地上の天の川

文学少女

ある少女の話

 電車が私を運んでゆく。電車の窓から夕陽が差し込み、車内は鮮やかなオレンジ色に染まっている。私は電車のドアに寄りかかり、右から左に流れてゆく外の景色に心を預ける。細かい振動が、私の体に伝わってくる。ガタゴトと揺れる電車の音だけが、車内に響き渡る。

 空の端は綺麗なオレンジ色、青空と夕焼けの境目が美しい紫色に澄んでいた。夕陽を背中に浴びた灰色の入道雲は輪郭をオレンジ色に染めていた。町は暗い影に覆われていた。私の心にも、陰りがあった。何事にも気力がわかず、淡々と日々は過ぎていた。

 電車を降りると、煩わしい湿気が私を覆った。あまりの暑苦しさで、電車の冷房が恋しくなった。私は、改札に向かった。駅は多くの人であふれていた。私はこの光景を見るたびに、自分がいかに小さな存在なのかを身に染みて実感していた。私は、有象無象の一部に過ぎず、私がいなくなったところで、きっと誰も気づかないと思うと、私はますます無気力になった。黒い頭の波が、私の前で揺れていた。私は、その波を構成する一人にすぎなかった。

 私は、家に向かって黙々と歩いた。何度も通った道だ。むんむんとした蒸し暑さで汗があふれた。汗で制服のシャツが私の肌に張り付き、気持ち悪かった。何かにずっと閉じ込められているかのような閉塞感が、息苦しかった。道に並ぶ木々の長い影が、道路に伸びていた。木々からは、騒々しく蝉が鳴いていた。私は、そびえたつ木を見上げた。ごつごつとした、淡い茶色の木肌に、深緑の苔が生い茂っていた。そこに、蝉はぽつんと止まっていた。蝉は、まさに生きていた。残り少ない命を振り絞るように、腹を震わせて鳴き叫んでいた。生命の賛歌だ。蝉は生きている。それに対して、私はどうだろうか。私は、生きているのだろうか。今の私には、生きているという言葉よりも、死んでいるという言葉のほうがふさわしいように思えた。車が、通り過ぎた。エンジン音が轟き、空中で溶け、儚く消えてゆく。その静けさの中で、蝉の声は絶えず鳴り響いていた。


 家の扉を開き、

「ただいま」

 と、私はつぶやいた。静かな薄暗い廊下に、寂しく声が響く。返事はなかった。私の両親は共働きで、家に帰ってもいないのが常だった。私は自分の部屋に行き、カバンを放り投げてベッドに倒れこんだ。白い天井を、ぼんやりと眺めていた。掛け時計の秒針の音が、部屋に響き渡っていた。私が何もしない中で、時間は無慈悲に一秒一秒過ぎてゆく。なぜ、私は生きているのだろうか。周りの人は、「あなたは何でもできるね。」と私に言う。私はその言葉を投げかけられるたびに冷や汗が止まらなかった。とてつもない違和感と、罪悪感が私を襲った。私は、人より少し器用なだけだった。ただそれだけなのだ。私には「何もない」のだ。私には、目標も、夢もない。将来に対する希望もなければ、絶望もない。ただ、漠然とした不安だけが、私の胸に広がっていた。この不安が、私を憂鬱にする。私は、この不安から逃れたかった。その時、私の目に飛び込んできたのは、床に転がる、一本のカッターナイフだった。

 黄色いプラスチックのグリップの中で、銀色の刃が美しい輝きを放っていた。昨日、段ボールを開けるときに使ったカッターナイフだった。私は、カッターナイフに、強烈に惹きつけられた。意識が吸い込まれるかのような感覚だった。この不安から逃れられるかもしれないという考えが、私の心に浮かび、気づけばベッドから起き上がってカッターナイフを手に取っていた。ベッドに腰かけ、私は右手に持つカッターナイフを見つめていた。心臓の鼓動が、激しくなった。それは、恐怖なのか、興奮なのか、私にはわからなかった。手のひらから、汗がにじみ出た。親指で、カッターナイフの刃を伸ばした。銀色に輝く刃が、あらわになった。鋭い歯の先端が、私の心を貫くような美しさを感じさせた。私は刃の先端を、左腕の手首に押し当てた。ひんやりとした金属の感触が、心地よかった。心臓の鼓動が、より激しくなる。呼吸が、荒くなってゆく。私はそっと、カッターナイフの刃の先端を、手首に浅く刺しこんだ。鋭い痛みが、私の手首を貫いた。思わず歯を食いしばる。痛覚とともに、形容詞しがたい快感が、骨の髄からふつふつと湧いてきた。私は「生きている」のだと思えた。この痛みと快感が、私が何よりも生きていることの証左だった。異常な興奮が、脳に焼き付いた。

 私はカッターナイフの刃を手首から離した。日焼けを一切していない私の白い腕に、深紅の血の雫が膨らんでいた。血の雫はあまりに美しく、私はそれを見つめていた。傷口には、ひりひりと、波打つような痛みがあった。私は、白くて細い私の腕の上で静かに流れてゆく真っ赤な血をただ眺めていた。蝉が鳴くように、私は血を流した。流れる血は、「私は生きている」という叫びだった。

 私は洗面所に行き、傷口に水を流した。真っ赤な血が、透明の水に流されていった。冷たい水が私の体を冷やしてゆくにつれ、さっきまで感じていた異常な興奮が静まっていった。

 興奮が静まると、私はひどく陰鬱になった。頭の中におもりが埋め込まれたかのようだった。自傷行為の痛みと快感が私にくれた「生きている」という実感は、幻に過ぎなかった。結局、希望も絶望もない無気力な私は、そのままだった。

 私が血を洗っていると、玄関の扉が開く音がした。それに続いて、こつこつとヒールの足音が鳴った。私は心臓が引き締められる思いだった。

「ただいまぁ」

 と、母の甲高い声が聞こえた。その声は頭に刺さるようで、不快だった。私は、この声がずっと嫌いだった。玄関から少し歩き、母は洗面所にやってきた。母は傷口を洗う私を見て

「あら、千夏。どうしたの」

 と、驚いたような声でいった。その嫌な声で大声を出されると、私は堪らなかった。その声で、喋らないでほしい。

「紙で切っちゃったの」

 と、私はぶっきらぼうに言って、ごまかした。もうこれ以上、母に何か言われると、私はおかしくなってしまいそうだった。

「あら、そうなの。傷は大丈夫?」

 と、母は淡々と尋ねた。言葉の一つ一つに、何も感情がこもっていなかった。気持ち悪い。私は、母のその言葉を聞いて胃の奥底から吐き気が込み上げてきた。私は湧き上がってくるものを必死に抑えた。酸味が喉を焼くようで、ヒリヒリと熱かった。胸の中をうごめくような強烈な吐き気だった。嘘つき。もうやめて。

「本当は何とも思ってないくせに、心配するふりなんかやめて。私に、かまわないでっ!」

 私は声を荒げた。私の思いはいつのまにか、声に出ていた。込み上げてきた言葉を、私は吐き出した。強烈な吐き気が、嘘のように消えていった。私は、水を止めた。呆然と立ち尽くす母を横目に、私は玄関に駆け出した。靴を履き、勢いよく家を飛び出した。

 私は全力で走った。あてもなく、ただひたすらに、走り続けた。スカートがひらひらとなびいた。閑静な住宅街の道には、等間隔に街灯が並び、道を淋しい光で照らしていた。私の足音と、荒い呼吸の音だけが、住宅街に響き渡っていた。私は、今私の中にあるものをすべて吐き出してしまいたかった。

 走り続けてたどり着いたのは、近くにある川だった。私は膝に手をつきながら、呼吸を荒げた。川辺の雑草からはコオロギの綺麗な鳴き声が聞こえた。コオロギは、生きている。背の高い雑草は優しい夜風に吹かれて優雅に揺れていた。呼吸を整え、私は顔を上げた。澄んだ藍色の空に、燃えるようにきらめく星々が散った、美しい夜空があった。星は、生きているのだと感じた。静かに、輝き続ける、美しい命なのだと思った。私は、星になりたかった。星のように、命を輝かせたかった。

 星空を映した澄んだ灰色の川が、静かに流れていた。川に映る星はゆらゆらと揺れていた。まるで、天の川が目の前に流れているかのようだった。星が浮かぶ川を眺めた私の頭に浮かんできたのは、どこまでも走り続ける銀河鉄道だった。


 私は草が生い茂る斜面を駆け抜けて、地上の天の川に飛び込んだ。

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