尋問
第15話
玄関のドア前で固まって動けないでいる菜々子。このドアの向こうで浩司は菜々子が出てくるのを待っている。どうしよう、居留守を使うべきか……いや、すぐ側の洗面台で夕羅がドライヤーを使っている音が漏れ聞こえているはずだ。外側にある電気メーターは速く動いているだろうし、自分が玄関に近づく際、特に足音に気を付けるようなこともしなかった。
絶対に、浩司は家に自分がいることがわかっている……菜々子がそう思考を巡らせた瞬間、2度目のチャイムが鳴った。
「菜々子ー、いるんだろ?」
やはりだ。ドアを開けるのを待っている。バクバク煩く鳴る心音を収めようと胸に手を置き、菜々子は恐る恐るドア越しに返事をした。
「……何、しに来たの?」
「昨日のこと、謝ろうと思って。1回話そう」
そもそも浩司に傷つけられて顔も見たくない状態であることに加え、今は家に夕羅がいる。しかもつい数分前まで浴室でイチャついていたのだ。当然ながらドアを開けたくはない。
「……嫌だ、話したくない」
菜々子の心の内には浩司への怒りの感情と、浮気行為直後の後ろめたさの両方があったが、前者の方の感情を強く持ってこのように返答した。とりあえず諦めて帰って欲しい……そう願うのとは裏腹に、浩司は食い下がってくる。
「頼む、きちんと顔合わせて話そうよ。シラフに戻ってから色々思い返して、酷いこと言ったって反省してんだ。菜々子が出てくるまで俺ずっとここにいるから」
謝りたいとは言っているが、結局自分勝手だなと菜々子は思った。自分が出てくるまで玄関先で待ってるなんて、かなりの迷惑行為だ。同じフロアの住人になんて思われるかわからない。かと言って警察に通報するのは気が引けてしまう。
菜々子がどうしたらいいか困っていると、状況を察した夕羅も玄関前までやってきた。菜々子の肩を優しく抱き、頼もしい声色で囁く。
「菜々子。ドア、開けよう」
「でも、夕羅さんがいるのもわかっちゃうんだよ?」
「何言ってんの、女同士なんだから友達で通せるでしょ? 菜々子のピンチに駆けつけたってことにするよ。っていうか実際そうだし」
夕羅の優しい笑顔を見て菜々子は少しだけ安心し、意を決してドアノブに手をかける。
「良かった、ありがとう菜々子……え?」
浩司は目の前の光景に面食らい、急に縮こまる。玄関のドアが開いてその先に立っていたのは菜々子だけではなく、その横で腕を組んでジッとこちらを睨みつけてくる美女がいたからだ。穏やかでふんわりした雰囲気の菜々子と違い、長身でスラッとしていて意志が強そうに見える夕羅は、浩司を怯ませるには十分な存在だった。
「お、友達……ですかね?」
「そうですよ。彼氏に酷いことされたって聞いて、慰めに来てたんです」
「すみません……」
「菜々子と話しに来たんですよね? 入ればいいんじゃないですか。私も同席しますけど」
3人は紅茶を飲みながら、菜々子の部屋のローテーブルを囲むことになった。喧嘩中のカップルと、表向きは彼女側の友達の女性という何とも異様で、気不味い取り合わせである。菜々子が3人分のホット紅茶を用意し終わるとようやく席に着き、落ち着いたところで夕羅が口火を切った。
「……で? その『話したいこと』は?」
夕羅は厳しい目つきで浩司の様子を伺っている。そういえば、夕羅が男性相手に話をするところをまともに見たのはこれが初めてな気がする、と菜々子は思った。商業施設内で菜々子や夕羅が働いているのはレディースファッションのフロアであるため、顔を合わせる従業員もほとんどが女性だ。飲み仲間のミッキーに関しては性別を超越した友人だし、基本“女の園”の中での夕羅しか見たことがなかったのだ。まぁでも、やはり男性は嫌いなんだろうということが雰囲気から見て取れる。
「とりあえず……菜々子、ごめん」
「とりあえず? 『とりあえず』謝るってこと?」
「あ、いや……そういう意味じゃなくて」
夕羅の厳しいツッコミに浩司はタジタジである。浩司のこのような姿も、菜々子は今まで見たことがなかった。男性嫌いで自我が強い夕羅と、優位な立場で他者と接したいタイプの浩司では相性が最悪だ。この最悪な空気を生み出した原因は自分なんだと、菜々子は若干の申し訳なさを感じながら、ただ黙ってその場にいるのだった。
「えっと……どうしたって言い訳にはなるんだけどさ。酔って潰れてたのを起こされて、慎也のこと聞いたからさ? 頭回らなくて配慮がないこと言ったっていう自覚はある……シラフに戻ってからヤバいことしたって気付いたっつーか。あ、それで! ちゃんと慎也に問い詰めたんだよ。慎也も菜々子が言ったこと嘘じゃないって」
菜々子は浩司の話に黙ってじっくり耳を傾けた。慎也がしらばっくれずに自分の罪を認めたのは意外だと初めは思ったが、よくよく考えれば罪の意識がないのであれば隠すことはしないだろう。聞かれたから事実だと答えただけなのかもしれない。
浩司は慎也の軽率な行為について注意をしたようだ。普通に考えれば自分の彼女に手を出そうとするヤツなんて、例え長い付き合いの友人だとしても絶縁したっておかしくないことだが、そこを注意だけで済ませるというのも引っ掛かりポイントではある。だが、これ以降菜々子とは顔を合わせないようにするという約束をしたとのことだった。
「俺と慎也は腐れ縁だからさ。縁を切るっていうのは正直難しい。だけど今後は菜々子をアイツに会わせないし、アイツよりも菜々子を優先するから」
一通り浩司の話を聞いた菜々子は、ようやく自分の意見を述べる気になった。
「配慮がないことを言った自覚があるってさ……じゃあ聞くけど、何が私を傷つけたのか具体的に言える?」
「具体的に?」
「そう。浩司の話聞いてると『何となくマズいこと言ったな』ぐらいの感覚なんじゃないかなって思えるんだよね。言ってみてよ、何処が悪かったのか」
「えっと……」
発言することに慎重になっているのか、浩司はまごついている。その様子を見て菜々子は溜め息を吐いた。
「まず、家で一緒に過ごしてる時に、勝手に来たあの人を追い返さなかったことが意味わかんない。お金を返す用が済んだらさっさと帰ってもらうように言うべきでしょ」
「それは、今後そうするつもり」
「は? 私と顔合わせないようにするって言ったじゃん、さっき。今後私と一緒にいる時に、突然現れるなんてことにならないようにするんじゃないの?」
「あーうん、それはそうだ」
「彼女を差し置いて勝手に酔い潰れたことも本当に無理。その間にあの人にセクハラされたって報告しても、悪ふざけだ大目に見てやれって言ったのも信じらんない」
「いや、それは本当に反省してる。軽率だったと思う」
「極め付けに『面倒臭い子』って言われたんだけど。ちゃんと覚えてるの、ねぇ!?」
「……ごめん」
これまで溜め込んでいたものを一気に爆発させた菜々子の問いかけに、浩司は短い謝罪の言葉以外は返す言葉もないようだ。夕羅は冷たい眼差しでこのやり取りを見届けていたのだが、菜々子が取り乱し始めると肩を抱き、優しい口調で寄り添った。
「菜々子、私は全然別れ話切り出したっていいと思ってるよ。謝ったら良いってレベルのことじゃないって」
「いやあの……お友達の方」
「夕羅です」
「夕羅さん。菜々子を心配してっていうことだと思うんですけど……一応僕ら2人の話なので、口出しはして欲しくないかな」
夕羅の存在を疎ましく思う浩司がそう言うと、夕羅は鼻で笑って対抗する。
「菜々子は優しい子だってわかってますよね? これだけ怒って声を荒げても、浩司さんを傷つけるようなことは言わないじゃないですか。それだけ優しい菜々子のことだから、きっと何だかんだ甘くなっちゃうんだろうなーって、私は心配してるんです。つーか貴方、菜々子のことナメてるでしょ?」
「ナメてるって?」
「従順で自分の思い通りに扱える女だと思ってるでしょ、って言いたいの。私、女を下に見るタイプの男許せないんだよね。菜々子がそういう男と、これからも付き合って欲しくないんです」
「ナメてないですよ、別に……」
「いやいや。ナメてないと出来ないような行動ばっかですけど?」
「夕羅さん、待って」
夕羅と浩司の言い合いがヒートアップしそうになっていると感じ、菜々子はすかさず口を挟んだ。
「夕羅さん、ごめんね。大丈夫だから」
「菜々子、ダメだよ甘やかしたら」
「……大丈夫」
どうやら自分が感情的になっていたとしても、周りの人間がそれ以上に感情的になると逆に冷静になれるようだ。また1つ新たな気付きがあったなと呑気なことを思いながら、菜々子は夕羅を抑え、落ち着いたトーンで浩司に語りかける。
「別れようかって考えたりもしたけど……とりあえずは浩司のこと信用して、今日私に向かって言ったことが本当か確認したいと思ってる」
「と、言うことは?」
「だから……一旦許す」
菜々子の下した決断に、浩司は安堵の溜め息を漏らした。と同時に夕羅は一瞬寂しげな表情を見せる。だがそれはほんの一瞬のことで、すぐにいつものサバサバした雰囲気に戻し、ケロッとした態度で浩司に話しかける。
「ま、菜々子がそう言うなら仕方ないね。じゃあ、これからは菜々子を悲しませるようなことしないでくださいね、浩司さん。近くで私が見張ってるってんだって忘れないでくださいよ?」
「は、はい……」
「お近づきの印に一緒に酒でも飲みながらお菓子パーティーでもやります? あー、でも確か昨日はテキーラ祭りやって二日酔いなんでしたっけ? じゃあノンアルでジュースとか紅茶にしときますか」
「いえ、結構です……今日はこれで帰ります。お邪魔だったみたいなので」
完全に夕羅への苦手意識が膨らんでいる状態の浩司は、そそくさと帰宅準備を始める。
夕羅と浩司は終始互いに牽制しているようだった。浩司から菜々子を奪い攫いたい夕羅と、自分が苦手なタイプの女友達を彼女から遠ざけたい浩司。静かに火花を散らせながら、菜々子と夕羅は玄関先まで浩司を見送りに向かう。
「じゃあ、菜々子。また連絡する」
「うん……じゃあね」
浩司は菜々子に声を掛けた後、夕羅に向かって軽く会釈をして家を後にした。足音が完全に遠ざかっていったのを確認すると、夕羅はすぐさま菜々子を抱きしめる。
「夕羅さん、なんかごめん……」
「いいよ、私は菜々子が出した答えを尊重するから。本音を言うと、あんなヤツなんてさっさと捨てて欲しいけどね」
「でも、私夕羅さんに感謝してる。今まで我慢してたこと、結構言えた気がするから」
菜々子がそう言って夕羅を抱きしめ返すと、夕羅はいつもの悪戯っぽい表情を浮かべた。菜々子の両脚を取り、子供を抱っこするように軽々と持ち上げたので、やられた菜々子は小さな悲鳴を上げる。
「ひゃっ、夕羅さん何してんの!?」
「感謝してるなら、お礼してよ私に」
「お礼って何?」
「お風呂の続き。ベッドに直行!」
夕羅は無邪気な表情で、菜々子を抱っこしながら寝室の方へバタバタと移動する。菜々子はそんな夕羅を見て呆れつつも、釣られて笑いながら夕羅の身体にしがみ付いているのだった。
浩司はマンションからある程度遠ざかってからふと立ち止まり、菜々子の部屋の窓を見つめた。当然部屋の明かりは付いている。今頃菜々子は友達の夕羅と家で女子トークをしている最中なのだろう……。
この日浩司は、菜々子の友達だという人物と初めて顔を合わせたのだった。勝手なイメージではあるが、菜々子は友達も本人と同じような大人しいタイプだと思っていた。だが、夕羅は明らかに菜々子とは違うタイプの人間だし、菜々子が『夕羅さん』と呼んでいたのも引っ掛かりがある。2人は友達同士と言うより、女子校の先輩・後輩の関係に近いような印象を持ったのだ。当然男性である浩司は女子校に通った事がないため、あくまでイメージ的にそう思ったということなのだが。また、夕羅の菜々子への接し方をじっくり観察してみたところ、友達や後輩とは違うような距離感ではないか……そんな気もしたのだ。
「あの女、注意しないと」
そう呟き、浩司はまた歩き出す。それまで浩司の中にはあまりなかった菜々子への執着心が、この時密かに生まれていたのだった。
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