第18話「すれ違う想い」

 八月は日が長いが、ちょうど暗くなってきたそんな時間。俺は高崎市石原町の高地に広がる高級住宅街に来ていた。


「これは……」


 山下が、探さなくてもすぐにわかると言っていたが、確かにその通りだった。

 周囲の家々も立派な造りではあるが、その中心に構える邸宅は一際大きく、絶大な存在感を放っている。それが、川崎邸で間違いないだろう。


 こんなところに侵入するなんて、俺も焼きが回ったんじゃないかと思えてくるが、やるしか道はないのだ。

 今日の天気は絶好の曇りだった。今回の侵入には光学迷彩に近似した能力の剣を使用する。あまり月明かりに照らされてしまうと、影で俺の侵入が露呈しかねないから都合がよかった。


「……さて」


 事前に山下から聞いていた通り、屋敷の周りには身長よりも高い白漆喰の塀がそびえたっていた。おそらく、三メートルくらいはあるんじゃないだろうか? 上部についている槍のように突き出した黒鉄の格子は、装飾兼防犯用といったところだろう。

 殺傷能力はともかく、黒であることによって視界に映りにくいのは注意が必要だな。


 そう監察しつつ、俺は塀の周りをゆっくりと歩いていく。

 数人の警備員がいると聞いていた。それがどの程度の頻度でどこを歩っているのかを把握するため、耳を澄ます。

 直美に教わった五感を最大限活用する技は、こうした場面でも有用だ。

 川崎の部屋は建物の二階東端に位置する部屋。侵入経路は、その南向きに設けられた窓だ。


「……」


 塀から少し離れ、目的の場所を視認する。

 ……あれだ、間違いない。

 電気はついていないな。誰もいないのだろう。余計に好都合だ。

 俺は感覚をさらに研ぎ澄ませるために、瞳を閉じて剣を顕現すると同時に塀の影に紛れて姿を消した。

 足音は数十メートル先に三。付近に人の物音なし。


 ――今だっ!


 俺は、軽い助走をつけると地面を蹴り、勢いよく跳躍した。

 塀を難なく超えた俺は、軽快に宙を舞うと、そのまま窓枠に指先をかける。と同時に肩と腕に力を込めて体を沈め、足裏を壁に沿わせて摩擦で勢いをそいだ。

 窓枠に体重がかかってしまったため、木製ゆえの軋む音が僅かに響いたが、それ以外は夜風に紛れて誰の耳にも届いていないだろう。


 とにもかくにも、このままここにいるわけにはいかない。

 不自然な影ができてしまっているだろうからな。早急に部屋の内部に入る必要がある。

 だが、焦りは禁物だ。俺は慎重に窓を押し開けていく。抵抗はない。

 どうやら、山下の根回しが上手くいったようだ。……ここでうまくいってなかったら、トンボ返りする羽目にもなりかねなかったからな。一安心だ。

 開けた窓の向こうから、ジャスミンの匂いがふわりと漂った。


「っ!」


 雲の合間から月光が僅かに差し込んでくる。間の悪い奴だ。

 俺は床に細く落ちた影に自らを重ねるようにして室内へと身を滑り込ませると、そのままの流れで丁寧に窓を閉める。


「ふぅ……」


 一先ずの安堵とともに息を吐いた。とりあえず、誰にも見つからずにこうして入ってくることはできた。あとは、ここに川崎が戻ってきてくれれば問題ない。

 川崎家はこのくらいの時間に夕飯をとっている……というのも山下からの情報なんだが、あいつのはもうストーカーなんじゃないかと思えてくるレベルだな。


「っ……」


 などと思っていると、ドアが開いた。

 誰が入って来るのかと身構えていると、やって来たのは川崎だった。普段のイメージからはかけ離れた、いかにもお嬢様といった格好で、家の中だというのに淡いクリーム色のワンピースに身を包み、胸元には小さなブローチが光っている。

 川崎は部屋の電気をつけることすらせずに、ふらふらとベッドまで移動すると、脱力するように腰掛けた。


「仕方、ないよね」


 月明かりで淡く照らされた川崎の横顔には、ハッキリ見て取れるほど疲労の色が滲んでいた。

 自嘲気味な笑いも、あまりにも痛々しすぎて俺のほうが胸が締め付けられるようだ。


「大丈夫。だって、結婚は形だけだもん……」


 そう言葉にした途端、川崎の頬を涙が伝う。

 大丈夫なわけがなかった。俺は剣を消すと同時に、ただ、思ったままを口にしていた。


「大丈夫じゃねぇだろうが」

「っ!」


 顔を上げた川崎が、驚いたように俺のほうを見てくる。


「き、桐原、さん……?」


 山下が来たと思ったか? 残念ながら俺なんだ。

 まあ、今は俺で妥協してくれ。

 川崎のほうへと歩み寄ると、俺はまっすぐ瞳を見つめた。


「悪いな、俺で。けど、どうしてもお前と話がしたかった」

「え?」

「川崎。お前の本心を聞かせろよ」

「っ……」


 川崎は、わずかに逡巡したかと思うと、ゆっくりと、絞り出すように言葉を口にした。


「今は……家のために、私ができることがあるなら、それでもいいかなって思ってるんです」

「……」


 それは、あきらめからくる自分を納得させるための嘘だろ? そうじゃなきゃ、夏休み前のあの日、俺に助けを求めてきたりはしないよな?


「それが……本当に本心か?」

「はい。だって、それが一番、誰も嫌な思いをしなくて済むじゃないですか」

「っ……」


 何言ってんだこいつは。誰も嫌な思いをしなくて済む? 山下は? 春花は? 沢渡や、他の奴らの気持ちはどうなる? お前のことを思って、悩んで怒って、苦しんだ奴らの気持ちはどうなる? 

 ……それに、なにより………誰よりおまえ自身が、そんなにもつらそうな目をしてるじゃねぇかよ。


「ふざけんな」

「え?」

「お前、いつだか言ったよな? 山下に甘えず、しっかりと自分の足で立つために努力するって。あれは、嘘だったのかよ」

「そんな、嘘じゃ――」

「理不尽を我慢して受け入れるほど、お前は自分を殺せないだろうが。それともこれで、山下が喜ぶとでも思ってんのか?」

「っ……」


 視線を逸らされた。……こんなこと、俺の口から言われたくはないだろう。それでも、ここで立ち止まっちゃダメなんだ。

 人生どうにもならないことなんて五万とある。けど、なにもせずに諦めるのは違うんだよ。


「……川崎。甘えるのと頼るのは違うんだ。ただ一言、一緒に戦ってくれとなぜ言えない? お前は、俺たちのことをその程度にしか思っていないのか?」

「! ……違っ――」

「なら、言えよ。言ってくれよ、本心を」


 納得いってないくせに、あきらめるのが正解だって、なんで思っちまうんだ。

 確かに今回の件は、何もしなくたって解決はするかもしれない。けどな、それじゃダメなんだ。

 そうなったとき、お前は絶対に後悔するだろ? また自分は何もできなかったって自分を責めるだろ? それがわかってて、放置するなんて出来ねぇよ。


「お前がここで妥協して結婚することなんて、俺は望んじゃいない。山下だってそうだ。にもかかわらず、それでもまだ、それが最善だって言うのかよ」

「っ……それは……」

「なんとか言えよ」


 川崎。自分の可能性をあきらめないでくれ。思考を止めて、あきらめてしまったら、その先はないんだ。

 俺の想いは、川崎にどう映ったのだろうか。

 拳を握り、唇を噛みしめた川崎は――顔を上げると俺のことを鋭く睨んでいた。


「だって無理じゃん! どうにもできないじゃん! 諦める以外に何ができるの!?」

「……川崎」

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