狭い箱の中で

第14話

菜々子の家の浴室は決して広くはない。辛うじて風呂とトイレは別だが、1人暮らし用の浴室の広さだ。小さい浴槽は、2人で入るなら湯を張るのは半分までにしないと溢れてしまうし、髪や身体を洗うスペースだって身体を縮こめてようやく一緒に使える程度だ。そんな狭い空間で、菜々子と夕羅は洗い合いっこをしてから一緒に湯船に浸かった。

 昨日からそのままだったメイクを落とし、慎也に触られた部分も綺麗に洗い流したところで、菜々子はようやく平常心を取り戻した。夕羅が家へ来て慰めてくれなかったら、一緒にお風呂に入ろうと誘ってくれなかったら、きっと今頃は怨念の化身となっていたことだろう。本来の穏やかな人間性を失わずに済んで良かったと、菜々子は温かい湯を纏いながら心底そう思った。


「ああー、生き返った……」


 菜々子がそう口にすると、夕羅は吹き出すように笑う。


「今の菜々子、銭湯にいるオッサンみたい」

「オッサンじゃなくても、お風呂に入ったらみんなこうなるよ!」

「スッキリした?」

「……うん、めちゃくちゃスッキリ」


 お互い脚を折り曲げ、向かい合って湯船に浸かっている菜々子と夕羅。最初は狭い狭いと騒いでいたが、慣れればどうってことない。密着して入浴しながら、そういえば夕羅のすっぴんをあまり見たことがなかった、と菜々子は気付く。いつもロックテイストなファッションに合わせて、黒いアイラインをガッツリ入れるような強いメイクを好む夕羅だが、すっぴんでも十分見惚れるほどの美人っぷりだ。そして透き通った白い肌に散りばめられた無数のデザインタトゥー。中でもやはり腰の部分に施された鮮やかな蝶に目が行ってしまう。


「夕羅さんのタトゥーって、全部何か意味があるの?」

「意味?」

「だって、良く言うじゃん。デザインにそれぞれ意味があるって」


 例えば定番のデザインである髑髏どくろは、タトゥーの場合“誰であれ死は平等に訪れる”ということから平等の象徴という意味を持つ。そんなメッセージを込めてデザインを施す人もいれば、自分にとって大切な言葉を文字で身体に残す人もいる。夕羅のタトゥーにも1つ1つ何か特別な所以があるのかもしれないと、菜々子はふと思ったのだ。

 しかし夕羅の返答はそんな予想に反し、まさに彼女らしいものだった。


「確かに彫る時、彫り師にそんなこと言われたな。でも私の場合はあんま関係ないんだよね。その時に入れたいデザイン頼んでただけ」

「そーなんだ……この蝶も? 一番目立ってて、メインって感じするけど」

「あー、この蝶にだけは意味あるよ」


 夕羅は菜々子が見つめる、自身に留まったままの蝶に触れる。


「彫り師にさ、蝶は“変容へんよう”の意味があって、女性に人気があるデザインなんですよーって言われたんだ。だけど私にとって、これはそんなんじゃない。1箇所に留まることなく、いつでも好きに飛んでいけるようにって意味なの。私はずっと、そうやって生きていきたいから」


 なるほど一貫している、と菜々子は思った。初めて夕羅と関係を持った日に感じたことと全て繋がってくる。住む家には必要最低限の物しかなく、もし嫌なら異動願出すか退職して消えると言っていた夕羅。きっちりと身体に刻んだ蝶を、彼女は体現しているようだ。

 だが菜々子の感心を他所に、珍しく夕羅は寂しげな表情を見せた。


「でもさ、それはあくまで自分の話なんだよね。私じゃなくて、誰かが私の元から去っていくのは、すごく寂しいことなんだって最近気付いた」

「え?」

「一希、あの店飛んだんだって」


 それを聞いた菜々子は、驚きよりもやっぱりか……という感想を持った。無論いつかそうなるだろうと思っていたが、予想よりも早かったみたいだ。それだけ一希は夕羅に対して限界を感じていたのだろう。


「店からさ、飛んだのはお前のせいだって言われたよ。そんで即出禁だよ、マジウケる。まぁ確かに悪ふざけが過ぎたのかなーとは思うけど……だったら直接言って欲しかったな」

「一希さんは真面目で優しい子なんだよ。だから夕羅さんには平気なふりをしてた」

「なんか……その言い方だと、菜々子は知ってた風に聞こえるんだけど。一希が本当は私のこと嫌がってたって」


 じっとりとした視線を菜々子に向ける夕羅。実のところ、菜々子は非常に気分が良かった。いつも夕羅と一緒にいると自分は振り回されてばかりだが、今の夕羅は少し弱っていて、こんな姿を彼女が見せることは中々ない。これまで振り回され続けてきた蓄積分、菜々子は仕返しをしたくなっていた。


「知ってたよ。一希さんにトイレで打ち明けられたもん」

「やっぱりそうなんじゃん! なんで教えてくれなかったの!?」

「だって、絶対に言わないでくださいって口止めされてたし。っていうか、教えたところで夕羅さんは心入れ替えてセクハラ一切しなくなるの?」

「ぐっ、それを言われると……」


 キツめの指摘をすると言葉を詰まらせた夕羅。よしよし、そうだ。そうしてこれまでの破天荒な振る舞いを少しでも反省すれば良い。と、菜々子はほんの僅かな時間勝ち誇った気分に浸っていたのだが、どうやら夕羅にとって今回のことはかなり深刻な問題のようだった。


「私、よく自分と他人の境界がわかんなくなっちゃうんだ。だから相手の気持ち考えろとか、察しろとか言われても、なんかピンと来ない。自分にとってはなんでもないことなのに、何がそんな問題なんだろうって思うこと、いっぱいある。親しくなった人ほど自分の一部みたいな感覚になるから、今回一希が急にいなくなったことも、私の身体にポッカリ穴が空いたみたいな……そんな感じがする」


 夕羅が言っていることに全く共感出来ない。出来ないが、菜々子には何故夕羅がそんな人間に形成されてしまったのかは理解出来る。

 突き詰めるところ、彼女が美しく生まれてしまったが故の、弊害なのだ。夕羅の詳細な生い立ちは知らないが想像できる。きっと幼い頃から可愛い、綺麗と持て囃され、何不自由なく生きて来れたのだろう。レズビアンという性的マイノリティーであってもだ。そのコミュニティーの中でも、美しいと一目置かれる存在だったに違いない。

 女性は美しく生まれると、それだけで勝ち組であることを菜々子は知っている。外見より内面だと言う人もいるが、多少性格に難があろうとも顔が良ければ許される……そんな場面に何度も遭遇してきた。自分のように地味で平凡な見た目で生まれると、人に好かれるため協調性を持つよう意識したり、少しでも平凡な見た目を補おうと身なりを気遣い、男性との出会いを求めてマッチングアプリに登録する……。男女問わず他人から好かれるようになりたければ、そんな努力を積み重ねなければならない。

 夕羅は今まできっと、このような菜々子にとっての当たり前の努力が必要なかったのだろう。そりゃあ自己中心的な性格になってもおかしくない。


「じゃあ、そんな自分を見つめ直さないとね。夕羅さん」

「……菜々子は、居なくならないよね?」


 夕羅はグッと菜々子に近づき、切なげに見つめた。答える代わりに、菜々子は目の前の唇を塞ぐ。お互いの唇の感覚をしっかりと確かめ合うと、菜々子は夕羅の身体にしがみつき、耳元で囁く。


「私は居なくならないよ。一希さんと違って、私は夕羅さんに取り憑かれてるみたいだから」


 菜々子は決して、この自己中心的な美女のことを嫌うことは出来なかった。多少性格に難があろうとも、彼女の美しさと心を掴んで離さない魅力の方が勝ってしまう。菜々子も許してしまっている側なのだ。



















「菜々子っ……それ、誰に教わった?」

「誰って、夕羅さんがいつも私にしてることだよ?」


 夕羅を浴槽の淵に座らせ、菜々子は執拗に夕羅の陰部を舐め上げた。これまで夕羅から受けた愛撫の1つ1つを思い出しながら。

 普段タチである夕羅は、菜々子から攻めれることに慣れていない。プライドが許さず必死で声を抑えるが、それでも甘い吐息は漏れ出てしまう。


「ねぇ、気持ち良いなら言ってよ」

「嫌だ、言いたくない……」

「強情だなぁ。ま、別にわかってるから良いけど。凄い濡れてるし」


 菜々子は夕羅から滴る体液を指で掬い上げて見せ付ける。風呂の湯とは明らかに違う、粘り気のある液体。菜々子の口淫で感じていることの証明である。


「ねぇ、夕羅さん」

「な、にっ」

「なんで私の家まで来てくれたの? 私んち普通に遠いじゃん」

「は、菜々子がクソ彼氏のことで落ち込んでたからでしょ……」

「へー。それで退勤後に飛んで来てくれたんだ? めちゃくちゃ愛感じるんですけど」

「何が言いたいの……」


 少しイラついた口調で反抗する夕羅。自分は快楽で飛びそうになるのをどうにか堪えている状況だというのに、何故か菜々子が優位に立ったようなつもりで煽ってくるからだ。

 こんな夕羅の珍しい姿をずっと眺めているのもそれはそれで楽しいだろうが、菜々子はそれよりも夕羅に認めさせたいことがある。だって普通に考えてそうだから。


「落ち込んでる私を放っておけないし、夕羅さんは私が離れていって欲しくないんだよね? それって、私のことが好きってことだよ。絶対私に恋愛感情抱いてるよね?」

「はぁ、何言ってんの……」

「一般的にね、人を好きになるってそういうことを言うの。良い加減ちゃんと認めてよ、私のこと好きって」

「調子乗んな……やっ」


 頑なに認めない夕羅に痺れを切らし、菜々子は口淫を再開した。感度が良くなる部分は自分がやられて知り尽くしている。舌で刺激したり吸い付いたりしているうちに、夕羅は声を抑える余裕がなくなったようで、聞いたことのない甲高い声で喘ぎ始めた。菜々子はその反応が楽しくなってしまい、時にはわざと淫らな音を立てるように刺激し、追い討ちをかける。すると、夕羅は自分では制御出来なくなった身体を浴室の壁に預け、小さく痙攣した……そう、絶頂を迎えたのである。

 それがわかると、菜々子は勝ち誇った表情で見上げ、顔を紅潮させた夕羅と目を合わせる。


「イったよね、夕羅さん。私で」

「はぁ……菜々子……マジで調子乗んなよ、何倍にもして返してやるから!」

「何倍にもって、ちょっと! やだっ……」























 その後2人は浴室の中で1時間近く戯れ合い、指先がふやけてしまったところで長い入浴タイムを終えた。

 お互いにタオルで髪を拭きながら笑い合う。元々は菜々子が慰めて貰っていたのに、ひょんなことから夕羅の弱さに触れたことで、自分達は決してどちらかが相手を支配しているような関係性ではないような気がしてきた。女性同士だが、今の姿を見れば誰もがカップルだと認識するのではないか。だってこれは、自分が憧れていた理想の幸せなカップルの日常そのものだ。自分達はセフレでもなく、友達でもない。正真正銘愛し合う恋人同士だ……まぁ、夕羅は認めてくれてないのだけど。

 そんな思考を巡らせている菜々子はこの時、幸せと希望に満ちていた。


 ……のだが。



 夕羅が長い髪をドライヤーで乾かし始めてしばらくした頃、突如玄関のチャイムが鳴り響いた。慌てて玄関に向かった菜々子が小さな覗き穴で来客を確認した時……全身に鳥肌が立つ。風呂で温まった身体も一瞬で凍りつくような感覚だ。何故なら、覗き穴の先に立っていたのは浩司だったのだ。

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