12
西暦一九二五年
「あとはお任せします」
朦朧とする意識の中で、誰かがそんなことを言った。聞き覚えのある声のような気がした。それからしばらく、鼻歌だけが聞こえる。
寒い。鼻がかび臭い匂いを捉える。目を開けたが、薄い闇に閉ざされて辺りが見えない。やがて目が慣れてくると、古びた荒物やら何やらが無造作に置かれているのが分かった。四方が広い。物置というよりは使われなくなった土蔵か何かだろう、と見当をつける。
だからどうしたというのか。
痛みが走り、後頭部へ手をやろうとして、両手両足を拘束されていることに気付いた。背もたれ付きの四つ足椅子に座らされ、足はそれぞれ椅子の足へ、両の手首は背後で互いにきつく結わえられている。――ふと、鼻歌が止まってハッとした。
直後、私は頭から冷水を浴びせられている。一瞬体ごと収縮したように思われ、その後すぐ、肌へ貼り付いた衣服が表皮の隅々から体温を奪い始めた。呼吸が乱れ、全身がおこりのように震え出す。
「目が覚めたろう」
正面に人が立って影が差す。顔を上げれば、佐々間永一郎が酷薄な笑みを満面に浮かべて立っていた。いつもの和服でなく軍隊式の詰襟へ防寒着を羽織り、手には白手袋まではめている。
「……なんの仮装です?」
私は問いかけた。もちろん、この雰囲気で冗談を吐けるほど私は屈強な男ではない。ただ、迫りくる恐怖に抗おうとして口が滑っただけだ。しかし永一郎は自分への反抗と認識したらしかった。
笑みを引っ込め、つかつかこちらへ歩み寄ったかと思うと、私の横面を分厚い板で思い切り殴った。咄嗟に角度をつけたので鼓膜は無事だったが、耳が切れ、意識が飛びそうになる。私は大きく息を吸って自分を取り戻した。だが、それが正解だったか分からない。気を失ってしまえば、楽な時間がもう少しだけ増えたかもしれないからだ。
「痛いだろう。だが、久子の苦しみはそんなものじゃなかった」
「だからあれは……」
再びの殴打。今度は板に角度がついてこめかみへめり込んだ。私は嘔吐した。一瞬、寒さによる震えでなく、もっと別の、嫌な震えが来た。瞼が重くなり、今度こそ意識が飛びそうになる。だが、
「おい、起きていろ」
頬を軽く打たれたので、私はこちらへ留まったままだった。
「小説家ってのは随分と女にもてるようだな。ええ、おい?」
板を置いた永一郎の目が、闇の中で嬉し気に光っている。
この男は天性のサディストだと私は直観した。拾い上げた何かを後ろ手に隠して歩み寄ってくる彼は、唇の端に涎を光らせ、
「後家も娘も食い放題じゃないか」
「……満代さんとは、ただの友達だ」
「そいつは勿体ないことをしたもんだ。いい女だったのに。だが、アヤとはただの友達じゃないってわけだ。生娘は美味かったか?」
「……」
「美味かったかと聞いているんだ!」
直後、右膝の上に尖った金槌を振り下ろされて私は絶叫した。
上半身を揺すって激痛を堪える私の頭を永一郎が無造作に掴み、強引に仰け反らせた。こちらの顔を覗き込むようにする。今の一撃がどれほどの痛みを私に与えたか、冷静に計る目つきだった。
「アヤと寝たな?」
「……ああ」
「本当だな? つまり、貴様の一物でアヤを大人にしてやったと、そういうことだな? アヤとまぐわったな?」
「……?」
私は一瞬戸惑った。永一郎の目の中に不思議な生真面目さを見たからだ。下卑た発言と瞳の奥の表情が釣り合っていなかった。だが催促するように彼が私の頭をさらに強く引いたので、
「そうだ」
私は答えた。「アヤと寝たよ」
「いいだろう」
にんまり笑う永一郎の瞳に、最初の嫌らしい光が戻ってくる。
「もう充分だな。成り時だ」
私の頭から手を放し、彼は呟く。
「ナリドキ……?」
その時、もう一度金槌が以前と同じ場所へ振り下ろされたので、私の思考は断絶した。土蔵に響く自分の咆哮が騒がしいほどだった。
飽きたのだろう。永一郎は金槌を投げ捨てた。少し離れたところに置いてあった往診鞄へ歩み寄り、ガチャガチャ中身を漁りつつ、
「お前は男のくせに毒なんぞ使って、卑怯な奴だ。だが俺はそんなものは使わない。ちゃんとした道具で、女房と同じ苦しみをお前に与える。泡を吹くまでもがき苦しませて、最後の最後にとっておきの殺し方で殺してやる。やってみたいことは色々とあるんだ」
こちらを振り向いた両の目が爛々と輝いている。
「……奥さんの復讐じゃないな」
「なんだと?」
「あんたは別に、久子さんの復讐で僕を痛めつけてるわけじゃない。あんたが人を痛めつけるのが好きだから、やってるだけなんだ」
「さすがはインテリ様、その通りかもしれないな」
唇を歪めて微笑んだ彼が、小さな万力を手にこちらへ近づく。
「あいつは俺を嫌ってやがったからな。自分が役者狂いで誰からも相手にされなくなったくせに、せっかくもらってやった俺を自分を攫った山賊か何かみたいに思ってやがった。寝屋でさんざ俺に恥をかかせて、昼は息子に色目を使う。そんなすべたに思い入れなんぞ、確かにあるはずがない」
大仰に頷いて見せ、
「だけど、お前が嫌いなことも確かだ。婆さえ止めなけりゃアヤは俺が試してやるつもりだった。上げ前据え膳で大事に飼われた佐原の娘を思いっきりいたぶってやりたかった。満代もそうだ。あいつは俺を撥ねつけておきながら、お前なんぞに尻を振った」
「……だから殺したのか?」
その問いは思いがけないものだったらしい。永一郎は一瞬素顔に戻り、目を丸くして私を見つめたが、すぐに笑い出した。
「俺は女は殺さんよ。もったいないじゃないか。いいか、東京モンの小説家様には分かるまいが、こんな辺鄙な場所でいい女てのは、それだけで貴重なんだ。一財産なんだ。タヅみたいな御面相でさえ、もう少し育てりゃいい具合に肉がつく。せいぜい試してからどこぞへ売り飛ばすさ。まして満代を殺したりするもんか。アヤがいなくなってから、あそこへ閉じ込めていい具合に慣らす予定だったさ」
彼は言いながら、私の右の小指を小型万力で挟んだ。最初鈍痛が、締め込みがゆっくり強まるにつれ、火がついたような激痛が右腕を上り始める。私は我慢しなかった。叫び、泣いた。そうすることが永一郎を喜ばせると分かっていても、我慢できるはずがなかった。
骨が砕ける音を聞いて、私は悶絶した。
「そうか」
ふと永一郎は得心顔で呟く。
「小説家様なら、指を砕くのが一番後に残って悪いだろうと思ったんだが、考えてみたらアンタ、ここでおしまいなんだな。こんなにチンタラやってたら、晩飯までに終わらんな」
でもなぁ、と彼。
「今、かたをつけちまうのも惜しいなぁ。なあ、先生、あんた飯の時、好きなものから食うか? 嫌いなものから食うか?」
「……」
「とりあえず、目を潰しておいて、飯を食って、風呂に入ってからまた来るか。そうすれば逃げ出す心配もないわけだ。こういうのを合理的な考え方、って言うんだろ、インテリの先生?」
右目は火箸、左目は錐――、と涎を滴らせて歌い、
「どっちからがいい?」
「……やめてくれ」
「なんだって?」
「やめてくれ!」
「それは無理だな。それから、叫んでも無駄だぞ。うちのものでも滅多に近づかない場所だからな」
彼は専用の道具で私の両瞼を開いたままに固定し、
「じゃあ、火箸からだ」
気がつかなかったが、炭火をいれた手炙りが往診鞄の陰に隠れていた。歩み寄った永一郎はそこに差し込んであった火箸を一本抜き取ると、今にも爆発しそうな喜色満面の笑顔を私へ向ける。素早くこちらへ歩み寄り、髪を掴んで私の頭を固定する。真っ赤に焼けた先端が文字通り私の眼前に迫った。小さく弾いた火花が一つ二つ、上頬や眦に飛んだ。私の右目は接する前から蒸気を立て始め、
「おっと、危ない」
ふいに火箸が遠ざかった。
右目は眩み、何も見えなかったが、永一郎が自分の額を叩くのが左目で見えた。いかにも残念といった面持ちで彼はこちらへ微笑み、
「顔に傷はつけないんだった。良かったな」
火箸が床へ落ちる音を聞き、私は溜息をついた。
だが、安心したのもつかの間、
「じゃあこいつだ。こいつが何か知ってるか?」
永一郎は金属でできた輪のような器具を自慢げに見せる。私にはそれが何か分からなかったが、分かっても答えはしなかったろう。
彼は一度その器具を置いてこちらへおもむろに近づいてくると、私のベルトを緩め、ズボンを下着ごと膝下までずり下した。
「縮こまってるじゃないか。アヤの身体を思い出せよ」
先端を摘まんで引っ張り、永一郎はにやつく。そばにあった縄で椅子の背へ腰を深く縛りつけられ、太腿を開いて固定されたので、私の股間が大きく虚空へ晒された。尻で捩って逃れようとするも、差し込まれた彼の手が冷えて引き込んでいた私の陰嚢全体を乱暴に揉み解して引き出す。私は呻き、歯を食い縛って堪えた。
「随分ご立派だな。ずっしりしてやがる」
舌なめずりの音が響く。「こいつは捻じりがいがあるぞ」
「……なんだって?」
だが永一郎は私の問いを無視した。睾丸を指で弾かれ、私は一瞬息が詰まる。だがそれはごく軽い予告に過ぎない。先ほどの器具へ戻り、取り上げた彼は、その反射光を存分に私へ見せびらかした。
嘲笑と憐れみのこもる眼差しをわざとらしく造り、
「こいつは雄牛の去勢具を人間向けに縮めたモンだ。玉袋を縊って捻じ切るんだ。牛の場合は肉の味を良くするためにやるそうだが、人間てのは残酷なもんだな」
軽やかにステップを刻む足取りで、ゆっくりと近づいてくる。
「どうせ死ぬんだ。この先、女を孕ませられなくなることについては心配いらんよ、弧川先生。だがな」
私の顔に浮かぶ恐怖を味わい尽くしながら、一歩、また一歩、
「どでかい雄牛が痛みに震えてのたうつくらいだからな、人間様に使えば一体どうなるか……、面白そうだろうが、え?」
さあさあ、とニタつきながら私の正面に膝をつく永一郎。
再び私の股へ手を差し入れ、陰嚢を引き出す。ぐっと片方の睾丸を押されて叫んだ私を満足そうに見上げる。まだまだ、こんなものじゃないと視線で伝え、こちらの怯えを味わい尽くす。陰嚢全体をさらに揉み解し、ペニスや股間からしっかり離して金属の輪に通す。
その際、器具で舐めるように皮膚へ触れ、恐怖を煽ることを彼は忘れない。最後に根元をきゅっと締め上げ、きつく縊る。
また見上げ、こちらの目を覗き込む。
私は制止の言葉を出そうとして、しかし全く出せなかった。呼吸を忘れていたから声が出せないのだ。だが器具が半回転しただけで私は叫んだ。痛みより恐怖が叫ばせた。
「牛の場合は手早く回して捻じり切るんだがな、先生、あんたにはもう少しいい声を聞かせてもらおうか」
突然、永一郎の顔から笑みが消えた。
彼は膝立ちのまましばらく揺らめいていたが、やがてゆっくり、こちらへ倒れこんでくる。私の股間へ顔をうずめる寸前、彼は強引に引き戻されて地面へ転がった。その後ろ首から手斧が横へ生えている。私は視線を上げた。両の拳を握りしめて立つ、その姿――、
「タヅ!」
素早くこちらへ近づき、彼女は器用に戒めを解いていく。
両手が自由になると同時に去勢具を外して投げ捨て、私はズボンを穿き直そうと立ち上がった。だが盛大にふらついてしまい、
「ちょっと!」
右足の縄へ取りかかっていたタヅが顔を上げかけ、慌てて視線を逸らした。顔を背けたまま手を伸ばし、乱暴にズボンをずり上げてくれる。ちょっとした喜劇めいて、私は自分が間一髪で運命の魔手を逃れたのだとしみじみ感じた。ようやく緊張が緩むのを覚え、
「すまん」
私はベルトを締めながら言ったが返事は無い。
やがて鼻を啜る音が聞こえ、見れば、タヅは泣いていた。最後の結び目を解いてくれながら、顔全体をくしゃくしゃに歪め、大粒の涙を流していた。しゃくり上げ、ついには咽び泣き始めてしまう。
「どうした?」
訊ねる私は能天気だった。生命の危機が去った安堵から、彼女の心情への配慮を欠いてしまっていた。だからてっきり、タヅは私のために泣いているのだ、と思ってしまった。私が無事であったことへの嬉し泣きなのだと考えてしまった。だが、違った。
「また殺しちゃった」
蚊の鳴くような声でタヅは言った。
「なんだって?」
「……また、人を、殺しちゃった」
さっと私へ向けた顔は怒りで赤く染まっている。
鼻孔を膨らませ、血走った目を見開き、彼女は私を睨み付ける。
「あんたのせいだ! あんたのせいで、私は人殺しなんだ!」
「いや、しかし、今のは……」
「旦那様だけじゃない、みんな、みんな、あんたのせいであたしが殺した! 人殺しだ。あんたのせいで、あたしは人殺しなんだ!」
痛ましいまでの怒号だった。
心からの叫びは空気を鋭く震わせて、私の鼓膜を突き刺した。
そして静寂が来る。彼女の荒い息遣いだけが響く。
やがて怒りの赤一色だったタヅの顔が、すっと白く変わった。
「……先生なんか」
私を見つめる瞳は果てしなく暗く、
「先生なんか、居なければ良かった」
言い残し、彼女は蔵から走り去る。
しばらく私は動けなかった。
そしてふと、遠く、半鐘の音が聞こえているのに気づいた。
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