無自覚

第13話

早朝、菜々子は自宅に戻った。フラフラと寝室まで歩みを進め、メイクも服もそのままでベッドに倒れ込む。すると涙が次々とあふれ、シーツにこぼれ落ちてはメイクの色が滲んだようなシミを作っていく。

 きっと今の自分を鏡で見たらさぞ酷い顔をしていることだろう……でもどうでも良かった。自分の小さな努力の積み重ねは全て無意味なものだったと、絶望していたから。





 サービス業で正社員の菜々子にとって、土日2日間を休み希望で申請するのがどれだけ周りに気を遣う事なのか浩司はわかっていない。普段アルバイトスタッフにはなるべく土日祝は全部出てくださいとお願いする立場なのに、彼氏とのデートのために自分は2連休するのかよ、ときっと陰で言われているに違いない。それでも浩司の都合に合わせて休みを取り、2人で楽しめる海外ドラマや、お洒落で家飲みにぴったりなおつまみレシピを調べたりした。なのにこちらの都合も知らずに突然現れた慎也に乱入され、2人で食べるために作ったものも勝手に分け与え、海外ドラマを見ることが出来なくなるぐらいに浩司は酔っ払って寝てしまった。その間に友人が彼女に襲い掛かったとも知らず。


「襲われそうになった?」


 慎也が家を出て行った直後、菜々子は浩司を叩き起こし、つい先程起こった未遂事件について報告した。だが菜々子の深刻な面持ちとは対照的に、浩司は大量のテキーラによる頭痛でダルそうにしていた。浮腫んだ顔を手で擦り、寝起きなのに大声出すなよと言いたげな表情である。


「そう! セクハラ発言するし押し倒されたし、服の中覗いてきて下着見られたんだよ!?」

「なんだよ、そんなのアイツにとっては悪ふざけレベルじゃん……そういうヤツなんだから大目に見てやれよ」


 てっきり一緒に憤慨してくれるものだと思っていた菜々子は、浩司のこの反応が信じられなかった。だがすぐにあの時慎也が吐き捨てた言葉を思い出す……言ったって別に大したことないって返される。まさに予言通りだったではないか。


「大目に? それ本気で言ってる? 友達の彼女に手出そうとしたんだよ!?」

「いや、本当に襲われたわけじゃねーんだし……酔っ払ったノリとかあんじゃん。菜々子だってウブな真面目っ子じゃないんだからさ、そんぐらいわかるだろ?」


 自分の説明では深刻さが伝わっていないのか、それとも浩司も同じような価値観の“類友るいとも”だということなのか。菜々子の心には余計にイライラが積もり、語気も強くなっていく。


「そんなこと言われたって、私はあの人許さない。ぶっちゃけあの人が現れてから私の中の浩司の印象、どんどん悪くなってるよ? 友達付き合い見直して欲しいもん」

「いやいや……いくら菜々子が彼女だからって、俺の交友関係に口出しされたくないなぁ。つーか、菜々子よりも慎也との方が付き合い長いしな」


 浩司はムッとしながらそう言った。確かに浩司の立場からすれば、学生時代からの友人を交際期間半年程の彼女に否定されるのは面白くないだろう。だがそうは言われても、菜々子にだって譲れない思いがある。


「だったらせめて、私とは関わらせないで欲しい。今回みたいに突然家に来たとしても追い返してよ。私はもう2度と、あの人の顔見たくない」


 菜々子がそう言っても、まだまだ酔いが醒めていない浩司は溜め息を付き、再びソファーに寝転んで眠りに就こうとする。そして菜々子を深く落ち込ませる一言を言い放ったのだ。


「なんか……菜々子って意外と面倒臭い子なんだな」







 菜々子は自宅のベッドの上で1人、浩司の言葉を思い出して泣いた。自分の訴えは彼の心に届くことはなく、それどころか“面倒臭い”呼ばわりをされたのだ。やはり慎也の言う通り従順で都合の良い女でなければ、浩司にとって自分は価値のない存在なのだろうか……そんなネガティブ思考が頭を埋め尽くし、やがて疲れ果てて眠ってしまった。


















 ベッドのヘッドボードに置いてあったスマホが振動し、大きな音を立てる。気付けば夕方まで眠っていて、菜々子はこの振動音で目が醒めた。振動し続けるスマホを手に取り、画面を確認すると夕羅の名前が表示されていた。菜々子は意識がぼんやりしたまま応答する。


「……はい、もしもし」

「菜々子ぉ〜、昨日も今日も勤務中全然見かけなかったけど、休みだったぁ?」

「うん、そう」

「テンション低っ。寝起き?」

「そう、当たり」

「めちゃくちゃ塩対応じゃん。こっちはずっと寂しかったんですけどー」

「……セクハラする相手がいなくてつまんない、の間違いなんじゃない?」


 おそらく退勤したばかりなのだろう、夕羅は仕事から解放された時の清々しい声色で話しかけてくる。自分とのテンションの差にしんどさを感じ、菜々子はつい強くあたってしまう。


刺々とげとげしいなぁ、寂しいのは本当だし! つーか“セクハラ”って性的嫌がらせって意味なんだけど、菜々子って私のスキンシップを嫌がらせだと思ってんの?」

「さぁね、胸に手を当てて考えてみたら?」

「……ねぇ、何かあった?」


 菜々子の様子がいつもと違うと感じたのか、夕羅は少々真面目なトーンで問いかける。今の菜々子は夕羅に対して気遣いをしたり、心配をさせないように嘘をつく余裕もないため、聞かれたことにはありのまま答えるしか出来ない。


「あったよ、そりゃあもう酷いことが。浩司の家でお家デートするために土日2連休取ったのに、地元の友達だっていうクズ男がいきなり現れて謎にテキーラ祭り始まって。最終的に浩司は潰されて、その間に私はクズに襲われそうになった。股間蹴って阻止したけど。アイツにやられたこと浩司に報告しても悪ふざけだから大目に見てやれって言われるし、挙句の果てには面倒臭い女扱いされた……私の何処が面倒臭い女なの? 自分の友達の悪ノリに付き合わないから? そもそも彼女と一緒にいる時は友達からの誘いがあっても断るもんなんじゃないの!? 本当に意味わかんない……どうしたら一緒に楽しく過ごせるか、こっちが色々考えたりしてたこと全部無駄って言われたみたいですごく惨め……結局私、浩司に大切になんかされてなかったんだよ」

「菜々子」

「何、夕羅さんまで私のこと否定するの!?」

「違うよ。直接話聞いてあげるから、家の場所教えて」











 1時間もしないうちに、夕羅は菜々子の自宅までやって来た。チャイムが鳴った瞬間菜々子はベッドから飛び起き、玄関のドアを開けて夕羅の顔を確認するなり、その場に泣き崩れてしまった。夕羅は菜々子の目の前にしゃがみ込み、ボサボサになっている髪を指で梳かしながら語りかける。


「酷い顔だなぁ、メイクも落とさずに1人で塞ぎ込んでたの?」

「だって……もうどうでもよくなっちゃった……私がやることも、私自体も、何の意味もないから」

「そんなわけないじゃん。私は菜々子がいなかったら寂しいって言ったでしょ? 少なくとも私にとっては無意味な存在なんかじゃないよ」

「嘘だぁ! 夕羅さんだって、私が押しに弱そうって思ったから近づいて来たんだし……そんなの言われても説得力ないよ」

「おぉ……なんか今日ずっと発言鋭いね、疑心暗鬼モードなんだ」


 夕羅のツッコミに対し、揶揄からかわれていると認識した菜々子は力無く夕羅の肩を殴り付けた。夕羅はそれを抵抗することなく受け、代わりに菜々子の頭をわしゃわしゃと豪快に撫でる。するとそれまで人間を警戒する野良犬のようだった菜々子が、夕羅の肩にしがみつくように身を寄せた。夕羅もそれに応えて優しく包み込む。


 夕羅は決して甘々なスパダリタイプではない。例え今のように菜々子が落ち込んでいても、自分の本心に嘘は付かず、ありふれた慰めの言葉はかけない。指摘された通り、最初は押しが弱そうで顔が好みの系統だったからという理由で菜々子に近付いた。だが一緒に過ごすようになって、どんどんしっかりした人間に成長し、優しさと相手への尊重を大切にする菜々子が夕羅はいつの間にか好きになっていた。だからそんな菜々子を傷つけた浩司に、静かに怒りの感情を持ち始めている。しかし夕羅自身は、この2つの感情にまだ気付いていない。


「今日外寒かったんだよね……気付けば11月だよ。菜々子と仲良くなった頃は夏だったのに、あっという間に時間って過ぎていくんだね……ねぇ、一緒にお風呂入ろっか」

「え?」

「お湯ためて温まろ。嫌なことも全部綺麗に流しちゃってさ」


 菜々子を抱き寄せる手、優しく語りかける声、その全てに愛情が籠っていることに夕羅は自覚がない。何故なら今まで恋をしない、人を愛さないと自分に暗示をかけ続けてきたからだ。


 せめて夕羅自身が、菜々子への想いを認めることが出来ていれば……きっと幸せな未来を掴めていたはずなのに。

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