6. 離れの庭で知ったこと
離れの庭は、ひとことで言うと可愛らしい場所だ。
石の小道が緩やかにカーブして、多様な植物が彩りを添え、壁には淡いバラが伝っている。白とラベンダー色、パステルピンクで纏められた色彩が柔らかく、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
バジルは花に見向きもせず、テラスの椅子に腰掛けている。
一方のモニカは緊張も忘れて感嘆の声を上げた。小道の入口で止まってテラスを振り向く。
「庭は誰が手入れしているのですか?」
「サットンだ。気に入った花があれば好きなだけ持っていけば良い」
今はもう男爵家の所有物ではないというのに、そんなことを平然と言う。
話が通じるのか、モニカはまだ測りかねている。それでも消化しきれない謎が腹から迫り上がってきて、自然と口をついて出た。
「あの……、今日は、デイジー様はいらっしゃらない?」
「病だという噂は聞いているか? それとも君は噂を信じない体質なのか」
のらりくらりと避けられる。
芸術品のような外見に機転の効く脳が入っているかと思うと、自尊心は削られる一方だ。
「では、騎士のベンジャミン卿はどちらに?」
「ベンジーに会いたいならば呼ぼう」
モニカはすでに分かっている。
本物のベンジャミンはここにいないのだと。本物のデイジーと共に、どこか遠くの地でひっそりと暮らしているのだから。
しかしバジルは、兜を被った"ベンジー"なら呼べる。
「ホワイト卿」
「その呼び方は好かぬ」
そう言い放って不機嫌を隠そうともしない。バジルは貴族に必要な仮面を持っていないらしい。
背を向けたモニカは小道を進む。ひとつひとつ花を愛で、ゆっくりと移動しながら口を開く。
「では……、バジル様。この離れに住んでいるのは、バジル様とサットンさんだけなのでしょう?」
ピンクグレージュの髪が風に揺れて背中を泳ぐ。そこに強い視線を感じる。視線の主は答えなかったが、これまでのように言葉を連ねて避けることもしない。
モニカは深く息をついて、ようやく話ができるのだと悟った。
「何故このようなことを?」
「必要だからだ」
「デイジー様にとって、ですか? それともベンジャミン様?」
「自分のために決まっている」
「そうですか……。分かりました」
後ろから足音がした。
反射的にモニカが振り返ると、すぐそばまでバジルが迫っていた。
驚いて、よろけながら一歩後ずさる。
「分かった? 本当に?」
どこか非難するような声。
モニカの間近に顔があった。笑顔のかけらもない憮然とした顔だ。髪色と同じ濃密な睫毛が絶妙なカーブを描いているのに気づいて、モニカの視線が吸い寄せられる。答えたいのに、息を止めていたせいですぐに言葉も出ない。モニカは黙って頷いた。
「ではモニカ嬢は何が知りたいのだ」
モニカが知りたいのは、そこに愛があるかないかだ。
もう一歩後ろに下がる。距離を開ければ、背丈が10センチも違わない相手とまっすぐに対峙できる。
「貴方の可愛がっているカイさんは、すべてを知っているのですか?」
兜の騎士の中身がサットンであることを。
病の噂が立ってからの"デイジー"がバジルの変装であることを。
「さあ? さすがに変装は気づいているだろう。だが今すべてを知る必要はないと思わないか」
「どうでしょう。私はいつでもなんでも知りたい人間なのです」
「あの子が僕にそれを訊ねないのは聡明だからだ」
初夏の庭に風が吹きぬけた。海水に冷やされて遥々やってきた東の風は、それぞれの肌をひんやりと撫でていく。
バジルは遠くを眺めるように、本邸がある南の空を見た。
「カイは……、本邸でベンジャミンに会った時はまだ幼かった。その一度きりだ。次に彼女がここで会った騎士はベンジーであってベンジャミンではない」
ここで剣を習い始めたのは5年前だ、とカイは言っていた。つまり彼の剣の師匠は初めから兜を被ったサットンなのだ。
モニカはルーカスから習った『騎士っぽい雰囲気』の見分け方をまだ覚えている。サットンは厳密には騎士ではないだろう。しかし護衛を兼ねている彼の歩き方を注意深く見れば、重心の微妙な偏りがモニカにも分かった。
「ただ一度会っただけのベンジャミンに今も憧れている。騎士の清廉さを崇拝している。その騎士が主人との恋に溺れて逃げた現実を知ってどうする」
カイの夢を壊したくないということか。どうしてこんなに横暴なまま、素朴で哀れなことを言うのだろう。モニカの眉間に思わず皺が寄る。
「清廉な騎士という幻想は、王都の騎士様のせいで冷めてしまいそうですね。それに、隠してもそのうちばれるのではないですか?」
「もとより隠し通す予定はない」
意外にもバジルは、あっさりとモニカに予定を晒す。
「僕もじき女の格好をするのが難しくなる。デイジーそっくりの裏声は君になら聞かせてやってもいいが」
「……それは光栄です。ぜひ拝聴したいですね」
少しだけ意地悪に返してみても、バジルは全然気にしない、というより気づいていない。むしろ声マネの巧さを誇っていそうな感じさえする。
「もう7年経った。そろそろほとぼりが冷める頃合いだろう。環境さえ整えば、デイジーとベンジャミンは正式に結婚することを許されている」
(……え?)
バジルの正面から強い光が当たり、透き通るような赤に変わった瞳が、ぽかんと口を開けたモニカの顔をしっかりと捉える。念を押すように、釘を刺すように。
「カイはその時に知れば良い」
モニカの顔からは表情が抜け落ちていた。
一瞬、思考が止まる。
恋に溺れ貴族の役割から逃げた者には、普通なら2つの道がある。見つかって連れ戻されるか、隠れながら正体を偽って暮らすか。大抵は前者で、駆け落ちは成功しないことの方が多い。
デイジーとベンジャミンに限っては、そのどちらにも当てはまらないとバジルは言っているのだ。数年耐えれば正体を隠さずにその恋が許されるのだと。
「そうですか……、なるほど……。そういう後ろ盾があるのか……」
モニカには思いつかなかった話だ。
その可能性に気づけなかったことに気づいて唇を噛む。
つまり、デイジーとベンジャミンの駆け落ちに力を貸した奇特な人物がいて、その人物は権力を持っている。
きっと今も陰ながら援助しているのだろう。
安堵とともに羞恥がじわりと湧き出し、額に汗がにじむ。
「納得したか?」
「納得しました。何も知らずに口を挟んで申し訳ありません」
モニカは腰を折って頭を下げる。
しばらくそのままでいると、頭上からぽつりと声が降ってきた。
「16歳になる少し前、デイジーは愛のない縁談を受け入れようとした。没落した家を婚姻で底上げするために、自ら犠牲になることを選ぼうとした」
これまでのやり取りとは違う、すんなりと心を通る声。頭を上げたとたんに目が合って、慌てて逸らす。
「それに反対して駆け落ちを提案したのが僕とベンジャミン。で、その話に乗ったのがアスキス伯爵。僕の元後見人で亡き母の従兄弟だ」
「……アスキス伯爵?」
その名を聞いて、数日前に王立図書館で見た情報を思い出した。国に返還された元ホワイト男爵領を管轄しているのがアスキス伯爵だ。
バジルの元後見人で従兄弟伯父でもある、というのは初耳だった。
新しい情報と、既知の情報が混ざり合い、1つの結論に辿り着く。
「そうか」
だからこんなに突飛で杜撰なやり方がまかり通っている。
滅多に人前に出ないとはいえ変装して一人二役をしたり、駆け落ちが簡単に成功したり、領地を返上した没落男爵が無職のまま領地に住み続けたり。
点が線で繋がっていく。
やっぱり持つべきものは友人とコネと権力となのか。
希望とも絶望ともつかない両極端な価値観がモニカの心の底で燻る。
しかし目の前の没落貴族は、そんなことはどうでも良いと言わんばかりだ。
「伯爵の"面白いこと好き"な執念は、僕よりも遥かに上をいくんだよ」
モニカの視線の先で、仏頂面が消える。
赤く色づく唇の端をゆるやかに上げて、バジルはとても綺麗に微笑んだ。
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