16

                               西暦一九二五年


 下宿で強盗事件があった時、当時まだそれほど売れてもおらず、部屋で本を読むか書いているか、古本屋やカフェを昼間から転々とするかくらいの毎日だった私が真っ先に疑われた。

 その時、乗り込んできて冤罪を晴らし、鮮やかに事件を解決して見せたのが恭介だったのだ。探偵と作家の相性が悪いはずもない。以降始まった親交は彼が有名な私立探偵となり、私の作品が糊口を凌げるほどの収入をもたらすようになってからも続いた。私が推理劇の脇役を務めたことも幾度かある。主役ではなかったが、物語の登場人物にでもなったかのような愉快痛快の日々だった。

 だがそうした思い出は全て、

「作られた思い出、詐欺師の演出なんですわ」

 アヤは冷たく言い放つ。恭介が微笑んでその言葉を肯定し、その歯が月明かりを受けて白く光った。

「やっぱり君は〝目覚めて〟いたんだな、アヤ。そうじゃないかと思っていたが、直接観察できない以上、決め手は無かった。ここで弧川君と二人きりにならせてみたかいがあったよ」

「そういうことでしたのね。あなたが私を連れ出す手だてを整え、タヅを探しておられると聞いた時には、広い世界を御覧になられたことで迷妄が解けたかと一瞬、期待いたしましたが。それどころか心底汚れきってお戻りになられたようですわね」

「正義を奉じながら東京で貧乏暮らしをするより、田舎で御大尽を目指した方が楽しいさ。君こそ広い世界を知った方がいいね」

 まあ無理だが、と恭介はくぐもった笑い声を立てる。

「成長の機会を放棄した上、間抜けな勘違いで計画を台無しにした方の御言葉じゃありませんこと」

「間抜けはひどい。それに目覚め方がどうあれ、君がもう使い物にならないという点に変わりはないだろ? 困ったもんだ」

「ちょっと待て、恭介、君は何を言ってる? 君は一体……」

 アヤが私を制した。

「この男の仕事は東京の人いきれの中から、条件に適った生贄向きの男性を見つけてくることなのです」

「条件に適った……生贄?」

「善良で人を信じやすく、教養があって、でも無警戒で鋭い知恵は持たず、生真面目で、でも惚れっぽくて情熱的で、女を魅了しつつ疑心を抱かせない程度の外見で。そういう、条件ですわ」

「正確に言えば、生贄用の生贄だがね。自ら名探偵の助手を買って出る夢想家、少女の境遇へ義憤を抱く騎士道精神の持ち主、歪んで育ったであろうその乙女を心から愛することのできる博愛主義者、忽然と消えてさもありなんという素性、この御時世、そういう男を見つけるには苦労したよ。成人は大体みんな、すれてるからね」

 恭介の声音もまた、今まで私が知っていた彼のものでない。帝都の上品な青年紳士でなく、すれきった女衒のように下卑ている。

「生贄用の……生贄?」

「現代風に言えば、さるのばけを退治するには、内向的自殺願望を持った生贄が必要なんだ。人々を恨みつつ仕方なしに自死するのではなく、自分は死ぬ必要があるのだと確信して自殺を目指す志願者が。でもそういう自殺者志願者は中々貴重なんだぜ? みんな本当は死にたくないんだ。嫌々、自殺するんだね」

「ちょっと待て、さるのばけだって? おい、そりゃ……」

「貴重で見つかりにくいのなら、作ってしまえばいい。これがおおもとの動機さ」

 恭介は私を無視して得意げに続けた。

「状況に殺されるのではなく本当の意味で自殺しようとする人々、そういう人心製造法がないわけじゃない。例えば御国のために死ぬ軍人さんの何割かは忠義のために自ら死ぬる尊い精神を持っていると聞く。まあ僕は信じちゃいないがね。それに、自己犠牲の精神が動機ならそれが果たされた時、さるのばけへ効かないかもしれない。正負で言えば正の効用だろうから、むしろ怪物の力を強めるだけに終わる可能性もある。もっとメソメソした動機を持つ自殺志願者が理想なんだ。そういう人間を食べてこそ、さるのばけの中で陰陽の逆転が起こって自壊する。昔から、そういうことになっている」

「君は何を言ってる? さるのばけなんぞ、いるはずがない」

 いやいるんだ、と恭介。

「まあ聞いていたまえ。君がこの場所に連れてこられた動機の話だ。こんな辺境で君が美少女と物語めいた恋に落ちる、その動機さ」

「恋に動機もなにもあるものか」

 そこで私はハッとした。アヤを見る。彼女はついと顔を背けた。

 確かに恋に動機はいらない。

 それが自然発生的なものである限りは……。

「自己嫌悪が高じた自殺志願者、打ちひしがれ、死んでしまいたいと心から願う自殺志願者、そういうのが欲しい。だが人工的に前者を造るのは難しい。自己嫌悪を煽ること自体は簡単だが、その際、周囲への恨みを同時に抱きやすくなるから。あくまで完全な内向性自殺志願者を生成しなければならない。さあ、弧川君、君ならどうやってそんな人間を造りだすね?」

「分かるもんか」

「そうかい? 君は大いに関わってきたんだがな。つまり全身全霊、真心で恋する乙女を造ればいいんだ。相手の男に依存しきり、自己の肯定理由を完全に預け、その男が居なくなれば自分の存在価値も消失する、熱烈にそう信じ込む純な娘を仕立て上げればいい」

「そんなに浅はかな娘を見つける方が難しいさ」

「おやおや、そんな愛らしい娘と逢瀬を楽しんでいた割には、君も昨今流行る〝狡猾な女〟説の信奉者かね。女は現実的かつ打算的、例え一世一代の恋に敗れても、次の日にはもう別の男と枕をともにしていると? 浅いな、君は。そういう女だって、これと決めた時の信心深さは、とても男なんぞ敵いっこないんだぜ。他の可能性に気づかない女はどこまでも敬虔だ。同一性の揺らぎを避けるべく、自分には彼しかいないと必死に自己暗示をかけるのさ」 

 それが女の美点にして弱点なんだ、と恭介。

「もっとも、そういう弱点があるにしても、他の可能性があることを知っていさえすれば、自分を取り戻す機会は幾らでもある。自分の存在理由を他者へ預けることなど本当はできやしないのだから。だからこそ一世一代の恋は過去となり、世に良妻賢母が溢れ返る。だが可能性を全く知らされなければどうだろう。存在理由を誰かに預けきった少女がいるとして、その預けた誰かが消失した時、彼女はどこから新しい自分の存在理由を見つけ出すのだろう?」

「……見つけられずに、持ち去った男の後を追うというのか?」

「そんな単純ではない、と言いたそうな顔だがね。そういう単純なものなんだ、純で孤独な恋心というのは。生成のきっかけそのものを与えることも容易いし、思い込みの激しさを利用して行方を操作することもそれほど難しくない。寂しい老人が結婚詐欺師のカモになりやすいのと同じことだ」

「アヤがそうした娘ということなんだな? 孤独で隔絶された環境の中で生贄として必要になるまで育て、いよいよ完成させるべき時が来ると、依存の対象として僕をあてがった。だからこそ僕だけは面がいらなかった。それまで身の回りの人間に全て面をつけさせていたのは使用人の身分を示すためじゃない、コミュニケーションを断絶して選択肢を与えないため、僕と出会った時に僕の存在を唯一の存在として強く印象付けるため、そういうことなんだな?」

「ありがたい話だろう、色男君?」

「なんてことだ」

 私は呻いた。伝説の怪物に対抗するための生贄となるべく、アヤは畜養されていたというわけだ。

「手毬歌の中で、成功する家が〝おんないえ〟であるのもそういう理由からか?」

「そう。女の子の方が閉じ込めておきやすいし、生理的に不安定になりやすい分、暗示にもかけやすい。昔の人も考えたもんさ」

「それで今、僕を殺し、アヤを絶望に追い込むというわけか。生贄を完成させる時がきたと、そういうことなんだな!」

「そのつもりだったよ、前はね」

「つもりだった?」

「君はやはり観察眼が足りない。アヤを見たまえ。今の彼女は君が死んだからといって絶望するほど、君に依存していないぞ?」

「……」

 悔しいがその言葉は事実らしい。凛と立って私と恭介を見るアヤの顔に不安や恐怖は微塵もない。彼女は確固として彼女だ。銃口を向けられてなお不敵に微笑む男装の少女は、私の知るアヤとまるで別人だった。細めた両目に冷酷な光を湛え、唇を歪める。

「あら、あなただって先生のこと、あんまり悪く言えませんわ」

「どういうことだい?」

「連続殺人の発端は、その方が勘違いしたことに始まるのですわ、先生。そして勘違いをさせたのは、先生、あなた様なのです」

「君があんまり紳士ぶるから悪いんだ」

 恭介が鼻を鳴らした。

「顔にでかい傷痕のある娘を捕まえて〝きれい〟だって? 素直に醜いと言えよ。男同士の会話でまで取り繕うから面倒が増える」

「……タヅのことか?」

「その方は、先生がタヅをここで初めて見た時に〝きれいな娘〟と評したために勘違いしたのです。つまり、先生が出会ったのはタヅでなく、私だったのだと。監禁を抜け出して温泉を楽しめるほど、私が外の世界へ状態的に馴染んでいるものだと」

「私がタヅを見てきれいと思ったのは本心だ。それに、君が温泉に入りに来たからといって、なぜそれが殺人に繋がる?」

「前提が崩れますわ、先生。私が孤独の中で純粋に育てられているからこそ、一人の殿方へ魂を預け切るまでに依存するはずという、生贄として成るための前提が」

 私は頷くしかなかった。

「生贄となるべき私は完成と程遠い状態にあるかもしれない、でも新たに娘を育て直す時間はない。さるのばけがそこまで迫っていると分かっていますから、急いで私の代役を立てなければならない。その方は悩まれたはずです。そんな時、タヅが先生を守って彦造を殺すところを見たのでしょう。それが偶々だったのか、不審な動きをする彦造の監視中に遭遇した場面だったかは分かりませんが」

「見張っていたんだ。彦造の弧川君に対する目つきにはありありと殺意があったからね」

「なぜだ? 僕は彦造と初対面だったんだぞ?」

「彦造は単にアヤを守りたかったのさ。だから彼女の生贄としての完成を招く君は敵でしかなかった。それで満代さん代筆の手紙で君を呼び寄せ、石を投げつけて殺すつもりだったんだろう。僕は君がこそこそ出かけていくのを見て、罠の気配を感じた。あんなに早く君が死ぬのは困るから後をつけ、呑気に煙草をふかそうとする君の頭上、崖の上に表れた彦造が大岩を持ち上げるのを見て、こいつで殺そうとした」彼は拳銃を持ち上げて見せ、

「だが、僕が手を汚す必要は無かった。彦造の後ろから何か飛んできて首に命中し、彼が絶命するのを見たからだ。落ちてきた彦造に驚いた君が人を呼びに行った後も、僕はじっと見張っていた。タヅが崖の上に現れ、落ちていた凶器を持ち去った。その時のタヅの顔を見た僕は、こいつはいいやと内心小躍りした」

「どういう意味だ?」

「タヅは明らかに、君に惚れていたんだ。そしてもちろん、世界が君に与えた君の役割、君の運命をも知っていた。だから君の危急を察知し、君を救える。いざとなれば君のために人をも殺せる。彼女の行動原理、動機はそれだけ。それこそ全くの自然発生さ。芋掘りを咄嗟に彦造へ投げつけたのだって君の危機を目前にして、考えるまでもなく手が動いたんだろう。真に惚れるとはそういうことだ」

「しかし、彦造の死は事件のほとんど始まりだ。タヅがその頃から僕にそうした気持ちを持っていたというのか? まさか!」

「もちろん、そのころから彼女が君に、今同等にのめり込んでいたとは言わないし、強烈な一目惚れなどでもないだろう」

 だがね、と恭介。

「まともでない世界では、まともであるというだけで美点なのだ、弧川君。前時代的な男尊女卑の価値観や不気味な信仰の蔓延る集落で、偶々小娘の裸を覗いたというだけで、下心の微塵もなく丁寧に謝りに来る大の大人がどこにいる? それだけで君には希少価値がある。その上、君は彼女のコンプレックスを全く刺激しない奇特な価値観の持ち主だ。外の世界から現れた貴人を目の当たりにして、虐げられて育った乙女心がぐらつかないはずがないよ。ある意味、彼女はアヤ以上に孤独の純粋培養を受けているのだからね。感銘もひとしお、君はタヅにとって天然の女たらしだったのだ。きっかけとしてはそれで充分すぎるほど充分さ。後はもう、彼女のぐらつきをいかに大きくして君への依存度を高めていくかという話になる。大事にアヤを育成してきた佐々間には悪いが、僕がタヅに可能性を見るのも当然だろう?」

「私が生贄としての心理操作を受け付けていなかった場合に備えて、あの子で生贄を急拵えすることに決めたのですのね。馬鹿馬鹿しい勘違いですこと!」

 少し辛辣なアヤの口ぶりに恭介は肩をすくめ、

「実際、君はもう生贄には成りえないじゃないか。瓢箪から駒、僕の勘違いがもうすぐ、大いに役立つわけだ。それに、妹を思う姉面はよしたまえ。手遅れになるまでタヅの変化に気付けなかった君にも責任の一端はある。自分の殺人が計画を狂わせる可能性を秘めていて、それが姉の怒りに触れると考えたから、彼女は君にも隠したんだ。君ら姉妹の信頼もそれほど大したものじゃないのさ」

「……あなたはタヅに、自分が先生のために人を殺しているのだと思いこませることで、あの子の先生への依存を高めようとしたのですね。連続殺人を犯すほど自分が先生を愛しているのだと、真面目なあの子が勘違いを重ね続けるように仕向けた。そうですわね?」

「その通り」

「なんだって?」

 私は二人を見比べる。

「じゃあ、タヅは……」

「彦造と永一郎を殺したのはタヅさ。でも、満代さんと久子さんを殺したのは僕だ。満代さんが振られ続けの腹いせに君へ嫌がらせをするかもしれない、あの洋酒には下し薬が入っているようだから、そいつを満代さんの汁へ入れておけ、と言ったのは僕。その洋酒の瓶を納屋へ隠しておけと言ったのも僕。それだけでタヅは、自分が満代さんに毒を飲ませ、久子さんを過失から殺してしまったと思い込んだ。自身への釈明はもちろん君を守るためだったということで立派につくわけだがね。人を愛するがゆえに――」

 すべてが可能になるのだと解釈を示してやったのも僕、と恭介は笑った。魔法使いの笑い。邪悪な魔法使いがここにいる。

「彼女にとって殺人は罪であると同時に、君への思いを自分へ示す証でもある。殺せば殺すほど君への思いを深めざるを得ないのだと思い込んでいるんだ。だからこそタヅは君にのめり込んでいった。今も積雪の闇夜を逃げながら、必死に君のことを考えているさね。後は君を失いさえすれば、彼女はアヤ以上に良質な生贄として成ることができる。情死しかり駆け落ちしかり、普通の恋愛より異常で必死な恋心の方が乙女心は燃えるのさ。横恋慕なら尚更だ」

「悔しいけれど、それは本当ですわ」

 アヤが頷く。

「あの子の、先生への傾倒ぶりは大変なものでした。このままではいけないと思って荒療治いたしましたけれど、全然効きませんで」

「荒療治?」

「……」

 私は喉奥の詰まる思いでアヤを見た。だが彼女は目を合わせようとしなかった。つまりあの同衾は……。

「まあ、やっぱり、そういう女もいる、ということだね」

 恭介が笑う。「女も色々、色男は大変だ」


 銃を後ろから突き付けられた状態で私とアヤが峠道まで戻ると、集落の方から登ってきた者がある。詰襟姿の佐々間永吉だった。

「へぇ、これがアヤ様か。確かに瓜二つだ!」

 気さくに笑うから、逃げろ、と警告しかけたが、

「ああ、佐竹のオジのとこに、タヅはいなかったよ」

 彼が恭介へ親しげな声をかけたので、二人が仲間だと分かる。

「佐竹のオジ本人は?」

「いなかった。もしかすると二人で逃げたのかもしれない」

「それはないよ」

 恭介が首を振る。「オジはともかく、タヅはこの二人を置いて逃げたりしない。特に弧川君を見捨ててはいかないはずだ」

「そりゃあ、恭さんは今のタヅを造ったんだから、そう言うだろうけどね。そちらは結局?」

「僕の見込み通りだ。アヤはもう使えない」

「御婆様はお怒りになるな。恭さんがタヅを見つけてくれておいて助かったよ。――さて、どうしようか?」

「何を?」

「この先どうするかだよ。この二人は邪魔なだけだろ。とりあえず殺しちゃってからタヅ捜索に専念しようよ。タヅを見つけてから、彼女を置いてきぼりにした二人が手に手を取って逃げる途中、事故で死んだとでも言って死体を見せれば、タヅは我々に怒りを向けることなく死にたくなるんじゃないかな? 恭さんの理論はそういうことだろう? 実姉と好いた男にあっさり切られるほどの価値しか自分にないのだと、恭さんの弁舌で言い包められないか?」

「いつも面倒ばかり押し付けるんだからな」

「仕方ないさ、そっちは分家、こっちは本家」

「そうだがね。じゃあ、そうしようか」

「僕に撃たせてくれないか。前から人を撃ってみたかったんだ」

「お父上の血統だな。だけど銃で殺しては痕が残る。タヅの怒りが犯人へ向けられるとしたら……」

「じゃあ、下の温泉場で銃を使って心中していたのを見つけたことにしよう。下は先生とタヅの思い出の場所なんだろ? そこで先生がアヤと心中したとなれば、より意味深だよ。打ちひしがれて混乱するタヅなら、余計、言い包めやすいというものさ」

「つまりは、撃ってみたいんだね?」

 恭介がやれやれと苦笑いしながら、永吉へ軍用拳銃を渡す。銃口がこちらへ向いた。私はつと歩み出てアヤを背中に庇った。彼女が息を呑む音がして、それだけでしてやったりという気になる。

「弧川君、この銃には何発か入ってる。君がいくら恰好つけても、次にはアヤが死ぬんだ。それにその娘は君を謀っていたんだぜ? 人生最後の最後で庇ってやる義理も無かろうが」

「貴様には分からんよ、恭介。僕の気持ちが分かってたまるか」

「やれやれ。色男、金も力も頭も無い、ってね」

 恭介は首を振り、身振りで私を撃てと伝える。

 永吉が腰だめに銃を構えた。

「待って!」

 銃声と私の後ろでアヤが叫ぶのと、恭介の身体がもんどりうって転がるのとが同時だ。見れば、仰向けにひっくり返った魔法使いは腹を抑えて血の泡を吹いている。心から驚いた目をしていた。

「おっと、動かないでください」

 永吉が今度こそ我々に銃口を向ける。

「別に、あなた方の味方というわけでもありません。むしろ敵には違いない。これは、ただの仲間割れです」

「なぜ……」

「さあて、僕も詳しくは知らないんですがね。あれ、御婆様?」

 永吉の視線を追えば、峠を上ってくる小柄な影がある。佐々間の刀自らしい。普段それほど歩くこともないのだろう、おぼつかない急ぎ足で、えっちらおっちらやってくる。

「御婆様、どうなさったんです? 僕はこれくらいの言いつけならきちんとこなせますよ。父上とは違うんですから」

 永吉が不満げに抗議したが、ようやく辿り着いた老女は肩で息をして答えない。陰険な眼差しとある種コミカルな仕草が滑稽なほどだ。やがて、横たわったままの恭介を指さし、 

「とどめをさせ」

 威厳を込めて命令し、ついで上目遣いに私とアヤを睨んだ。殺害そのものでなく、自分の権威回復を目的とした指示なのだろう。

「もう大丈夫なのになぁ」

 永吉がぶつくさ言いながら、さらに二発、恭介へ撃ち込んだ。

「お主が佐々間を乗っ取ろうとしとるくらい、先刻承知よ」

 老婆は遺骸を足蹴にしながら満足げに頷いていたが、

「御婆様、やっぱりアヤはもう使えないそうですよ?」

 永吉の言葉に目を向いた。こちらへ銃口を向けたまま二人は顔を寄せ、しばし静かに談合していたが、

「逃げられると面倒じゃ。アヤの脚も撃て」

「おい、待て!」

 私が制止しようとしたが間に合わない。永吉は祖母の指示に脊髄反射で従うのだ。破裂音がして、アヤの細い体が後ろへ吹き飛ぶ。

 慌てて駆け寄ると彼女は左膝を砕かれていた。私は脱いだシャツを裂いて止血帯を作る。残り布で傷を押さえるとアヤが呻き、

「先生ッ……」

 覚悟か恐怖か諦めか、見上げる眼差しがどういう感情を意味しているのか分からない。ただ、ひどく熱っぽく潤んでいる。

「静かに。まだ可能性がないわけじゃない。チャンスを窺うんだ」

 それが口から出まかせであることくらい、アヤにはすぐ見抜けただろう。だが、彼女は私の囁きにこっそり頷き返した。

「先生、アヤを担いでください。集落へ降ります」

 背後から永吉が指示する。

「祖母の話では、近く、お二人の出番があるかもしれません」

「どういう意味だ?」

「山狩り隊が、巨大なサルの化け物を見たそうです」

 ほら、と言われて私は気が付く。

 いつの間にか半鐘の鳴り方が、摺り鐘へ変わっていた。

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