第17話「冷えた晩餐」

 黒檀調の長いテーブルに白磁の器が整然と並び、料理は和洋折衷の品々が静かに湯気を立てていた。

 川崎父は上座に座り、背筋を伸ばしたまま黙々と箸を進めている。表情は硬く、何を考えているのかは一切うかがえない。だが、川崎千夏にはその沈黙こそが場の空気を支配しているように思えてならなかった。


 母は父の隣に控え、いつものように微笑みを浮かべている。だが、その笑顔が張り付いた仮面のように千夏には映っていた。

 斜め前に座る雅之だけが、この場において浮いた存在であり、スーツ姿のままワインを片手に得意げな笑みを浮かべている。


「先日報告しました東亜エネルギーとの件は順調です。これで、海外にも事業拡大が見込めましたし、利益も莫大ですよ」


 自信に満ちた口調で語るその姿は、まるで勝利を確信したようだった。父は答えることなく、フォークで刺したステーキ肉を口へと運び咀嚼するだけだった。

 末席に座る千夏は、視線を落としたまま小さく箸を動かすことしかできずにいた。


 料理の味を感じる余裕はなく、兄の声にただ身を縮め、話がふられないことを必死に願うだけである。

 そんな心中を知ってか知らずか、母が心配そうに口を開いた。


「千夏? 具合が悪いの?」

「え? あ、ううん。違うよ」


 咄嗟に返した千夏に対し、兄が困ったように肩をすくめて見せた。


「もういい歳なんだからさ、お母様に対する態度も相応に上品なものにしたほうがいいと思うよ? いつまでもそう子供のようでは、先方との顔合わせの時にどう思われるか」

「……ごめ――すみません」

「私は千夏の為を思って言っているんだ。わかるだろう?」


 一対一で千夏と話していた際の一人称は僕であったが、雅之も父の前ではすっかり猫かぶりである。ゆえに、千夏は不満を覚えたが、それを口にできるほどの勇気はなかった。


「雅之」

「はい。なんでしょう、お父様」

「今は家族のみの夕飯だ。そのくらいにしておけ」

「それもそうですね」


 余程機嫌がいいのか、雅之はワインの残りを一気に煽ると、口角を上げて楽し気に、話を再開した。


「千夏の結婚というのも、実にめでたいとは思いませんか? 政略結婚とはいえ、相手は一流企業の御曹司ですからね。川崎財閥の末娘としては、軍に行くしか道がないより、はるかに幸せだと思いますよ」


 この晩は、いつも以上に雅之が饒舌だった。

 自分事とはいえ、結婚の話を耳に入れるとさらに憂鬱になりそうだったので、千夏はそれ以上聞くことを意図的にやめた。

 話しかけられることのないように、母が心配することのないように、千夏は目の前の肉を小さく切り分け、作業のように黙々と口に運んだ。


 普段食べているものと比べるまでもなく高級品であり、質のいい油が口の中に広がっているはずが、まるで味がしなく、ゴムでも噛み千切っているように千夏には感じられた。

 真輝の作った料理のほうが、おいしかったな、とふと考えたあたりで、涙が込み上げてきた。ぎゅっと瞼を閉じ、思考を切り替えようと必死に目の前の夕飯に意識を向ける。


「千夏」

「っ」


 父の低い声にびくりと肩を小さく跳ねさせた千夏は、恐る恐る顔を上げた。


「なんでしょうか、お父様」

「無理に敬語などいい」

「……」


 どうせ末娘。上品なふるまいを求められるわけもない。そう理解した千夏だったが、かといって今更砕けた口調に戻れる空気でもない。


「それで、あの……」

「なんだ。聞いていなかったのか?」


 父の言葉に、血の気が引いていった。意図的に聞かずにいたのが裏目に出たのだ。

 雅之もあきれた様子で肩をすくめている。


「すみません。聞いていませんでした」

「お父様が心配しているというのに、千夏はまったく」

「雅之。お前が気にするようなことじゃない」

「それもそうですね」


 千夏のことなど些末事。そういう意味だろう。


「で。千夏」

「はい、お父様」

「結婚相手の写真はもう見たのか?」

「い、いえ。まだ、です」


 怒られるだろうか。いや、考えるまでもないだろう。

 逃げ出し、連れ戻され、挙句これでは、家のことを顧みない不幸ものだと思われたかもしれない。


「す、すみません」

「……嫌なのか?」

「え?」

「結婚したくないのかと聞いている」

「っ……それは」


 したくないに決まっている。尋ねるまでもないだろう。

 そんな本心を押し殺していた千夏に、父は追い打ちをかけた。


「正直に話せ」


 家のために首を縦にふれと、暗に言っているのだろう。

 千夏は唇を噛みしめつつも、必死に笑顔を作り、答えた。


「いえ。結婚したくないなどと言うことはありません」

「そうか」


 短く答えた父は、残り少ないステーキ肉に視線を落とした。

 そうして、永遠にも思えるほどの長い夕飯は過ぎていった。




 ようやく私室に戻って来た千夏はベッドに腰を下ろすと、ため込んだ鬱憤を吐き出すようにゆっくりと息を吐いた。

 桐生祭りに行った日から、もう三日が経過していた。千夏にとってみればもっと長い時間を過ごしたように感じられたかもしれない。


 今までだって、実家にいるときは一人で私室に引きこもってばかりいた。家族の目だけでなく、使用人たちの目すら自分を責めているように感じられたからだ。


 ようやく一人暮らしをできているというのに、これでは結局、何も本質は変わっていないのだと痛感するばかりであった。

 そんな今の千夏にとって唯一の心の支えは、夏祭りのあの日、連れ戻されるときに山下が耳元で囁いた言葉だ。



 ――大丈夫さ。信じてくれたまえ。



 でも、それから何もない。やはり山下であっても、もうどうにもできなかったのだろう。


「仕方、ないよね」


 自分に言い聞かせるように千夏はぽつりとこぼし、自嘲気味に笑った。結局、自分だけが去年から何も成長していない。

 たいそうな理想を真輝に語ったが、それももう無理だ。結局、山下なしでは……自分一人では何もできない半端ものだ。


「大丈夫。だって、結婚は形だけだもん……」


 そう言葉にして出した途端、涙が込み上げてきた。やっぱり嫌だ。心からそう思った。そんな時だった。


「大丈夫じゃねぇだろうが」

「っ!」


 顔を上げた川崎は、窓際にたたずむ一人の少年の姿を確かにとらえていた。


「き、桐原、さん……?」


 真輝は数歩歩み寄り、川崎を見下ろした。


「悪いな、俺で。けど、どうしてもお前と話がしたかった」

「え?」

「川崎。お前の本心を聞かせろよ」

「っ……」


 榛名山の稜線を照らす月明かりが、真っ暗な部屋にわずかな光を差し込ませ、千夏の輪郭に影を作った。

 視線をさまよわせ、唇を噛みしめながらも、千夏はゆっくりと口を開くのだった。

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