5. 複雑怪奇な男爵家当主
(ホワイト卿なのに黒髪なんだな……)
と、モニカ自身もよく分からない思考に陥るくらい、今年で23歳だという男性の黒髪は艶やかで美しかった。
胸の辺りまで軽やかに落ちる濡羽色は、女性なら誰もがうらやむに違いない。瞳は赤みがかっていて、光の加減でルビーのような深みを帯びる。
一瞥しただけで美の法則をコンプリートしていると分かる顔立ちは、精巧に作られたお人形のようで隙がない。
これで首から下がくたくたの夜着でなければ完璧なのだが。
「眠い…」
バジル・ホワイトは、白いネグリジェにナイトガウンを羽織った姿で現れた。脛まで隠れる柔らかそうなネグリジェは着崩れて、あちこちに皺が寄っている。
微睡が抜けないようで瞼は半分閉じていた。
「おはようございます、バジル様」
おもむろにドアから現れた主人に、平然と声をかけるのはサットン。
サットンは離れの邸宅に勤める使用人で、多少のことでは動じない30代の落ち着きを纏っている。ちなみに彼は、家事と護衛と主人の世話全般を兼任するスーパー使用人だったりもする。
「おはようサットン。喉が渇いた」
「はいはい。お客様はもういらっしゃっていますよ」
「ん」
そこで初めて、呆けた表情のモニカが赤い瞳の視界に入ることを許された。だがそれも一瞬で、すぐに隣のカイへと移る。
「カイじゃないか」
僅かに目を見開いたバジルは、何かをつぶやきながら後頭部をガリガリと掻く。そのまま客人のいる方へ歩みを進めて、テーブルを挟んだ向かいのソファに座った。
「バジル様こんにちは。また夜更かしですか?」
「おはよう。カイは朝から元気そうだな。隣の女性は友人か」
「もう昼ですよ。それに手紙でお伝えしたじゃないですか、王都でお世話になっているモニカさんです」
カイに紹介されたモニカは、ソファから立ち上がって礼の姿勢をとる。
「モニカ・ブリッジズと申します。今日は訪問の許可をいただき感謝します」
「そうだ、聞いていたんだった。バジル・ホワイトだ。よろしく、ブリッジズ嬢」
「よろしくお願いいたします、あの、モニカとお呼びください……」
まさか男爵家当主ともあろう人が寝起きの状態で現れるとは思わなくて、モニカは妙な緊張感に苛まれていた。再びソファに腰かけ、下手に動いたら狙われる小動物になった気分で口をつぐむ。
「失礼いたします」
サットンの運ぶグラスが主人の前にそっと置かれる。バジルはマナーも何もなくグラスの水を一気に飲み干した。
白い喉仏が客人の前へ晒される。
モニカはついそれを凝視してしまった。
離れの邸宅は想像以上に手狭そうで、部屋数も少ないのだろう。客人を居間に通すしかない事情はよく分かる。それにお邪魔しているのはモニカのほうだ。
そうは言っても、この状況はどうだ。
思いもよらない人格だ。
没落して地位も名声も無いに等しいとはいえ、目の前にいるホワイト男爵家当主は、取り繕うことを放棄しすぎている。
「バジル様。モニカさんにはストーカーの件で相談に乗ってもらってるんですよ」
空気を読んだのかどうなのか、口数の減ったモニカをカイがフォローした。
それを聞いたバジルは片眉を上げ、不思議そうな表情をする。
「なんだ。あれはストーカーじゃあないぞ」
「へ?」
(え?)
カイの間抜けな声とモニカの心の声がシンクロした。2人とも『何を言ってるんだろうこの人』という正直な気持ちが顔に出てしまっている。
「知らなかったのか」
「ええ……。知りませんよお……。どういうことですか? どうしてバジル様がそんなこと分かるんですか」
カイは恨めしそうに責め立てる。それもそうだ、とモニカは思う。お金を払ってまでモニカに依頼しているのだ。そんなにあっさり解決できるのならまったくの無駄金である。
「手紙を書いてくれただろう? 3日前に届いたカイの手紙だ。それを読んで分かったんだ」
「それだけで?」
「1つの結論を出すには充分な内容だったぞ」
「それは、ストーカーのことをまあまあ詳しく書きましたけど……」
手紙の内容が的確だったと褒められた気がしないでもないカイは、何とも言えずに肩を落とし息を吐く。少し落ち着いたようで、今度はモニカの方に顔を向けた。
「あの、モニカさん。すみません……」
「え、あ、大丈夫です」
モニカの口から反射的に言葉が出た。何が大丈夫なのかは分からないが。
「モニカさんから聞いた話もあわせて、バジル様に手紙でお知らせしたんです。あの、ストーカーの贈り物のパンのこととか」
「そうだったんですね」
「『ムギの家』のことは先月バジル様と話していたことだし、関連があるのかなと思って」
「はい、私もそのお話で気づいたというか……。実は、ストーカーに関してはですね、すでに予測がついています」
「えっ、モニカさんも分かったんですか?」
まんまるな琥珀色の目を見つめながらモニカが頷く。
「ただ確証はなく。ですから今日は、ホワイト卿へ確認したいことがあったのです」
話の流れで、自然に本題へ移ることができた。モニカは気を引き締める。これから対峙する相手は、その辺にいる貴族とは色々な意味で毛色が違うのだ。気分は猛獣使いである。
退屈そうにあくびをしていた猛獣が、目尻に涙をためてモニカを見た。
「確認したいこと? 僕に?」
「はい。よろしいでしょうか」
ソファにぺったりと背中をつけたバジルは、ネグリジェの中で脚を組んで、半眼でモニカを見遣る。
「もし君が僕だったら、確認したい内容が分からないまま安易に頷けるのか?」
「……それは杞憂かと。大した内容ではありませんし、利害もありません」
「ならばいいだろう。話せばよかろう」
ようやくお許しが出た。宥めるのが面倒だ、とモニカは思いながらなるべく事務的に話を切り出す。
「"ストーカー"は王都の騎士で、ホワイト卿のお知り合いですか?」
「僕は知らない。だがサットンの知人ではある」
「ではホワイト卿は最近、カイさんに『ムギの家』のパンを贈りましたか?」
モニカの問いに、バジルは毅然と言い放つ。
「贈ったが、僕は『ムギの家』がどんな店なのか知らなかった。それが誤解の元の1つだ。ストーカーはストーカーではなくサットンの知人の騎士であることも分かっている」
ホワイト男爵家は古くからの地主で脈々と血筋が続く。そんな由緒正しい田舎貴族であるバジルは、王都の『ムギの家』が庶民に愛される激安店だと知らないまま、故郷を離れて自活する友人へ"プレゼント"するよう使用人に頼んだのだ。
「使用人のサットンさんが、知人である王都の騎士様にパンの件を頼んだということで合ってますね? 噂によると騎士様は相当苦労して依頼を全うしたようですよ」
噂とは、ルーカスから聞いた『ムギの家』で起きた珍事件のことだ。バジルの気まぐれで、庶民のパンを贈答用に包装してもらう使命を負ってしまった王都の騎士。バジルに詳細を聞かせたらどんな反応をするのだろう。聞かせる勇気もないのに、モニカは好奇心を疼かせた。
「ーー待ってくださぁい!」
ずっと黙っていたカイが、困惑に満ちた声で乱入する。
「えっと……。ストーカーはストーカーじゃなくてサットンさんの知り合いの騎士様で、あのパンはバジル様からのプレゼント? それなら、どうして送り主の名前やメッセージがなかったの?」
聞かれるだろうと予想していたモニカは、用意していた答えを返す。
「何故でしょうね。単純にメッセージカードを付け忘れたか、わざと付けなかったか、ちゃんと付けて置いたのに誰かに取られたか。たとえば猫の仕業かもしれませんし」
色々なパターンが考えられるが、仄かにパンの香りがするカードを野良猫が咥えて行った可能性もゼロではない。
「あ、猫たん……」
カイは、自分の部屋にやってくる猫に思い至る。
「贈り物のことは、まあ、モニカさんのおかげで大体分かりました。でもストーカーみたいことを他にもされたし、その王都の騎士様にとっても不信感があるんですけど……」
カイが口を尖らせて、モニカの方へ身を寄せてきた。腕に縋る体温と見上げる瞳に加護欲を刺激される。ああこうやって甘えれば良いのか、と頭の片隅で思いながら、安心させるようにモニカは微笑む。
「カイさん、これは私の想像なんですけど」
モニカは言葉を区切ると、サットンに目を向ける。彼は少し離れたところに立ち、しかしきちんと耳を傾けていた。
「知人であるサットンさんにお聞きすれば真偽は分かると思いますが、王都の騎士様はホワイト卿に憧れているのだと思います」
「バジル様に憧れてるの? 直接の知り合いじゃないのに?」
カイが眉を寄せて首を傾げた。
「サットンさんを通じてホワイト卿のことを知ったのでしょう。憧れというものは一方通行になりがちなものなのです。切ないですね」
しみじみとした口調でピュアなカイを諭していると、バジルが声を上げた。
「サットン! 何か知っているか?」
張りのある声に従うように、全員が揃ってサットンの方を見る。サットンはその場に立ったまま注目を受け止めた。
「恐れながら、はい。モニカさんのおっしゃる通りかと存じます。イーノク・ウォールデンは、バジル様に憧れております。盲信と言っても良いかもしれません。ですから、本人に聞いた訳ではないので私の想像になりますが……、バジル様が贈り物をすると知って、カイさんに嫉妬したのではないかと」
ストーカー改め王都の騎士はイーノク・ウォールデンというらしい。モニカは脳内のメモ帳に最新情報をインプットする。
「騎士様の行動から導き出される性格とサットンさんの証言を加えれば、つまり"バジル様が好意を寄せる相手を見定めてやる"といったところでしょうかね」
「ええ……、なにそれ……」
イーノクに嫉妬されているかもしれないカイはドン引きしている。本当にそうだとしたら完全にもらい事故だ。
モニカは続けて、可能性と想像の話をカイに伝える。
「イーノク卿はカイさんのことを男の子だと勘違いした可能性が高いです。だから余計に拗れたというか。"バジル様は美少年が好きなのか?"とか、"バジル様は美少年に騙されてる?"とか、"バジル様に好かれてるのに女を侍らせやがって"とか、あらゆる勘違いを重ねて暴走したのかもしれません」
「なにそれこわい……。じゃあ髪を触られたのは何だったの?」
すっかりカイは怯えていて、いつの間にか砕けた口調に変わっている。横からぴったり引っ付いてくるので、頬に当たるミルクティ色の髪がくすぐったい。
「そうですね……。ウィッグかどうか確かめようとしたのかも。つまり男装を疑った可能性です。"バジル様の好きな相手がせめて女性であってほしい"といった男性のファン心理は珍しくありません」
モニカは思いついたことをそのまま口にした。
するとカイの表情に呆れが浮かぶ。
「男装は当たらずとも遠からずだし、私は女ですけどね……。バジル様の相手が女性なら嫉妬しないってこと?」
「はい。あの、恋愛やファン心理に限らないんですが……。多くの男性は男性に嫉妬しますし、女性は女性に嫉妬しますよね。それと同じです」
「あ!なるほど。同性だから比較しちゃうんだ」
感心したように頷いているカイ。彼女の柔らかい髪を、モニカはひとすくい指に取り、さらりと離した。
「もしくは……、単純にカイさんの髪に触りたくなったのかも」
ひえっ、とカイが声を上げる。ここまでくると怪談話だ。事実は本人しか分からない。
「あくまで可能性の話ですよ。でもすみません、怖がらせちゃって」
女子同士で戯れていると、バジルが席を立った。ナイトガウンのサイズがまったく合っておらず、ビロードの裾を引きずって歩く。
こちらに近づいてくる人を、モニカはソファから見上げた。彼の身長は170センチくらいだろうか。ぶかぶかで流行遅れのデザインのナイトガウンは、もしかしたら彼の亡き父親のものかもしれない。
モニカが勝手に想像して思いを馳せている間に、バジルはソファの横まで到着していた。
「ああそうか。付け回しているうちに、イーノク・ウォールデンはカイを気に入ったのかもしれないな」
「バジル様までそんなこと言う……」
「ははっ、冗談だ」
悪気を見せずに笑いとばしたバジルは、カイの側の肘置きに腰掛けてミルクティ色の頭に手を伸ばす。そして天使の輪ができている髪を優しく撫でてあげながら、息をひとつ吐いた。
「まったく……。サットンはイーノク卿とやらに一体どんな頼み方をしたんだ」
少し責めるような主人の言葉に、サットンは眉を下げて苦笑いする。
「いえ、私も無理に頼んだ訳ではなく、パン屋の場所を聞きたかっただけなのです。しかしイーノクの方から『代わりに買って届けるから任しておけ』と申し出が」
「お前が悪い。カイの個人情報を中途半端に渡したのがいけない」
「反省しております」
サットンは音もなくテーブルのそばまで近づくと、カイに頭を下げた。
「カイさん、申し訳ありません」
突然の謝罪に驚いたカイは、モニカに縋っていた手をそっと解いて立ち上がり、サットンに歩み寄る。
「気にしないでください。バジル様の言うことは放っておきましょう。サットンさんは悪くないですよ」
「カイさんにそう言ってもらえると嬉しいですね。ありがとうございます」
カイが照れたように笑い、サットンもにこにこしている。あっという間に2人の周りだけほのぼのとした空気が出来上がっていた。
置いてけぼりを食らったバジルは、ソファの肘掛けに座った体勢のまま、肩をすくめて少しだけ眉尻を下げた。その様子をこっそり見ていたモニカと目が合う。
すっかり油断していたモニカは不意打ちの視線にたじろいた。
ソファの端からただ見下ろされているだけなのに体がこわばる。くたくたになっているネグリジェの皺のディテールや、黒い髪が肩から流れる瞬間を目で追ってしまう。
「なんだモニカ嬢」
怪訝な声だ。モニカは我に返り、乾いた喉をこじ開ける。
もうひとつの謎を確かめられるチャンスがこの瞬間かもしれない、と身の内から急かしてくるのは己の声。もしここで冷静さを取り戻してしまったらモニカは余計な口を聞けなかっただろう。
「あの、まだお聞きしたいことがあります。デイジー様とベンジャミン卿のーー」
「何故君に話さねばならないのか」
最後まで言い切ることを許されずに、バジルの硬い口調が遮った。
モニカはめげずにルビー色の瞳を見つめる。今すぐ逸らしたい衝動を抑えながら。ヘビににらまれたカエルが生き残るには、ぎりぎりまで動かないことが最善なのだ。
「ーーバジル様、モニカさんを庭にお誘いしたらどうですか? 今は明るい色の花が咲いて綺麗ですよ」
唐突に、カイの声がモニカの願いをすくい上げた。
目を向けると、彼女はいつの間にかテーブルの向こう側に移動しており、少し前までバジルがいたソファにちょこんと座っていた。
「私、王都の騎士様のことを事情聴取したいのでサットンさんを借りますね。ストーカーが誤解だとしても色々こわいことされたし……。庭は2人でどうぞ」
カイを一瞥したバジルが「しかたない」とこぼす。どうやらカイの言うことならきくらしい。了承の意思を示して立ち上がり、ドアの方へ歩き出す。
「サットン。着替え」
1つ単語を発するだけで簡単に叶うと思っている。没落してもなお尊大な人格だが、サットンにとっては些事であるようだ。
「楽な服にしておくれ」
「はいはい」
『返事は1回』などと、くだらないことは一切言わない。
着替えに戻るバジルのそばで嬉しそうに働き始めたサットンの姿を、モニカは解せないまま見つめていた。
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