第21話「財閥家の矜持」
二階の最奥に位置する重厚な扉の向こう側が、川崎父の書斎であった。
壁一面には書棚が並び、黒檀の机と革張りの椅子が一層この部屋の主の威厳を見せつけるかのようだった。
川崎父は机の椅子に腰かけると、両手を組んで顎の下に置き、対面に立つ雅之を無言のまましばし見据えた。
その圧力がどれほどに感じられたのかは定かでないが、雅之の背筋は傍から見てわかるほどに伸びる。
「まあ、座れ」
「……はい」
雅之は机の前の椅子にぎこちなくも座った。静かな室内に革の軋む音が響き、場に緊張感が漂う。
「説明してもらおうか」
何のことかなど、言わずとも知れた話だ。先ほどの書類のことである。
雅之は喉を鳴らし、視線を彷徨わせていた。うまい言葉を探しても思いつかないのだろう。実際、言い訳の余地などないはずだ。
書斎の空気は一層重くなり、時計の秒針音すら聞こえないほどの静寂が二人の間には広がっていた。
「答えられないのか?」
「っ……」
雅之に突き付けられたのは、先ほどの書類――銀行の明細書のような簡素な文書だった。
そこに記載されているのは、東亜エネルギー関連の海外法人から、雅之の私的な口座へと契約とは無関係の日付で不自然な高額資金が振り込まれた記録だった。
「……お父様。こ、これは……これは誤解なんです」
血の気の引いた顔で、ようやく雅之が絞り出したのは、そんなちんけな言い訳だった。
「誤解?」
「は、はい! 私が東亜エネルギーから金銭を受け取ったことは事実ですが、これは正当な対価なんです! 契約を円滑に進めるためのコンサルティングフィーであり、彼らへの特別顧問料として口座を分け、処理したに過ぎません! いわば、私の優秀な交渉手腕に対する、ボーナスです!」
まくしたてるような早口で必死に弁明する雅之の姿は、滑稽としか言いようがなかった。
川崎父は無言で冷たい視線を送るばかりで、雅之は余計に焦り始めたのだろう。続く言葉は、完全に余計……墓穴だった。
「こ、この金額は、川崎家にもたらすであろう莫大な利益に比べれば、端金に等しいです! この程度の私的な報酬で、私が川崎家の名誉を汚すようなことをするわけがないじゃないですか」
どうにか不正ではないという主張を通し、父の怒りの矛先を逸らそうとしたのだろうが……。
「……端金? この程度?」
川崎父は眉をピクリと動かし、不快感をあらわにした。
まずいと思ったのだろう。焦ったように川崎は口を開いた。
「っ! そ、そもそもです! これは私の個人情報のはず! 誰がこのような嘘の情報をお父様に渡したのですか!? おそらく、川崎家を妬む、他財閥勢力の差し金に違いありません!」
雅之は論点をずらし、情報源の不正を指摘することで、自身の不正を矮小化しようと試みたのだろう。
だが川崎父は、冷めた瞳を携え、静かに、重々しく告げた。
「個人の口座で秘密裏に金銭を受け取ることが、家のためになると考えているのか?」
「そ、それは……」
「雅之。お前のとった行動が、川崎家においてどのような意味を持つかを理解していないようだな」
「っ……」
「お前は、この契約によって既に個人的な利益供与を受けていた。家のために身を粉にしていると私に語ったその舌の根も乾かぬうちに、当主を欺き私腹を肥やしていたんだ」
「だ、だから誤解です! それは、違うんです! 僕は――」
「私が知らなかったとでも思うか?」
「……え」
川崎父の鋭い眼光に、雅之は顔を青くし、二の句が継げなくなった。
それは、知られては困ることがあると自ら白状しているようなものだった。
「雅之。数日後、東亜エネルギーには大蔵省証券局と国税庁の検査が入るだろう」
「っ! な、なぜ――」
余程、想定外の話だったのだろう。雅之は動揺を隠せないようで、勢いよく立ち上がった。
「国防省が、安全保障上の脅威として目をつけた。……と言ってわからない程、馬鹿ではないな?」
「ぅっ……そんな……」
雅之はよろめいた後、視線を彷徨わせるも、何かに気づいた様子でハッと顔を上げた。
「そうだ、千夏だ! お父様! これは、やはり何かの間違いです! 千夏が結婚をしたくないばかりに、国防大付の者たちを使ってでっち上げたに違いないんです! そうだ……千夏が勝手に――」
「いい加減にしないか!」
「――っ」
川崎父は、壊れんばかりの勢いで机を叩き、部屋には乾いた音が響く。
肩をびくりと跳ねさせた雅之は、それだけで借りてきた猫のように小さくなってしまった。
「私は何度も確認したはずだ。大丈夫なのかと。だが、お前はろくな説明もせずに、大丈夫だと言い張ったな? その結果がこれか……情けない」
雅之は視線を地面に落とし、完全に委縮してしまう。
「お前は今まで何かをなしたか? 優秀な社員にすべてを投げて、結果はいつも自分の手柄として驕る」
「それは……」
「会社の経営は、別段問題なかったはずだ。伸びは止まっていたが、時には辛抱し、耐える時間も必要なんだ。だが、覚悟も自信もないから、それができない」
的確な指摘に、返す言葉もないのかと思いきや、さすが雅之と言うべきか、そうではなかった。
「……けど、今までそんなことは教えてくれなかったじゃないか」
ぼそりと、独り言のように、そうこぼしたのだ。
それを川崎父が聞き逃すはずもなかった。
「甘ったれるのもいい加減にしろ!」
「ひっ――」
「お前は社長じゃないのか? 私の指示がなければ動けないのか?」
「で、でも――」
雅之は額に脂汗をにじませながら、内容のない責任転嫁を繰り返そうとするばかりだ。
「そもそも私は何度も、経営状況の実態や、社員の労働環境について、繰り返し確認したはずだ。だが、お前は頑なに私に頼ろうとせず、円滑だ問題ないとそればかりを並べたな?」
「そ、それは……で、でも、僕は千夏と違ってこの家のために……」
「家の為だというのが免罪符だとでも思っているのか?」
「で、ですが! 僕は、跡取りとして優秀な成績を収めてきました! ですから――」
「思いあがるのもたいがいにしろ!」
「っ……」
川崎父の逆鱗に触れたのだろう。
それが一体どこなのかはわからない。複合的な積み重ねで決壊したのかもしれないが、その形相は、今までの冷静さを感じさせないほどに鬼の形相であった。
「これだけは言うまいと思っていたがな、もう我慢ならん。今のお前に川崎家を継げるだけの器はない!」
「で、でもっ! 僕は長男で……」
「長男? 最初に生まれた男だから、何だというんだ」
「え……」
長男という生まれながらの肩書は、雅之が唯一誇れる価値だったのかもしれない。だが、そんなものは存在しなかったのだ。
「寝ぼけるなよ。優秀な血縁者が継ぐのがいつの世も常だ。使い手でさえなかったら、この家の跡取りは、間違いなく千夏だっただろう」
「な……け、けどっ! 僕は今までこの家を継ぐために努力をしてきました!」
「その結果がこれか? こざかしいことばかりを覚えて、肝心のところが何も育っていない! 正々堂々正面からが正義だなどとは言わない。搦手が必要な場面は多い。だが、お前はそれに頼りすぎだ」
「……そ、それは、違っ――」
「いいか。お前は海外事業部の現場に飛ばす」
「え……」
雅之はよろめくと、倒れそうになる寸前でどうにか踏みとどまった。
だが、その思考はすでに最大級のパニックで停止寸前まで追い込まれているに違いない。
「そ、そんな! なんでっ!」
「頭を冷やせ。自らの過ちを理解し、一から鍛え直せ。……それができないならば、貴様など跡取りでも何でもない」
「っ!」
雅之は一歩、二歩と後ずさると、瞳に涙を浮かべて悔しそうに表情を歪め、口を鯉のようにパクパクと滑稽に動かした後、
「くぅっ!」
川崎父に背を向けると走り出し、書斎を飛び出していった。
……いい薬になったことだろう。
川崎父は張っていた肩の力を抜くと、息をゆっくり吐きだしてから背もたれに体を預けた。
「……見苦しいところを見せたな」
「……」
俺は剣を消し姿を見せると、ドア横の壁に預けていた背を離し、川崎父のほうへと歩み寄った。
「気づいていたのか」
「なんとなくだがね」
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