第3話

3話 緑の宝珠


 翌朝、いつものように朝早く起きた萌麗はさっそく庭に出た。朝露に濡れる菊や牡丹。秋の庭は穏やかな美しさがある。それらに水をやりながら、ぼんやりと花たちに見入っていた時だ。突然、門の方からドンドンと大きな音が聞こえた。


「失礼! 恒春宮とはここか!」


 年若い少年の声だ。萌麗はただでさえ人の寄りつかないこの宮にこんな時間に来るなんて何事か、とすぐに部屋に戻った。


「あ、公主様……」


 すると、珍しく陽梅がひどく狼狽した様子でおろおろと萌麗に近づいて来た。


「どうしたの?」

「そ、それが……神龍様とその従者の方が来られて……」

「え?」

「昨日のお礼をしたいと……公主様とりあえずお召し替えを」

「ああ……そ、そうね」


 萌麗は着替えさせて貰いながら、昨日の今日でまた彼に会えるなんて思いもしなかった、と内心浮き立つような気持ちがした。


「……お待たせいたしました」

「このような時間にすまない。出立前にここに寄りたくて、こんな時間になってしまった」


 客間に現われた慧英は、萌麗に会釈をした。その後ろから利発そうな少年従者が箱を手に現われた。


「我が主慧英より、昨晩の牡丹の礼をお持ちしました」

「まあ……素敵なかんざし」


 雲龍の意匠の金のかんざしがその箱には入っていた。


「ありがたく頂戴いたします」

「ああ、昨日の装いを台無しにしたお詫びだ。それにしても……立派な庭だ。少し見てもいいか?」


 萌麗がお礼をいうと、慧英は頷きながら庭に目を移した。


「もちろんどうぞ」

「どれどれ……」


 庭に出て花を手にした慧英は顔色を変えた。


「これを全部、そなたが?」

「え、ええ……」

「これほどまでに地上に花を咲かせることができるとは……もしや、そなたの母上は花仙ではなかろうか」

「いえ、元はこの後宮の女官でした。美しい方でしたが……」


 そう萌麗が答えた時だった。目の端に、強い光が映った。


「え、何……?」


 見れば萌麗の寝室の窓から光が漏れ出ている。火事か。いやそんなはずはない、と萌麗は動揺した。


「あれは……失礼」

「あっ」


 すると止める間もなく慧英はその窓に近づいた。慌てて萌麗はその後を追う。


「ここは?」

「私の寝室です」

「……もしやこの部屋に宝玉がなかったか? このくらいの大きさの」

「それは……ちょっと待ってください」


 萌麗は意を決して部屋の中に入った。すると目に入ったのは光り輝く母の形見の宝玉だった。


「母上……」

「これか……」


 いつの間にが慧英も後ろからついてきていた。慧英がその宝玉に触れると光は収まった。


「緑の如意宝珠『歳星』。ここにあったとは。百花娘々……見つけていたのか……」

「あの……」


 話の意味がわからない萌麗がおずおずと慧英に話かけると、慧英はハッとして彼女を見た。


「ああ、すまない。俺の探している天帝の落とし物の一つがこれなのだ。これは緑の如意宝珠と言って病気や苦悩を遠ざける力がある」

「そんなことが……」

「ただし神仙にしか扱えない。人にとってはただの宝玉にすぎない」


 萌麗は慧英の手の中の宝珠を覗き混んだ。光を失ったそれはこれまで萌麗の部屋にあったものに違いなかった。


「これは母の形見なのです」

「うむ……ではやはりそなたの母は花仙に違いない」

「なぜそう思うのです?」

「二十年ばかり昔にもう一人、宝珠を拾いに行かされた神仙がいたのだ。彼女の名は百花娘々。そのまま今まで行方が分からないままだ」


 萌麗は呆然としてその話を聞いていた。となれば萌麗は花仙の娘、半分神仙の血を引いていることになる。


「母はもう亡くなりました……二十年もどうして放って置いたんですか? それは大切な物なのでは」

「天界の時間だと二十年はあっという間なのだ」

「……この宝珠はとある方から預かっているので、その人が取りにきたら渡すようにと母の遺言を預かってます。それが……あなたなのですね」

「そうなるな。この宝珠、譲り受けてかまわないか」


 慧英の問いかけに、萌麗は頷いた。


「ええ、ただ……一つお願いがあるのです」

「なんだろうか、どうか言って欲しい」

「兄の……皇帝陛下の気鬱を治して欲しいのです。彼は本当は聡明な皇帝のはずなのです。その緑の宝珠は病気や苦悩を取り除くと言いましたよね」

「なるほど……ではこれから旅の出立の挨拶の際にこの宝珠を使ってみよう」

「お願いいたします!」


 萌麗は思わぬところで願いが叶ったことに喜んだ。これで皇帝が正気を取り戻したらあの道士、東方朔を追い出してくれるだろう。彼の所為で皇太后は国の威光と称し贅沢三昧をやめない。彼の為の巨大な寺院まで作ろうとしているのだ。その為に巨額の税が取り立てられていると聞く。萌麗は胸に希望を宿しながら、慧英が宝珠を使ってくれるのを待った。


「ねぇ、陽梅。皇帝陛下が良くなるといいわね」

「そうですね、公主様」


 そう言いながら、二人は知らせがくるのを待っていた。


 その頃、慧英は皇太后と皇帝を前に出立の挨拶をしていた。


「出立にあたり、お二方の健康を神仙の法具にて祈願いたしましょう」


 慧英は緑の如意宝珠を掲げ、仙力を籠めた。宝珠からきらきらと光る煙が出て皇太后と皇帝を包み混む。


「おや、肩のこりが軽くなった。神龍殿、まことにありがたい」

「……」

「……そうですか」


 肩こりが治ったと喜ぶ皇太后の横で、皇帝は無言のままだ。ちらりと慧英が皇太后の斜め後ろに控えて居る男を見ると、その男は口の端をにやりと吊り上げていた。

 どうやらあれが東方朔らしい。遠目には細身の優男のように見えたが、こう見るとただの人間とは思えない、不気味な雰囲気を発していた。


「どうでしたか」


 従者の紫芳しほうが小声で呟く。慧英は軽く首を振り、彼に伝えた。


「先程の場所に伝えて欲しい。なにも起こらなかった、と」


 それを聞いて、紫芳はすぐさま立ち上がり、恒春宮へと駆けていった。


「……それでは我々は旅に出ます。見送りは結構」


 慧英は皇太后と皇帝にそう言うと、踵を返した。


「もし!」

「……来たわ」


 慧英の従者の声が門からして、二人はせわしなく迎えに走った。すると全速力で駆けてきた紫芳は息を荒げながら事情を説明した。


「……え?」

「ですから、宝珠は効かなかったのです。皇帝はなんの変化も起こしませんでした」

「そんな……」


 萌麗は絶望した。神仙の力を借りても彼を救えないのか、と……。膝から崩れ落ちそうになった萌麗を支えたのは、少し遅れてやってきた慧英だった。


「彼は病気ではないようだ。なにか別の原因があるのかもしれん」

「……! あの道士です。皇太后のお気に入りの東方朔というおかしな道士が宮中にいついているのです」

「ああ、確かに妙な男がいた……しかし俺が見破れんほどの呪いだとすれば、下手に手を出すと皇帝の命が危ういかもな」

「ああ……陛下……」


 萌麗の瞳から涙がこぼれた。もし呪いというのなら、今の状態は皇帝にとってどんなに苦しいのだろうか。


「……公主殿」


 そんな萌麗を、慧英は気の毒そうに見ている。彼は、萌麗に肩を貸して椅子に座らせた。


「なあ、公主殿。俺が集めなくてはならない如意宝珠はあと四つある。これを探し出せば皇帝を救えるかもしれん。宝珠と宝珠はお互い引き合う。この緑の宝珠がきっとありかを教えてくれると思う」


 萌麗はそれを聞いて顔を上げた。


「本当ですか……!」

「ああ、きっと探し出してきて見せるからしばし待たれるとよい」


 そう言って慧英は立ち上がった。が、その場から動けずにいた。なぜなら萌麗が袍の裾をがっちりと掴んでいたからだ。


「……その旅に私も連れて行ってください!」

「公主殿……?」

「ただ待っているだけなんて嫌です。それに……二十年をついこの間のような天の時間の感覚で探されては困ります!」


 慧英ははじめて狼狽えた。ただの大人しそうなお姫様に見えた萌麗が思わぬ意志の強さを見せたからだ。


「しかし……旅だぞ。地上に降りた際に人界を混乱させぬよう人型でいるようにと天帝に命じられた。なので馬車での旅になるぞ」

「平気です! 庭仕事でそこらの女官よりも私は丈夫です」

「……」


 慧英はひとつため息を吐いて萌麗の肩に手をやった。


「……わかった。根負けだ」

「慧英様!」


 それまでじっと話を横で聞いていた従者の紫芳が鋭い声を出した。


「遊びではないのですよ!」

「当然だ。私はこの娘の覚悟に感銘しただけだ、紫芳」

「まったく……」

「では、お前は宮殿にこのことを伝えてこい」


 仮にも一国の公主を連れ出すのに、慧英の指示に迷いはない。天帝の使者の言葉は神の声にも等しく絶対。皇帝であってもそれを覆すことはできない。


「はい……」


 紫芳は不満げな様子ながら、恒春宮を出て行った。


「ではそちらは疾く旅仕度を。待っているからな」

「は、はい!」


 萌麗は立ち上がって、横に控えていた陽梅に声をかけた。


「陽梅、旅の準備を!」


 それまでじっと事態を見守っていた彼女はびくりと肩をすくめた。


「公主様、本気ですか」

「もちろん!」

「ああーっ、もう! ならば私も付いて行きます! 公主様だけでは心配です!」


 陽梅はやけくそ気味にそう言った。だが言いだしたら聞かない萌麗のことを一番よく分かっているのは彼女だった。

 陽梅は数少ない彼女の衣装をとりあえず行李に収めて、ありったけの路銀になりそうなものも集めた。それから大急ぎで庭師に駄賃を渡して庭の水やりまで頼んだ。


「準備は出来た? 陽梅」

「ええ、ばっちりです」

「さすがね」

「こちらの準備も出来たようだ。では出立しようか、公主殿」


 こうして、天帝の使いと帝国の公主という不思議な組み合わせの旅がはじまったのだ。

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