静かな教室
ロッドユール
静かな教室
「志保?」
彼女の記憶は、僕もほとんどなかった。その名前を母に言われてもすぐには顔が出てこなかった。
やっと思い出したその顔は、騒がしい教室の片隅でふと見ると、静かに窓際の自分の席に座っている、そんなポラロイド写真を何枚か撮ったような断片的な静止画のような記憶だった。そういえば僕の中の記憶では彼女はいつも窓際の席に座っていた。
僕が高校を卒業して二年目、一年半が経った頃だった。そんな彼女が突然死んだと母から聞かされた。
自殺だった。
そのことに僕は、正直あまり驚かなかった。今の世の中ではあまりにありがちな話だったからだ。
「そうか・・」
僕の口から出た言葉はそれだけだった。
彼女は、クラスでまったくと言っていいくらいしゃべらなかった。ほぼ一日、一言もしゃべらなかった。彼女の声を聞いた記憶がないし、しゃべっているところを見たこともなかった。先生たちでさえ気を使って授業中にあてなかったくらいだ。もちろん友だちも一人もいなかった。
彼女の亡くなり方が亡くなり方だけに、あまり、そのことは表に出されることはなく、彼女の教室での存在のように静かに、ひっそりとその葬儀は行われた。田舎の地方新聞の訃報欄にも彼女の死は載ることはなかった。多分、彼女の遺族がそれを望んだのだろう。
だから、ちょっとした噂でさえ、その広がりは光よりも速い田舎町にあって、彼女の死はほとんど知られることがなかった。
僕が彼女の死を知ったのは、彼女の母親とうちの母親がたまたま中学時代の同級生だったからだ。それで、僕は母経由でたまたま知ることになった。それだけだった。
「久々に集まろうぜ」
仲のよかった同級生からの誘いだった。クラスの主要なメンバーの集まる軽い同窓会。
その日の夕方、買ったばかりのスポーツカーで僕は出かけた。まだ去年免許を取ったばかりで、若さもあり車を運転すること自体が楽しく、僕は意気揚々と運転しながら会場の駅前の居酒屋へと向かった。
「・・・」
国道を曲がり、県道に入った時だった。ふと歩道を見ると、今日もそこを北沢君の二番目のお兄さんが歩いていた。
北沢君のお兄さんはいつもなぜか、毎日のように同じ道をだいたい同じ時間帯に歩いている。目的がなんなのか、どこへ行くのかは分からなかった。ここは彼の自宅からは、歩くにはかなり遠く離れた場所だった。彼はその道をいつも一心に何かに向かって歩いていた。それは目的地を目指すというよりは何かを求めてといった歩き方だった。でも、彼が何を求めているのかは分からなかった。
彼は右足が悪く、いつも足を引きづるように独特な歩き方で歩いていた。そして・・、
そして、彼はどこかおかしかった。見るからに・・。見るからにどこかがおかしかった。
小学生の時、同級生だった北沢君のうちに遊びに行った時はあんなではなかった。ちゃんとした人間で、普通の人間だった。足を引きづることもなかった。
「いじめらしいぜ」
噂で、そんな話を聞いた。でも、詳しいことは分からなかった。
「おうっ、久しぶり」
「お前変わんねぇな」
「お前もだろ」
高校を卒業してまだ二年目の一年半しか経っていないまだ十代の面々。社会に出て急に大人っぽくなった奴もいるが、大抵はまだ高校時代と変わらず子どもだった。
酒も進み、様々な近況に話題が盛り上がる。だが、やっぱり誰も、彼女の死のことを知らなかった。というかそれ以前に彼女のことは話題にも出なかった。彼女の存在自体をみんな忘れていた。僕自身でさえ忘れていたのだ。それが当たり前だった。
僕は会えて彼女の死のことは言わなかった。あまりにもそんな人のそんな死だったから、それを敢えて言葉にして、正にそんな人にしたくなかった。あまりにも、彼女の死はそんな結論過ぎる。そんな、何に抵抗しているのか、確たる揺るぎないはずの事実に反抗的な態度を僕はとった。
「おい、民生、お前二次会行かないのかよ」
駅前の居酒屋を出てから同級生たちが僕を見る。
「ああ、今日は帰るわ」
いつもは二次会、三次会と最後までつき合うのだが、今日はなんだかそんな気がしなかった。酒を飲んだ僕は、駅前の駐車場に車を駐めたまま、一人、そのまま家に向かって歩き始めた。
「・・・」
田舎町――、もう深夜を回った音のない夜。その静寂の空気の中をほろ酔い加減で一人で歩く。
正直彼女の死のことを考えても何も感じなかった。悲しくもなかった。それくらい、同じクラスにいながら彼女は存在感がなく、関係性がなかった。
でも・・、
でも、何かが引っ掛かっていた。
僕は静かな夜空を一人見上げた。そこはきれいに晴れ渡り、雲一つなく星々が並んでいた。
小学校四年生の時だった。一、二、三年と変わらず同じクラスだったのが、突然、その年の始めにクラス替えがあり、クラスメイトが変わった。そして、今ではなぜそうなったのかあまり思い出せないのだが、僕はクラスの中で孤立する。
クラスの中心的人気者の中村君になぜか嫌われていたのだけ覚えている。それが原因だったのか、それ以外に何かあったのかは分からない。とにかく僕は、クラスの中で孤立していた。僕はクラスの中でたった一人、まさにたった一人だった。確か三十四人か五人はいたクラスの中で、僕は誰も友だちがおらず話す相手すらがいなかった。休み時間に一人机に座るその時間の長さを今も覚えている。たった十分が永遠のようだった。だが、みんなが誰かと楽しく話をしたり、寸暇を惜しんで体育館に遊びに行く中、静かに僕は一人そこに座り続けるしかなかった。時々、クラスの女子たちが、そんな僕を見てクスクス笑っていた。
惨めだった。恥ずかしかった。堪らなく寂しかった。堪らなく寂しく心細かった。毎日が針のむしろのようだった。
夏休み明け、最初の登校日、鞄を自分の机の上に置いた時のあの鉛のような鞄の重さ。その重さがそのまま僕の絶望だった。あの何とも言えないまったく明るさのないどす黒い絶望感――。それを今もはっきりと感覚として覚えていた。
それは五年になる時にまたクラス替えがあり、解消されたのだが、今もあの時の辛さは、僕の今のこの人格の決定的などこかに残っているような気がする。
僕が大学に行かなったのも、その理由の一つにそれはあるのかもしれなかった。
――リリィシュシュのすべて――
僕はこの映画が好きで、高校時代よく深夜に暗い部屋で一人、ぼーっとその映画を見つめた。そして、なぜか一時期憑りつかれたみたいに何度も何度も繰り返し繰り返しその映画を見た。
この映画を撮った映画監督が、あるネットのインタビューで言っていた。
「悪い奴がいるわけじゃない。ただ、そこに学校があるだけ」
学校という、教室という、クラスというあの多様性のない特殊な閉鎖空間。そこで、醸成される特殊な人間関係と心理状態。特殊な価値観から作り出される特殊なヒエラルキー。そこから生まれる独特の空気。そして、闇――。
それが当たり前と思っていた。でも、それは今冷静に思い返して、やっぱり、どこか不自然で特殊な世界だったのだと、僕は思った。
「・・・」
彼女の死が、他人事でありながら、でも、でもやっぱり、心のどこかで他人事に思えなかった。彼女はやっぱり、僕だった――。
今でもあの四年生の時の記憶がはっきりしない。それ以外の学年の時はそれなりに記憶はあるのだが、四年生の時のあの辛かった記憶だけがすっぽりと抜けたようにほとんどなく、どうがんばっても思い出せなかった。
後に、小学生の時にいじめにあったという、名前は忘れたがあるアイドルの女の子がテレビで、僕と同じ話をしていた。
「その時の記憶がないんです」
彼女は少し首をかしげながら不思議そうに言っていた。人間の心とは不思議とそんな風にできているものらしい。
あの時、僕は教室内でただ一人静かだった。そう静かだった。騒々しい休み時間の喧騒の中にあってでさえ、僕のいる空間だけは静かだった。
僕の存在は封殺されていた。僕はあの時、同じ人間として殺されていた――。
「・・・」
僕は夜空に瞬く星々を見つめる。
世界は広いのに、こんなにも広いのに、なぜ、あの時僕はあの場所から逃げ出さなかったのだろう。どうして別の世界に行くことができなかったのだろう。別の何かに避難できなかったのだろう。催眠術にかかったみたいにそんなことを考えもしなかった。風邪以外で学校を休むことさえしなかった。確か彼女も同じだった。ほとんど休むことなく彼女は学校にほぼ皆勤に近い状態で通っていた。
「・・・」
学校・・、教室・・、あそこはいったいなんだったのだろう。今あらためて考えると、なんだか奇妙な感じがした。
あの場所はなぜ人を殺すほどに追い込んでなお、今もそれは平然と当たり前に存在できるのだろう。社会的な常識として、なぜ今も平然とあり続けるのだろう。
適応できない者にとって、あれほどに残酷で、過酷な場所に人間が一番成長するのに大切な時期を、そこに閉じ込められなければならないその理不尽をなぜ誰も疑問に思わないのだろうか。
なぜ学校に行くことが神の意向でもあるかのように絶対的に正解で、行かないことが、悪魔の所業のように間違ったことなのだろうか。
よく考えれば分からないことだらけだった。
実際にその学校というシステムの流れの延長で人が一人死んでいた。そして、それは多分、彼女だけではないはずだった。彼女と同じ人間は絶対にこの国には他にたくさんいるはずだった。
「・・・」
深夜の田舎町を僕は歩いていく。そこは、世界のすべてがとまってしまったみたいに静かだった。その静寂が、あの教室の静寂と繋がっていく――
――静かな教室。彼女のいたあの場所だけが放つ静寂の中で、その時間は流れていた。そこだけが別の世界みたいに、見えているはずの彼女の姿は誰にも見えてはいなかった。人間が、一人の人間が、そんな存在でいることの悲しみを、惨めさを、苦しみを、誰もが分からないわけのないそんな世界で、でも、彼女はそう存在するしかなかった。
本当は許されるはずのないそんなことが、かんたんに許され、そのことを誰もが疑問にすら思わないその異常さの常態化した異常さの中で、僕たちは生きていた。
そう、僕たちが生きていた世界は、異常な世界だった。毎日楽しく同級生たちとバカ話をし、青春という光り輝く時間の中で、時に恋をしたりもした。でも、その世界は異常な世界だった。そのことをみんな知っているはずだった。知っていながら、僕たちはその異常さに適応していた。
「・・・」
そして、僕たちは今も適応している・・。その学校の延長にあるこの社会の中で・・、関係性の中で・・。
彼女の死は、ただ彼女の死ではない。彼女の死は、ここに生きるすべての心の死なのだ。
僕は家に帰り着くと、家の冷蔵庫に入っていた父親のビールを何本か失敬して飲んだ。今日はなんだか飲みたかった。酒を飲まずにはいられなかった。僕は妙に興奮していた。気が高ぶっていた。
録画していたリリィシュシュのすべてのディスクをデッキに入れる。「校庭が歪んで見えた~♪白い体操着が見えた~♪」
サリューのあの独特のきれいな歌声が僕のこの時の心境にシンクロしたみたいに染み入って来る。それが僕の感情を妙に揺さぶる。
「・・・」
あの時、僕はどうしたらよかったのか。でも、どうしようもなかった。どうしようもない何かがその世界を支配していて、そこから誰も、叫び声さえ上げられない、その行き詰った閉塞の中で、黙って生きるしかしょうがなかった。
「悪い奴は誰もいない」
そう、誰も悪くなかった。先生も僕たちも、親たちも・・、彼女自身も――。
だからこそ、だからこそ、それはやるせなく、あまりに理不尽で堪らなかった。ぶつけようのない理不尽を、ヤンキーよろしく、拳に込めてガラスでも割ったら、まだよかったのかもしれない。そこには一応形はあるから。感情の発露はあるから。
僕は二本目の缶ビールのプルトップを開け、飲んだ。
あのポラロイド写真みたいな静止画の中に納まった彼女の顔が浮かぶ。彼女は、これからも、僕の中ではそのままなのだ。変わることのない静かな教室の片隅いるあのポラロイド写真みたいな静止画の彼女なのだ。
彼女は静かなままそこに居続ける。ずっと、ずっと――。
静かな教室 ロッドユール @rod0yuuru
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