14


                               西暦一九二五年


「弧川君!」

 右足を引き摺りながら蔵の外へ出ると、恭介が駆け寄ってきた。

 もうとっくに陽は落ちている。積もった雪が月明りに白々と光り、天地が逆転したように思われた。途端にめまいがして私は吐いた。

 ただ事でないことに気づいたのだろう、恭介の足音が早くなる。

 手の甲で口を拭い、私は彼へ向き直った。

「やあ、恭介。……ここはどこだ?」

「佐原の焼け跡に建てられた佐々間の蔵だ。君、なんだってこんなところにいる? その満身創痍はどういうわけだ?」

「永一郎に殺されかけたんだ。どうも本物のサディストで、拷問の理由欲しさに私を久子夫人殺害の犯人として糾弾していたらしい」

「だが、彼女を殺したのは……」

「ああ。……タヅだ」

 恭介の目が丸くなった。

「なぜ知ってる?」

「ついさっき、彼女に助けて貰ったのさ。その時にみんな、自分が殺したんだと言っていた。……君こそ、なぜそれを知ってる?」

「警察が彦造殺害の凶器を見つけた。山芋を掘るのに使う、平らな鉄刃に柄がついた専用のシャベルだ。そいつを後ろから槍みたいに投げつけて、彼女は彦造の後ろ首を割ったんだ。タヅの血糊指紋がべったりついたやつが地蔵堂の下から出てきた。それで下人部屋の彼女の荷物を調べたら、猫いらずの包みも見つかった。おそらく、納屋の缶から抜かれた分だろう。満代さんを殺したのも彼女だ」

「久子夫人は?」

「おそらく、とばっちりだな」

「すると永一郎で実質、三人目か……」

「なんだって?」

 私は出てきたばかりの蔵を指し示した。

「私の急所を奴が捻じ切る寸前に彼女が殺したんだ。手斧で後ろ首を叩き割ってな。だが、あれは一種の正当防衛だ。私を守るためにやむをえずやったんだ。永一郎は間違いなく狂人だった」

「なるほどね」

 恭介は私へ意味有り気な視線を向ける。やがて口を開き、

「この事件の動機は……」

「ああ、すべては僕を守るためだ」

「それも彼女が言ったのか?」

 私は無言で頷いた。彦造は岩を落として私を殺そうとしていたのだろう。満代は洋酒に毒を入れ、永一郎は惨殺を試みた。殺された三人が私を殺そうとする動機は分からない。だが、考えるべき動機はただ一つだったのだ。タヅの動機、それこそが全ての鍵だった。

「僕は居もしない凶悪犯をずっと追っていたというのか?」

 愕然とする恭介。

「彦造の死が満代さんを誘因するための罠と見えた、その偶然が君を間違った方角へ誘導してしまったんだ」

「……」 

「僕らが止めるべきは悪意でなく、善意の連鎖だった」

 そこで私は重要なことに気がつく。

「この半鐘の音はもしかして……?」

「そう、山狩りの合図だ。タヅの身柄を抑えねばならん」

「恭介……、彼女を助けられないか?」

「本気で言ってるのか?」  

「彼女が三人を殺したのは事実なんだ。それもかなり乱暴な方法で。僕を守るためといえ、司法の手に渡せば重い刑罰を受けるだろう」

「……司法の手に渡ればな」

「渡らないというのか?」

「ここの警察があてにならんことは前にも言ったとおりだ。しかも佐々間の現当主を殺した下女を、いつも醜いと蔑まれている女を、正しい手順で丁寧に扱おうとする奴なんざ居やせんよ。魔女狩りの末に拷問、私刑さ」

「彼女を助けてくれ、恭介」

「もちろんだ。君の恩人だからな」

 優秀な男は立ち直りも早いの。帝都の魔法使いは自信ありげに、しかし優しく微笑んだ。

「この際だ、四人で逃げよう。つまり君と僕、タヅとアヤだ。君もいずれはそうする心算だったろう?」

「でも、どうやって?」

 私の問いに彼はしばらく自分の顎先を撫でていたが、

「弧川君は足を怪我しているね。だから逃げ回るタヅを探し当てて山狩り隊から守りつつ逃げるのは難しかろう。そいつは僕に任せてくれ。君はアヤを佐々間の屋敷から連れ出すんだ。山狩り隊の本部に使われている上に当主が帰ってこないから、あそこは今、てんやわんやなんだ。アヤを連れ出しても誰も気づかないさ」

「だが、牢を破る方法がない」

「君はいつもそれだ。物事っていうのはね、先を見越して準備しておくものなんだぜ?」

「どういうことだ?」

「前の間に採光用の大窓があるだろう。白くて分厚い擦りガラスが羽目殺しになったやつだ。その外には鉄格子があるんだが、内側の格子と違ってそっち、裏庭側に監視はついてない。誰かが破るかもしれないという発想が元々無いんだね。だから僕が破っておいた」

 得意げに胸を張る恭介。私は称賛の眼差しを惜しまなかった。

「君って奴は、本当に魔法使いだな!」

「君より少し目端が利くだけさ。どうせアヤを逃がすつもりなら、それくらい準備していなくちゃいけない」

「まったくその通りだよ」

「手ごろな石も見つけて、窓の下あたりに幾つか置いてある。アヤを窓際に呼び寄せて、内側から布団か何かで抑えさせてから割れば音もそんなに響かないだろう」

「あの窓、声が通るかな?」

「君の考える通りアヤが聡明な娘なら、外の格子を外した窓を君がノックした時点で自分がやるべきことを悟ってくれるさ」

「確かに、彼女ならきっとそうだろうね」

「惚気は全部終わってからにするんだ。さあ、始めよう!」

 私たちは峠の温泉で落ち合うことを約束して別れた。



     ※



 驚いたのは破った窓から出てきた時のアヤの姿だった。さすがに寝間着ではないだろうと思っていたが、それでも私は彼女が勉強を教わる時にいつも来ていたような、上等の洋服か着物姿で出てくるとばかり思っていたのだ。令嬢の手を引いて必死の逃避行、という勝手なイメージを無意識のうちに組み立てていたものだろう。

 だが手前勝手な心象風景はあっさりと裏切られた。

 彼女は詰襟の学生服で上下を固め、窓枠に残るガラス片を器用に避けながら飛び出してきたのだ。

「先生!」

 月光降りしきる夜の中で私たちはつかの間、ひしと抱き合った。

 しっかり抱いてみればそれはもう、紛れもない女の体で、外見と肉感の不用心なアンバランスに私は思わず微笑んでいる。途端、

「痛ッ!」

「先生、お怪我なさってますの……?」

 雪の照り返しを頼りに、彼女は透かすような目つきでこちらの顔をまじまじと見上げた。

「変な転び方をしたんだ。それより、男装とはおそれいったな」

「いつかはこんな時が来ようかと、前に永吉さんのお古が出た時、タヅに持ってきてもらって、仕立て直しておきましたの!」

 なるほど確かに聡明な娘だ。だが、

「それは……?」

 私はアヤの右手にある裁ち鋏に気づく。あ、と彼女は微笑み、

「忘れておりました」

 自分の首筋へ両手を回し、長い黒髪を左手で器用に束ねた彼女は一瞬も躊躇うことなく、首筋より下の毛を切り離してしまった。

「おいおい、いいのか?」

「また生えますもの。まだ、長いかしら……」

「いや、素敵な美少年だ。帝都の奥様方が放っておくまいよ」

「いやだわ!」

 ころころと笑った彼女は隠しから折り畳まれた紙袋を取り出して広げ、鋏と髪の毛を中に入れるとその口を絞った。裏庭の向こうへ続いている藪のずっと奥目掛け、えい、と投げ込む。

「今は暗いからともかく、明日には見つかるかもしれんぞ。燃やしちまった方が良かったんじゃないか?」

「臭いが出ますわ。ここの人たちは目よりも鼻が利くんですのよ」

「なるほど」

 私の右脚はかなりひどい状態で、走ることは不可能だった。

 だが、月夜が私たちを助けた。我々は家々や藪が作るくっきりとした陰に紛れて動くことができたし、逆に、この時間出歩いている住人や警官は皆、松明やカンテラなど持っているので、私とアヤは蠢く人工光源の群れを遠巻きに移動すれば良かったのだ。

「皆、永一郎様を探してるのかしら」

 道々に彼女が呟いた時、私の背筋は強張った。

「私たちが逃げたのがもう分かるはずもなし……」

「――タヅを探しているんだ」

「タヅを?」

「彦造と満代さんを殺したのはタヅだったんだ」

「まさか!」

「恭介や警察は推理と物証から見定めたようだけど、僕はタヅ本人の口から聞いたよ。永一郎を殺したところは直に見た」

「旦那様も? タヅが殺めたと仰るのですか?」

「でもそれらはみんな、僕を守るためだったんだ。殺された人々が僕を殺そうとしていたから、彼女は僕を守ってくれたんだ」

「……」

「今、山狩りの目を盗んで恭介がタヅを探している。見つけ次第、峠の温泉まで連れてきてくれる。この窓を破る工夫も彼がしていてくれたんだ。温泉で合流して、それから脱出だ」

「……四人で東京へ行けますのね」

 そう言ったアヤの声音は、しかしどこか、上の空だった。


 我々の動きに合わせて笹に積もった雪が滑り落ち、歩行を難しくする。月明かりが遮られるためにすぐ足元が見通せないほど暗く、

自分の脚とアヤを庇いながら滑りやすい斜面を下り、ようよう温泉まで辿り着いた私はへたり込まずにおれなかった。

 恭介とタヅはまだ来ていない。だがその点は心配ない。濃い闇に紛れて少女を追手から掻っ攫うなど、あの男には朝飯前だ。

 どちらかと言えば問題はアヤだった。妹が犯人であるという事実はやはり受け入れ難いようで、いつの頃からかずっと口を閉ざしている。私自身の体験も含め、隠すべき部分は隠して知りえたことを一通り話して聞かせたが、明確な反応は無かった。

 それで私も無言となって、月明かりに柔らかく煌く彼女の横顔をぼんやり眺めるなどしていた。なにはともあれ、もう一度この顔を見ることができて良かったと、心から思った。

 だが同時に、澄んだ夜気に馴染み過ぎ、冷たいとすら見える今のアヤの眼差しは、全く対照的という点で、あの時のタヅを私に思い起こさせもした。燃える盛る怒りの色を思い出させた。

「あんたのせいで、私は人殺しなんだ!」

 彼女の絶叫に突かれた気がして、私は思わず耳を抑える。 

 確かにそうだ。例え正当な理由があったとしても彼女は私のために殺人を犯し、その事実を背負っていかなければならなくなった。

 私は彼女に対し、何を、どう償うべきなのか……。他人事めいた言い方だが、あんな痛ましい表情をタヅにさせたくはなかった。

 そしてそれをさせたのは、私だ。

「あの時、帰っていれば……」

「え?」

 私の呟きがアヤの反応を呼んだ。私は彼女へ向き直り、

「タヅのことを考えていたんだ。前に話したはずだが、タヅは私に幾度か、東京へ帰れと忠告していた。今考えてみれば、あれは私が命を狙われていると知っていて、それで言ってくれたのだと思う」

「ああ……」

「だとすれば、その時私が素直に聞き従って帰っていれば、忠告を受けるようになったのは満代さんの死後だから、彦造と満代さんはともかく、さらにタヅが人を殺める必要は無かったかもしれない」

「でも、それは、……先生の責任ではありませんわ。旦那様だって、先生にひどいことをなさらなければ……」

「それはもちろんそうだが」

「それに、先生を引き留めたのは私です。先生に責任があると仰るなら、私も同罪ですわ」

「それは……」私は言葉に詰まった。ややあって首を振り、

「ここでタヅに会った頃が懐かしいよ。あの時はこんな騒動に巻き込まれるなんて、思ってもみなかった」

 話の行き先を逸らすことにする。

 そうしたかったのはアヤの方でも同じらしい、クスッと笑い、

「タヅのお風呂を先生が覗いたお話ですわね?」

「いや待て、意図的に覗いたわけじゃないぞ?」

「でもご覧になったのでしょう? いかがでした? 私が言うのも可笑しいようですけれど、タヅ、きれいだったでしょう」

 じっと悪戯っぽく、しかしどこか真剣に、アヤは私を見つめる。

「そうだな……」

 私は少し迷う。だが結局、心を決めて頷き、

「確かにきれいだった」

 それは並みの女性に対してなら、あるいは危機を招く発言だったかもしれない。肉親についてであっても、恋愛感情を持っていない誰かについてであっても、女の前で他の女を誉めるなと、世の年配諸兄はこぞって後進に警告するのが常である。だがアヤは、彼らの知る女ではなかった。彼女は妹への評価について我がことのように胸を張り、誇らしげに微笑んだ。満足して輝く彼女の表情に、私は「君の方がきれいさ」などと、つまらない世辞で誤魔化さず本当に良かったと思った。

「君もタヅが好きなんだな」  

 私は言った。「あの時は本当にびっくりしたよ。人が通った気配も無い藪をかき分けかき分け出たところに、裸の娘が立っていたんだから。あんまり眩くて、羽衣伝説の再現か何かなのかと思ったな。恭介はずっと後から来て、彼女を直接見なかったんだが、それでも天女みたいな女の子が居たと私が言ったら、かなり驚いていたよ」

 と、そこで私は、アヤの眉間へ縦皺が寄っていることに気づく。

「先生」

「――なんだい?」

「タヅについて、本当は恭介さんに、何と仰ったんです?」

 問いかける声の調子が張り詰めている。言い過ぎてしまったか、と動揺する私へアヤはさらに畳み掛け、

「タヅの容姿を誉めるのに、実際にはどう仰ったんです? 天女様みたい、って仰っただけですの?」

「いや、それは……」

「きちんと思い出してくださいまし!」

「え、いや、そうだな」

 見たことのない彼女の剣幕に私は慌てる。

「天女みたい、てのは僕自身の感想だった気もする。たぶん、驚くほどきれいな女の子が居たとか、そんな言い方をした。あとは額が少し目立つが全体的に小造りな顔だとか、眦の切れた大きな目だとか、ちんまりした鼻だとか、そんなところを言った気が……」

「あざはどうです? 火傷の跡は?」

「それは言ってないと思う。見たといっても一瞬だったし、正直、タヅの顔に痕があることは佐々間家で再会してから確認したようなものでね。きっと光景全体の調和へ目を奪われていたんだろう」

「先生……もしや、タヅを訪ねて女中部屋まで謝りに行ったことを恭介さんにも内緒にされたのでは?」

「そりゃそうだ。一つ屋根の下にいる男たちに裸を垣間見られた話をされて気持ちのいい娘が居るはずがないだろう? そんなことをしたら謝った意味がなくなるじゃないか」

「逃げましょう」

 私へ歩み寄り、アヤが言った。厳しい顔が青白く見える。

「……なんだって?」

「今すぐここから逃げるんです。ここは危険です」

「何を言ってるんだ?」

「お分かりにならないのも無理はありませんわ。先生は真の動機を御存知ないのですから。でも!」

「真の……動機?」

 アヤが急に全く違った人物に見え始め、私は目と耳を疑った。

 急に彼女の背が伸びた気がした。すっくりと立ち、全てを見通す目を持つように思われ始めた。その姿はまるで、まるで……。

「先生」凛とした声でアヤが呼びかける。

「恭介さんこそ、この事件の本当の犯人なのです」

「その通りだよ」

 聞き慣れた声がして、笹薮からゆっくり出てきた影がある。

 左之恭介。帝都一の名探偵にして、私の友人。

 その手には軍用拳銃が握られている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る