いつの間にかさようなら、いつの日かありがとう

老木 椒

ビッグビッグじろう

 「ビッグビッグじろう」という人物をご存じだろうか。私は名前だけしか覚えていなかった。記憶を操作されたなどという大層な事情がある訳ではない。「ビッグビッグじろう」との出会いが幼い時のことであったからよく覚えていないだけなのである。


 記憶が曖昧であるので、事実とはかけ離れている可能性があるが、覚えている限りのことを思い出してみようと思う。


 幼稚園頃のことであった。その日、私はなぜかは分からないがよく眠れなかったことだけを覚えている。前日に怖い夢でも見たのかもしれないし、逆に楽しいことがあって興奮していたのかもしれない。よく眠れないと主張する私に対して、母親は無理に寝かしつけようとせずに、好きなようにさせた。その結果私はリビングのソファーに座り込んで、テレビを眺めながら過ごすことになったのだ。


 眠れなかった原因を忘れているのは、それを上書きしてしまうくらい、深夜のテレビを観るということが、子供の私にとっては冒険であったのだ。本来なら起きていてはいけないはずの時間に、いつもならいない場所で、未知のものと遭遇する。大冒険である。


 番組の内容は恋愛の話とかであったと思う。5~6歳の私にはよく分からないものであった。椅子に座った人が話して、話し終わると次の人が話して。子供が喜ぶような絵的な面白さは何もなかった。一つを除いては。


 ある人物へトークの順番が回ってきた。その人物の見た目は大して印象に残っていない。若い青年であったと思う。ただその人物が現れた時にでかでかと表示されたテロップの名前に幼い私は心を奪われてしまったのだ。


 「ビッグビッグじろう」に。


 ビッグビッグじろう、ビッグビッグじろう!

 

 その名前を見た瞬間、頭を突き抜けるような衝撃が私の頭に走り、よく分からずに聞いていたトークの内容は私の頭から一切遮断された。子供ながらにかっこいい名前だと思ったわけではない。言葉を力技で無理やりつなぎ合わせたようなその名前が、幼い私の心に反響し続け終わらなくなってしまったのだ。


 そこから先のことはよく覚えていない。おそらく適当にテレビをしばらく見た後に寝たのであるのと思う。全てのことがどうでもよかった。翌朝以降私は、気が狂ったように


「ビッグビッグじろう!」


と連呼するようになった。私の中で一発ギャグとして確立されてしまったのだ。


 親の前で


「ビッグビッグじろう!」


 友達の前で


「ビッグビッグじろう!」


 祖父母に会っても


「ビッグビッグじろう!」


とにかく連呼していた。自分のことながら馬鹿なのではないかと思う。


 幼稚園で言いまくっていた時に、歳の割に聡い女の子に


「どういう意味?」


と聞かれたのだが、テレビでちらっと見ただけのよく知らない人の芸名であるというだけであったので


「分からない!」


と即答し、その子が呆れたような顔をしていた思い出がある。呆れられて当然であろう。その子に対して幼いながらの好意を抱いていた私は少し落ち込んだ。


 そんなこんなでしばらく「ビッグビッグじろう」を連呼し続けていた私であったが、テレビで「ビッグビッグじろう」を見ることはあの夜以降なかった。それに、子供の私は薄情なことに名前だけにしか興味がなかったので、特別彼がどういう人なのかも調べようともしていなかった。


私の中のビッグビッグじろうブームも数か月で過ぎ、人前で言うこともなくなった。そうして忘れたわけではないが記憶の片隅に収納され、「ビッグビッグじろう」はずっとほったらかしにされたままになったのであった。それから、幼稚園頃の友人とはだんだんと別れていき、祖父母は亡くなり、大学生になり親元を離れた。


ある夜心細くて、何となく眠れなかった。一人暮らし、一人の夜、一人の布団。来ない眠気に若干苛立ちながら、寝転がっているとき、「ビッグビッグじろう」との出会いを思い出した。


 あれから、時間は沢山あったはずなのに彼について調べようとしたことはなかった。思い出は思い出のままにしておきたかった。下手に知ってしまうと完成し、棚にしまわれた作品を壊してしまうようで嫌だったのだ。ただ、その日は寂しさの方が勝り、思い出に浸りたかった。


 「ビッグビッグじろう」で検索しても多くのことは出てこなかった。芸人で、あまり大成はできなかったようである。情報がまとめれたサイトに掲載された数行の経歴の一番下には引退という文字で締められ、8年前の西暦が書かれていた。それ以降は何一つ分からなかった。


 私は彼の芸を見たわけではない。名前が好きだっただけである。顔すら今の検索でこんな顔だったと思い出したくらいである。それでも何か悲しくなってきた。


「ビッグビッグじろう」


 小声で呟く。聞いて笑ってくれる人は誰もいない。寂しくなってまた言ってみる。


「ビッグビッグじろう」


 俺は1人で何をしているんだという気持ちになってきた。更に言ってみる。


「ビッグビッグじろう」


 なんだかおかしくなって来てにやにやしてきた。


「なんだよ、ビッグビッグじろうって」


 深夜、一人で変な言葉を連呼している自分を客観的に考えて一瞬冷静になる。ただそんなことを真面目に考えた自分すらおかしくなって来て、寂しさなんて吹き飛んでしまった。


 芸名をウケ狙いで付けたのかは分からないし、ネタじゃない部分で笑われるのは不本意かもしれない。だけど今「ビッグビッグじろう」は私のことを救ってくれた。


 ネタは動画で残っていないのか?


 眠れないことも忘れて、私は今更彼を追いかけ始める。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いつの間にかさようなら、いつの日かありがとう 老木 椒 @HouhouKanpa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る