、
『先日はどうもありがとうございました。申し訳ないのですが、まだ何もとれてません。すみません』
という色々とずれている内容だった。
だから休憩や暇な空き時間を駆使してなんとかやり取りを繰り返した。
こんな感じだ。
『取れない方がいいだろ。そうじゃなくて、他に聞きたいことがあって』
『なんでしょう? 部位の取れる頻度ですか?』
『それも気になるけどそうじゃなく、俺と奴原さんて(ここでちょっと入力迷った)セックスしたよな?』
『ああ、はい』
『そうだよな?』
『しましたけども、それが?』
『いや、腕取れちゃったのしたからなのか聞きそびれたから。俺のせいで取れた?』
『そうとも言えますが、そうでないとも言えますね』
『え、禅問答?』
『どれかと言えば哲学では』
『ちょっとブディズムっぽくないか?』
『虚無の話ですか、お疲れなんですか?』
『いや違うって、仏教とか哲学じゃなくて腕の話(話をむりやり戻した)』
『久坂部さんのせいで取れたとして、何か問題があるんですか?』
『問題というか、それなら全力で謝罪したいというか』
『なるほど。角煮美味しかったので問題ないです』
『(返事に迷って)アドルフって読んだことある?(すげーどうでもいいこと聞いた)』
『あります。あれは、えぐいです』
『わかる。あれの主人公って俺と似てる?』
『似てません』
ガッツポーズが出た。仕事の休憩中で周りに人がいたからちょっと恥ずかしかった。ここで休憩時間は終わりだったし奴原の方からも仕事に戻りますって連投が来たのでやり取りは一旦途切れて、俺も仕事に意識を向けた。
とはいえやはり奴原とガッツリ致していたんだな……と考えながら店頭に立つ状態になった。俺は彼女しかいたことがない。男に性的な興味を持った覚えもない。しかし今、酒も飲んでおらずはっきりしている今、奴原の顔を思い浮かべるとまあ抱けるなと納得してしまったりする。
性癖が、変わった。それはそれで別にいいが、女に興味がなくなったわけでもないみたいで、彼氏のプレゼントを見に来たと話す女性客を見て可愛い彼女さんで羨ましいなと自然に思うなどした。うーん、わからん。でも男にも女にも興味持てる方がバリエーションが豊かで人生楽しくなるかもしれない。右手を食べるという刺激的な体験もしたわけだし俺の運勢とか命運みたいもんが、もしかしたら一気に変わったりしているのかもしれない。いやどうかな。都合のいいように考えすぎるのもよくねえか。
とりあえず確定しているのは、俺は早いうちにまた奴原に会いたいということだ。
ところが奴原より先に意外な人物が現れた。
あと三十分もすれば閉店の時間だ。客の姿はなく、平日だったためもう誰も来ないかもなと思い、バイトに社員として閉店作業は責任を持つと伝えて先に帰らせた後だった。
ふらっと入ってきた女性客は俺を見るなり笑顔になった。
「クサくん元気そうじゃん!」
俺を久坂部ではなくクサくんと呼ぶのは一人である。
「何してんだ、姫野」
「アクセサリーの買い物だけど」
「お前の好きそうなやつないんだって」
姫野はえぐい〜、とか笑いながら言って近づいてきた。
「クサくんさあ、この前の飲み会のあと奴原さんと消えたじゃん? あれからどうなったのか超気になってて、聞きたくて来ちゃった」
ニッコニコの笑顔のまま言い放たれた。俺は表情も動きも固まったが、姫野はニッコニコのままだった。
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