第20話「啐啄同時」
「わかった。なら、思う存分それをぶつけてこい」
「……え?」
「結婚自体への対処は、山下が動いているはずだ」
「っ! じゃあ……」
俺は首をゆっくりと横に振る。
「お前自身の口で伝えることだ」
「っ……そうですね」
これで、後顧の憂いはなくなった。安藤や山下が失敗することなど、万に一つもないだろう。あとは、吉報を待つだけだ。
「じゃあ――」
俺はこれで。
見つかる前に、ちゃっちゃと窓から出ようとした、その時だった。
荒々しい足音が部屋に近づいてきて、ドアが開け放たれる。
「さっきからうるさいぞ。一体何事――」
怒りを露わにした鋭い声の主は雅之だった。
「っ……お兄、ちゃん」
川崎は、振り返って雅之の姿を確認すると――条件反射なのだろうが、一歩後ずさってしまっていた。
だが、雅之の視線の先には、川崎ではなく俺がいる。
「桐原真輝……どうしてお前がここにいる」
「愚門だな。友人の家に尋ねてくることの、どこに不自然な点がある?」
「私がお前なんぞに川崎家の敷居を跨がせるわけがないだろう! 不法侵入したんだな!?」
「……」
まいったな。これが、事実だから何も言えん。
「千夏! 直ちにこの男を追い出せ! でなければ、家長の許可なく敷地に侵入したんだ……通報してもいいんだぞ!」
「っ!」
川崎は振り返ると、不安げに俺を見上げてきた。
いろいろと決意は固めたものの、こんな突発的状況をどうにかしろってのは、酷だろう。
とりあえず、この場をやり過ごせれば、それでいい。
俺は、そう思って口を開きかけたのだが――
「お、お兄ちゃん」
川崎は、俺の背後に隠れるでもなく、うつむくでもなく、顔をしっかりと上げて雅之を見つめていた。
「千夏。僕の言ったことが聞こえなかったのか?」
「っ……聞こえて、た」
「なら、早くしろ」
「っ――」
川崎はうつむきそうになるも、必死に首を横に振り、毅然とした態度を見せた。
「お友達だし、仲間だから……そんな風には、できないよ」
「……千夏。僕が優しく言っているうちにいうことを聞け。これは、千夏の為でもあるんだ。嫁入り前の娘が、夜な夜な自室で逢引きしていたなど、世間に知られたらどうなる? 今回の結婚だって――」
「嫌なの!」
「……は?」
「私、結婚しない!」
「……何を言っている」
「っ!」
川崎の肩がびくりとはね、言葉に詰まってしまう。
雅之は怒りをまるで隠すことなく、まっすぐに川崎を睨みつけた。
今までは、僅かばかりでも繕っていた人格者の仮面が、見事に剥がれ落ちていた。
……見てられねぇな。
「おい。お前、耳鼻科に行った方がいいんじゃないか?」
「……は?」
「いや、聞こえなかったんだろ? 結婚したくないってさ」
「聞こえていたさ! だから、ふざけるなと――」
怒り心頭で爆発寸前といった様子だった雅之の背後から、
「……一体、何の騒ぎだ」
重く低く威圧的なオーラさえ感じる声が聞こえ、雅之の体が固まる。
そこにいたのはワイシャツにスラックス姿の中年男性で、ガタイのいい体躯とオールバックにした白髪交じりの髪が特徴的な人物だった。
「お父さん……」
川崎の消え入りそうな声で、俺はこいつが川崎の父だと理解した。
静かだが、有無を言わさぬ威厳を纏っている。表情からは感情を一切読み取ることができない。
これは、川崎が縮こまる理由もわからないではないな。
雅之もしばらく戸惑ったようにしていたが、すぐに背筋を伸ばすと、取り繕うように話し出した。
「お騒がせしてすみません。ですが、ここに不審人物がいたものですから」
「そうなのか?」
川崎父は、雅之に対して聞き返すのではなく、川崎に対してそう言った。
「……え」
まさか、自分に振られるとは思っていなかったのだろう。
川崎は、戸惑った様子を見せていた。
「千夏。そうなのかと、聞いている」
川崎が即答しないのを良いことに、雅之は得意げに口角を上げた。
「お父様。ですから――」
「雅之。お前には聞いていない」
「っ……はい。失礼しました」
……。この状況なら、雅之の言に耳を傾けてもおかしくはないはずだ。
だが、そうしないということは……こいつ、俺と川崎の関係を知っているのか?
「き、桐原さんは……私のお友達です」
十分な間がとられたからか、川崎はようやくそれだけを絞り出した。
「そうか」
だが、まるで関心がないというように、川崎父はそっけなくそれだけ返す。
これに慌てた様子を見せたのは、雅之だった。
「いえ、お父様。理由はどうあれ、不法侵入――」
「くどい。私は、そうか、と言ったんだ」
「っ……申し訳ありません」
川崎父は、この家において絶対的な存在なのだろう。
白いものでも黒いと言えば、それがまかり通るほどに。
そしてきっと、川崎の友人関係にさほど興味がないのかもしれない。
……にしたって、こんなにも無関心なことがあるか?
「それより、雅之。お前は私に、東亜エネルギーとの契約が川崎家にもたらす利益に関して、もれなく報告をしているはずだな?」
「え? は、はい……」
「抜けも不正も、ないんだな?」
「……ええ、もちろんです。全て合法的な手続きを経ており、膨大な利益と、今後の軍需産業における主導権を確保する最良の策だと、私は確信しております」
僅かに戸惑いながらも雅之は自信ありげに、胸を張って答えていた。
それに対する返答であるかのように、川崎父は胸ポケットから折りたたまれた一枚の紙を取り出すと、雅之に差し出した。
「この文書に覚えはあるか」
川崎父が広げて見せたその用紙を目にした瞬間、雅之の顔から血の気が引いていくのがはたから見てもわかった。
一瞬にして自信の色は消え失せ、瞳は動揺に大きく見開かれている。
「こ、これは……っ」
雅之は唇を震わせ、明らかにたじろいでいた。
もしかして……山下が何か手をまわしたのか?
「雅之、話がある。来い」
「っ……はい……」
想像だが、今晩の川崎とのやり取りの裏で、事態を好転させようと山下が動いたのだろう。とはいえ、俺に事前説明がなかったところを見ると、山下の知らないところで動きがあったとみる必要があるな。
……懸念は一つ。川崎が自分の気持ちを言葉にする前に、事態が進展してしまう恐れがある。
今の川崎なら、そのあとでも自分の意思を貫くことはできるかもしれないが、あの父に対して自ら意思表明をしに行くことは、難しいだろう。
とはいえ、川崎の気持ちがしっかりと固まったのも事実だ。事態が早急に収束するに越したことはないだろうし、これが最善だったんだと思うしかない。
仕方がない。俺はそう思っていたのだが、部屋から出て行こうとする川崎父に対して――
「お父さん!」
川崎は、勇気を振り絞った様子で呼び止めていた。
「なんだ?」
立ち止まった川崎父はこちらへ振り返ってくる。
鋭い眼光を向けられ、口をぎゅっと閉じた川崎だったが……そこで、折れはしなかった。
「私。さっき……お夕飯の時ね……嘘をついたの」
「……嘘?」
「うん。……私、本当はこんな形で結婚なんてしたくない。私は、川崎家の娘として、胸を張れるような立派な使い手になるって、そう決めたの。だから、その……」
弱弱しく、視線を彷徨わせながら、それでも川崎は自らの本心をぶつけて見せた。
これに、即座に反応したのは雅之だった。
「千夏! この期に及んで――」
「そうか」
川崎父のたったそれだけの一言が、この場を支配した。
雅之の言葉を遮り、有無を言わさぬ気迫を感じさせた。
「……勝手にしろ」
吐き捨てるようにそういうと、川崎父は背を向けて部屋を出て行った。
悔しそうに顔を歪めた雅之が、俺を睨みつけた後出ていくと、部屋には俺と川崎だけが残された。
「……桐原さん。これで……良かったんでしょうか……」
「ああ、いいだろ」
言いたいことは言ってやったんだ。あとは、なるようになるさ。
まだ、一件落着とはいかないかもしれないが、ひとまずは安心してもいいかもしれないな。
「あ、桐原さん。帰る時は玄関から……」
「ああ。……いや」
さっきの雅之のあの反応……。確認する必要が、あるかもしれない。
「悪い、川崎。野暮用ができたみたいだ」
「え?」
「もう少し、邪魔するぞ」
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