13

                               西暦二〇二五年


 結局のところ、最終的な悟りなど在りはしないのだ。

 いつもそうだ。何かしらこれ以上は無いだろうという経験を得てそれまでの自分の未熟を知り、分かったつもりになる。しかしその〝つもり〟にしても、結局は近いうちに更新を強制される。

 例えばこの喪失感――。

 いや、これは更新ではない、と鮠川は思った。

 天翔園での職を彼が選んだ直接のきっかけは、ありていに言えば愛妻の不貞だ。

 彼の記憶の中で今も若く美しい妻は、結婚以前から彼を裏切っていた。少なくとも婚姻の期間中に肉体的裏切りは無かったと彼女は主張したが、しかし心は最初から鮠川に無かった。夫との閨にありながら、彼女は二回り近く年上の男と形而上の逢瀬を重ねていた。

 物事の始まる以前から破局は定められていたのだ。男の妻の死を後押しに、ついに二人は現実でも通じ合った。そして彼女は喜々として鮠川の元を去った。誤った選択を正し、人生をやり直すのだと言い残して。子供を作らずにいてやはり良かった、とも言われた。

 世間によくある話なのかもしれなかった。

 だが、鮠川には初体験だった。

 彼は築き上げてきたつもりの愛情が全て当て所も無い一方通行であった現実に打ちのめされ、心のバランスを崩し、職を失い、自分ではもう既に廃人のつもりで人里離れた老人施設の求人へ応募し、採用されたのだった。本当は何もしたくなかったのだが、死ぬ気も資産もないので働くしかなかった。しかし若さの中に身を置く気もしなかった。惚れた腫れたは二度とごめんだった。それで山奥の、閑静な施設で裏方仕事に徹するつもりで丹沢天翔園を選んだ。

 実際には閑静と程遠い、生臭いほどエネルギッシュな住人たちがそこに住んでいたのだが、しかし、とどのつまりそれは本当の若者では無かったので楽だった。同じ屋根の下に寝起きしてはいても、天翔園の住人は彼にとって依然、遠い世界の住人のままだった。

 その頃、鮠川は自分の人生でもうこれ以上、何ものも失うことは無いだろうと考えていた。ただ静かに、食べるためにのみ就職したのだ。だからこそ園の異常な日常をやり過ごすことができた。醜悪な老人を横目で眺めて、全く何も感じなかった。

 だが、それは錯覚だったのかもしれない。単なる同僚としてしか関わりの無い珠子の存在そのものへ無意識のうちに希望を見出し、無意識のうちにそれへ縋っていただけだったのかもしれない。そうでなければ、愛した人の裏切りで得たより遥かに大きな喪失を感じているらしい今の己の無気力に説明がつかないのではないか――。

 彼は屋上に座り込み、呆けていた。

 遠く広がる相模湾のぎらつきに、目を細めることもしなかった。



     ※



「だから、緊急だと言っとるだろうが!」

 外山婦人から返却された緊急回線用の端末に相原は怒鳴り続けている。通話の相手は婦人の説明をまるで信じず、屋上へ逃げ延びた彼が再びかけなおさなければならなかったのだった。

「今すぐ特殊部隊に屋内地雷と火炎放射器を持たせて寄越せ。武装ヘリもあればなお良しだ。おい、聞いとるのか!」

 やがて老人は忌々し気に端末を見つめ、床へ叩き付けようとして振り上げた腕を漸うの面持ちで堪え切った。

 その場の三人へ目を向け、

「切りおった」

 笑顔とも泣き顔とも見える不思議な表情で言う。

「忙しい部局だからな。くたばりぞこないの戯言に付き合っとる暇は無いらしい。わしが育てた男だが、そのせいで必要以上にわしを疎んじる傾向にあるんだ」

「さるのばけの話もしたんでしょ? 信じてないってこと?」

 野々村の問いに相原は頷く。

「ハイハイと流しおった。クマを見間違えたくらいに思っとるんだろう。地元の猟友会に一応、知らせておいてはくれるそうだがな。わしが食い殺されれば酒席の肴に弔おうと待ち構えとるんだ」

「助けは来ない、と考えた方がよろしいですわね」

「まさしく、姥捨て山というわけだ」

 外山婦人へ肩を竦めて見せる相原。麓の街並みを眺め、

「取り敢えずはここで、久賀たちが帰ってくるのを待つしかない。しかし……、あいつらが帰ったとして何ができる? ワゴンで全員脱出し、山を下りるにしても、奴から逃れ切るための武器が無い。液化青酸も使い切ったしな」

「天井裏に隠れ続けることはできませんの? お腹を空かせたアレが山を下りてしまうまで」

「奴は作業路に気付いた」

 相原は腹立たし気に首を振って見せる。

「奴が上に注意を向け始めた今、素早く動けない作業路を使うのはリスクが高い。向こうはこっちの動く音を聞けるが、こちらからは換気口の覗き見くらいしか相手の位置を知る手段がないしな」

「でも、いくらあの大きさでも、天井へ攻撃できますかしら?」

「できるさ。そいつは間違いない。奴のジャンプ力はかなり高い。エントランスロビーならともかく、居住部や廊下の天井の高さ程度なら下から突き崩すことができるんだ」

「……実証済みということですのね」

「ああ」


 三階のシアター前廊下から屋上まで逃れる時、相原と鮠川は一度二階へ降り、その天井から作業路へ入った。エレベーター孔へ出て梯子を上る時、相原が銃を取り戻したいと言い出したのだった。

「完全に倒せんでも、足止めできる武器はあった方がいい。先生を喰い終えれば奴め、わしらを追って下に行くだろうからな」

 三階天井裏に再度潜入し、しばらく様子を見るべきだと主張した老人はそそくさとその作業路へ入り込み、鮠川も半ば引きずられるようにして後へ続いた。相原はそのままシアター前へ偵察に向かい、鮠川は出入り口近くで意識を持ったまま気絶、だが数分も経たないうちに叩き起こされた。中腰の四つん這い、必死の形相をした相原が慌しく迫り、「急げ!」

 直後、孔へ鮠川を押し出そうとする彼の後ろに手が生えた。鋭い爪が難燃素材の分厚い天井ボードを引き裂き、指の長い巨大な掌が一気に数平方メートルの面積を毟り取って沈んだ。

「気づかれたぞ!」

 その時、相原も一緒に毟られてしまえば良かったのだ、と鮠川はふと思った。そしてその表情は、相原に見られたかもしれなかった。


「それで、銃も回収できませんでしたのね」

 外山婦人が短い溜息をつく。

「でも、毒ガスも爆発も通じなかったのなら、私たちの身の回りにある武器に効果は期待できないのじゃないかしら。警察を呼べたにしても、拳銃はもちろん、SATの装備ぐらいでは……」

「いや、奴もダメージを全く受けないわけではない。装備が云々というより、短時間でいかに深くダメージを与えられるかが問題だ」

 警察小説で大きな賞を受けたこともある外山婦人の言葉だったが、相原はやれやれという顔で微笑みかけた。婦人は小首を傾げ、

「どういうことですの?」

「外山さんは直接見ておらんから無理もないがな。先生が喰われる直前、シアターから飛び出してきたあいつの肌は、脱皮したように綺麗だったんだ。焦げはおろか、小さな火傷跡すらなかった」

「外部のダメージ層を捨てて、内側から再生したんじゃない?」

 野々村が口を挟み、

「恐らくそうだと思う」

 相原が頷く。「つまり奴の個々の組織は損傷率によって再生できる限度があるんだ。そして限度を超えた組織は、恐らく自死のようなシステムで切り捨てられる。だから銃弾などで受けるマクロな傷の場合は本当に傷ついた細胞のみを見捨てて組織ごと再生できるが、毒ガスや火炎で細胞一つ一つが一気に広範囲に傷つくと組織全体を捨てざるを得なくなるんだ。先のガス攻撃と爆発で損傷した表皮は脱ぎ捨てられ、下の組織が新しい表皮として分化した。それまでの火傷や血飛沫が一つも見られなかったのはそれが理由だと思う」

「群体よりは強力に結び付きあって個体としてのアイデンティティを保っているけれど、自律した細胞の集合体みたいな存在なのかもしれないね。あの外見だけど、哺乳類ではないんだろうなァ。てかやっぱり、地球上の生き物でもないよね。地球外生命かぁ」

「でもそれなら、細胞そのものが不死なのではないなら、短時間にできる限り広範囲を燃やすなりなんなりすれば、攻略できることになりますわね?」

「そう。一瞬で細かく切り刻んで通常時の体表より大きく表面積を取り、燃やせれば、奴の再生能力に勝てるはずだ。だからこそわしは地雷と火炎放射器を要請した。聞き入れられなかったがな」

「地雷で吹き飛ばした肉片を焼いていって、あいつが組織の再生に使える細胞を少しずつ減らしていけばいいんだもんね」

「ワイヤーで切断して、傷口を焼けばそこはもう再生しないのではないかしら?」

「罠をかけるということか? やれんことは無いが、一度トラップに落ちた奴だからな。以前より用心深くはなっとるだろう。それに一度に切り刻むほどの罠はかけられんから何回かに分けてやらにゃならんが、さすがにそう何度もかかるほどの頭でもなさそうだ」

「でも動き回るあれと正面切って戦うなんて、いくら相原さんでも不可能じゃありませんこと? 罠でも使わなければ……」

「プールに油をまいて火の海にしてさ、そこに何度も突き落とすのはどうかな? 這い上がってきて再生する度にさ」

「そんな油がどこにある? それに、どうやって突き落とす?」

「うーん」と、野々村が唸った。

「油は分かんないな。突き落とし役に心当たりがないわけじゃないんだけど」

「――どういう意味だ?」

 相原が目を剥いた。そこで野々村は鮠川へ向き、

「鮠川君さ、君、格闘技とかできる?」

 だが、鮠川は話しかけられたことへ気づかない。

「こいつは今、なんの役にも立たんよ。元より格闘技なんぞできるはずもないが」

 唯一生き残った若者を見下ろし、鼻を鳴らす相原。

「先生の方がまだ使い道があった。抜け殻もいいところだ」

「いや、彼の心はどうでもいいよ。頑丈な芯が欲しいだけだから」

「芯?」

「ほら、この園に一台、介護用の電強外骼があったの覚えてる?」

「ああ。肉体労働の無いここに無用の長物だったがな。倉庫にでも仕舞われとるんじゃないか?」

「今は違う。倉庫で埃を被ってる姿があんまり可哀想だったから、僕、自分の部屋に引き取って戦闘用にチューンナップしてたんだ。知ってるかもしれないけどさ、国産電強外骼のアクチュエーターを設計したの僕なんだ。最初は磨いて、油を差してあげようくらいのつもりだったんだけど、いじってるうちに楽しくなっちゃってね」

 プラモやミニ四駆を思い出したよ、と野々村は無邪気に笑う。

「まあ実際に動かすことを考えて改造したんじゃないからゴテゴテつけちゃってるし、対人実戦には向いてないかも知れないけどね、でも鮠川君が着れば、あいつを突き飛ばすくらいは簡単にできるよ。大体デュアルユース開発だからってさ、あいつを建設や介護みたいなスローな現場で使うなんてもったいなさすぎるんだよ。防衛関連のお偉いさんには電強外骼はギプスに過ぎないなんて言う人もいるらしいんだけど、それはあくまで旧型の話なんだよなァ」

「……そいつを着れば、奴と直接戦えるということか?」

「スーパーヒーローもびっくり、ティラノサウルスとだって戦えるよ。まあ、空は飛べないけどね。あ、それはあいつも一緒か」

 フハハッ、と笑い声を立てる野々村へ相原がにじり寄った。

「おい。もう後出しはなしだぞ。武器関連で他に言い忘れとることは無いか?」

「うーん……あ、火炎放射器がいるんだよね。携行型の高圧洗浄機が確か、テニスコート脇の倉庫に一つあったと思うんだ。一斗缶かポリタンクとあれを組み合わせれば、灯油かガソリンを燃料にして近いものが作れると思う。ただ、コートに行って帰ってくるまでが危ないよね。特に帰りは荷物もかさばって重くなるだろうし」

「あんたが倉庫まで行って、直接改造作業を行うことはできんか? 無論、我々も同行するぞ?」

「それは無理。僕の部屋でないとしっかりした作業はできないよ。動かせない工具が色々あるから」

「電強外骼を着た人間が倉庫へ取りに行くのはどうかしら? 荷物の持ち運びは楽でしょうし、いざとなったら戦えるんでしょう?」

 外山婦人が口を挟んだ。だが野々村は顔をしかめ、

「できなくはないよ。でも、電池の持ちが不安なんだ。チューンの前より重くなってるし、電強外骼は短期決戦向きと考えた方がいいと思う。試運転もしなきゃだし、最高出力で勝てるかどうか、って相手なんだから、できる限り電源は温存した方がいいよね。こんなことになると分かってれば、ガソリンエンジンに替えとくんだったなぁ。排ガス撒き散らして戦う電強外骼とか、夢あるよねぇ……」

「次の機会があることを祈るんだな」

 相原は顎を撫でていたが、

「そうだ、切断系の武器になりそうな物はあるか? チェーンソーなら、あれも確か、外の倉庫にあったはずだが」

「まあ、悪くはないと思うよ。でも本当に電強外骼を着て戦う気が鮠川君にあるなら、もっといい武器が改良機には備わってるよ」

「今のこいつには無理だ。着ぐるみの芯にもなりゃあせん」

「じゃあ相原さんが着る、ってこと?」

「ああ。体の動かし方もわしの方が達者だろう。とは言え、こいつにもさっきの責任は取ってもらわんとな――」

 老人は言うなり、鮠川の横面をしたたか殴りつけた。吹き飛んだ彼へ歩み寄ると強引に立たせて体を揺すり、

「おい、ミスした分は取り返してもらうぞ」

「……僕の、ミスですって?」

 口の端から血を流しつつ、しかしショックのためだろう、徐々に目へ正気の光を取り戻しつつある鮠川が問う。

「いいか、お前が弾丸を盗まれなければ、あそこで先生がわしへ銃を突きつけることもなかった。そうであればわしらがシアター前でもたつくことは無かったし、あの化け物が復活して廊下へ出てきたところでそこに誰もいなければ、誰も襲われることは無かったろう。ぼんやり感傷に浸る前に自覚しろ。先生は、お前が殺したんだ」

「――そんなッ」

 朦朧とする頭で鮠川は考えた。相原が珠子を死に追いやったのだと心のどこかで結論付けていたので、そう反論しようともした。

 だが、老人の鋭い両眼に見据えられていると、確かに、彼の言うことにも一理あるような気がしてくるのだった。薄煙の残る廊下を背景に猟銃を構える白衣姿が目の前にちらつく。凛とした眼差し、引き金に添えられた、白い指先。そのきっかけを生んだのが自分の油断にあることを鮠川は否定することができない。

 やがて彼はうな垂れ、「僕は何をすればいいんですか?」

「これからは弔い合戦だ。奴を倒すことだけが、お前のできる先生への唯一の償いだ。そうは思わんか?」

「……」

「わしらは今から野々村さんの部屋に行き、改造外骼の調整をする。鮠川君はテニスコート脇の倉庫から高圧洗浄機と一斗缶入りの灯油、もしくは同じ倉庫に入っとる乗用の芝刈り機からガソリンを抜き、空のタンクに詰めて部屋まで大至急持ってこい。できるな?」

 問われ、鮠川は力なく頷くしかなかった。

「しゃんとしろ。……不安だな」

「私が一緒に行きますわ」

 外山婦人が手をあげ、鮠川の脇に立った。

「大丈夫か? ばあさんにゃ危険な仕事だぞ」

「ええ。こう見えて日ごろからちゃんと運動していますし、一斗缶はともかく、ポータブル洗浄機くらいなら持ってこれますわ。それより、今の鮠川君を独りで行かせては、危なくありませんこと?」

「……確かに、そうだな」

 頷く相原。

 二人は何が〝危ない〟か明言しなかったが、その意味を想像することは難しくない。今更逃げたりするものか、と鮠川は小さく鼻を鳴らした。だが今もし珠子と二人きりで動くのであれば、躊躇わずそうしたろう。いや、本当はもっとずっと前にそうすべきだったのだ。そうすればきっと、珠子は死なずに済んだろう。なぜその道を思いつかなかったのか。思いつけなかったのか。

 そう考えると、なるほど、



     ※



 なるほど、やはり、俺が殺したのだ――。


 立ち竦みながら鮠川は思う。

「助けてよ!」

「ねぇ、助けてよ!」

 それは彼女が生きている間、本人の口からは絶対に漏れることが無かったであろう台詞だ。

 しかし瑞々しい肉声は悲痛な響きを伴って彼の鼓膜を穿つ。鮠川は思わず両耳を抑えたくなる。だが凄まじい獣臭と威圧に縛られ、手足を動かすことができない。外山婦人にしても最初こそそそくさと彼の後ろへ隠れようとしたが、たちまち赤い眼差しに射抜かれ、硬直した後は呼吸を押し殺して微動だにできないらしい。そのため背後にヒトの気配がまるで感じられず、自分が世界にさるのばけと二人きりになってしまったようにすら鮠川には思われてくる。

 肌理細やかな、新生児のようなサルの体表が午後の陽に輝く。

 弛んだ灰褐色の体に踊るだんだら模様は、全て珠子の返り血だ。涎の香る呼気に混じるのは珠子の鮮血だ。怪物の姿に美しい女医の立ち姿が透けて見える気がして、鮠川は立ちくらみを覚えた。

 それまで通り八階の天井から作業炉内へ入り、エレベーター孔の梯子を一階まで下りて再び天井裏へ、アクセスは一番し易かったが菅野老嬢の殺害現場である事務室へ降りるのは憚られたので、来客用男子トイレから一階屋内、今度は廊下を歩いてエントランスから屋外。植込みの陰に紛れながらテニスコート脇の納屋に辿り着き、高圧水流洗浄機を見つけ、芝刈り機のガソリンを空いたポリタンクへたっぷり移し替えるまではスリルこそあれ楽な仕事だった。

 外山婦人が鮠川と相原の間に生じた確執について色々訊ねてきたので、鮠川は問われるままに、ありのままを受け答えした。

「あの虐殺にはやっぱり、そういう裏があったのね」

 婦人は満足げに、華奢な脚にしては意気揚々とエレベーター孔の梯子を下った。死地へ向かうミッションである可能性も高いのに、あまり緊張している様に見えず、特に珠子と相原の過去を聞いてからは、仮説を実証したばかりの科学者めいた顔つき、ピクニックにでも出かけるかのように溌剌とした雰囲気を纏っていた。

「外山さんは御存知だったんですか?」

「向坂先生が相原さんに対して、何か普通でない感情を持っているかもしれない、ということについては、知ってるというよりは気がついてたわね。相原さんを見えるときだけ、目つきが違ったから」

 あなたは気がつかなかったの、と問われた鮠川は頷くしかない。

「口や態度には出してなかったから、殿方が見過ごしてしまうのも仕方ないかもしれないわね。女は本心を隠すのが巧いから」

「珠子先生の、普通でない感情の原因も御存知でしたか?」

「詳しくはもちろん知らないわ。私、一介の物書きですもの。でもあの事件に関するノンフィクションを書いていた時、編集に圧力がかかったことは事実なの」

「権力の絡む陰謀が実際にあったということですよね……」

「そうね。向坂先生の被害妄想ってことは無いと思うわ。その時の圧力の出所にしても、ベテランの記者さんが本気で忠告してくれるくらいだったし。だから満足のいく作品にならなかった。その頃私、お金が入り用だったから、結局中途半端なままで出したんだけど」

「そうだったんですか……」

 外山婦人は、なぜその頃の彼女が創作の本意を曲げて金を必要としたのか鮠川が訊ねるだろうと幾分、期待していたらしいが、彼がその後口を閉ざしてしまったので、白けた顔で歩調を速めた。

 それで余計に、倉庫までの往路は短かったようだ。

 婦人のアイデアから予備のネットとロープを組み合わせた簡易の網背負子を拵え、それへポリタンクと電源を収めて鮠川が背負い、婦人はほぼ樹脂製で軽量の高圧洗浄機を付属のバンドで肩から斜めがけにして、二人一緒に倉庫を出た。そこに、サルが立っていた。

 おそらくは微かな物音か、急に漂ったガソリンの臭いに惹かれて様子を見に来ていたのだろう。鉢合わせの瞬間、怪物の方でも目へ驚きの色を浮かべたように鮠川には見えた。しばしの沈黙、そして珠子の声。一瞬の後、鮠川は生への執着を失った自分を思い出した。

 なるように、なれ。

 そう思い、彼は真っ直ぐに赤い両目を見返す。

「助けてよ!」

「ねぇ、助けてってば!」

 さるのばけは逡巡しているように見えた。魚にしても獣にしても肉食の野生動物が獲物を襲う直前に見せるあの一瞬のためらいを、この常識離れした怪物もやはり、示しているのかもしれなかった。

「鮠川君」

 外山婦人が震え声で囁いた時、サルの柔肌がざわめくのを鮠川は見た。開き直ったはずでも、まずい、と感じたのは本能によるものだろう。北見や菅野が襲われた光景が蘇る。リアクションバイト、肉食獣は獲物が不用意に動くのを待っているものなのだ。赤い目の中で黒い瞳孔が収縮すると見え――、その時だ。

 甲高く調子外れな電子アラームがけたたましく鳴り響いた。音はそれなりに高さのある頭上を高速で移動し、ドップラー効果の影響を受けつつ位置の変化を知らせる。サルは敏感だった。二人を捨ておき、たちまち音源の落下する方向へ駆け出していた。

 鮠川と婦人が本館を見上げれば、相原、野々村の両名が、八階のベランダから手を振っているのが見える。補給係のピンチを上から知り、サルの気を逸らすために防犯ブザーか何かを鳴らした状態で投擲したらしい。相原は既に電強外骼を装着しているようだから、小さなアラームでもかなり遠くまで投げることができたはずだ。

 着装老人は八階ベランダの柵から身を乗り出し、雨どいや各階のベランダをひらり、ひらりと飛び移りながら降下し始める。

 よく見れば左手に何か荷物を持って、右手と両脚のみで移動している。改造された電強外骼は見た目以上に身軽で器用、かつ力強い動きを保証するらしい。こちらこそ猿みたいだと、鮠川は思った。

 ふと、彼は外山婦人を見る。

 彼女は相原のデモンストレーションを見ていなかった。しかし、まだ怯えているわけでもない。突っ立ち、サルの消えた方角を鋭い目つきで見つめている。唇を引き結び、何か考えているらしい。

「外山さん、今のうちです」

 急ぎましょう、と促されてなお、全速力で駆けようとはしない。

 本館の玄関へ走る鮠川の後ろから小走りで追いかけてはきたが、やはりどこか、心ここにあらずといった顔をしている。

「どうだ、すごいもんだろう?」

 衝撃を殺して地面に降り立った相原が得意げに背筋を伸ばす。

 伸びたのが彼の背筋なのか電強外骼の頸椎なのかは分からない。

 身長は約二メートル後半、外骼と疑似的融合を果たした彼は今や映画やアニメに出てくるロボットそのものだ。介護用だった頃には成人男性程度の大きさだったはずだから、野々村はチューンナップと表現したが、ほとんど改造だ。最早外骼ではなく外殻、ヒーロースーツというよりヒト型の装甲車で、機体の頭部より少し下がった位置に操縦者の顔が少し見えている辺り、妙な愛らしさがある。

「人体の、相原さんのお体へ負荷はかかりませんの?」

 まだ何かしら心残りがあるような顔の外山婦人だったが、さすがに頼もしい味方を得た顔つきで訊ねた。

「多少はあるだろう。過激な改造らしいからな。だが、今のところ医務室から失敬してきた鎮痛剤のおかげで何も感じんよ。かなりの量を呑んだが、筋肉痛が出るまで生きておられれば万々歳だ」

 強化チタンの着ぐるみの中で、相原は愉快そうに笑い飛ばす。

「電強外骼はお嫌いなんじゃないんですか?」

「武器に好きも嫌いもあるか。戦えればそれでいい」

 思わず冷たく響いた鮠川の問いへ老人は肩を竦めたらしかったが、厚い装甲に隠れているので外から見えるはずもない。

 それへ気付いた老人はまた人懐こい笑顔を見せた。精悍で、深く皺の刻まれた笑みだ。ライフルの時は馴染みある道具を取り戻して安堵した顔だったが、今度は新しい玩具を手にした子供のように、知的かつ原初的な興奮で目を輝かせている。どこまでも得意顔で、

「手のひらを出してみろ」

 言われて突き出した鮠川の掌に、赤く眩い光点が二つ映った。

 見れば、外殻の頭部にあるライトから強力なレーザー光線が照射されている。鮠川が手を動かすとライトも追尾して動き、彼の手に光点を映し続けた。少し熱いと感じるほど強い光だ。

「なんです?」

「今はマニュアルで動かしているが、通常は全自動で相手の眼球を追尾してレーザーを当て、瞳孔から網膜を焼き続けるシステムだ。単なるメカマニアだが、野々村も中々物騒な奴さ。しかし対人武器としては違法だが、有害鳥獣の駆除なら問題ないだろう?」

「――楽しそうですね」

「電強外骼の配備計画に茶々を入れたのはあくまで仕事だからな。幾つになろうがヒーロースーツを着る機会を与えられて楽しめない男なんぞただのインポだろう。さあ、ガソリンと洗浄機を寄越せ。ならしがてら、俺が上まで運んでやる」

 その代わり、と彼は片手に下げていたプラスチック製コンテナを丁寧に置いた。鮠川が蓋を開けると、薄い金属で出来ているらしい、御猪口ほどの大きさの物体が四~五〇個ばかり詰められている。

「こいつを一階ロビーの床へ大きく、三重くらいに円を描くように仕掛けておけ。頂点を上向きにセットするんだ」

「……まきびし、ですか?」

「野々村が鹿の食害対策用に作っていた装置とライフル弾の火薬を流用して作った炸裂地雷だ。踏むと足に突き刺さって破裂するはずだ。俺のこれは野々村が対雷仕様に工夫したそうだから平気だが、奴は踏むたびに足を抉られるだろうな」

「でも、再生するのでは?」

「動きを遅らせることはできる。本命の攻撃武器は別にあるんだ。しかし逃げられた時に追跡できるほどの電池はやはり無い。だから一階ロビーをそいつでバトルリングにして決着をつける。急げよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る